ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章10世とともに経の副読本②


世とともに教の説明
それぞれのパートごとの簡単な説明


初めにどこで、どのように説かれたかの文は省略して、最初のパートの説明


(以後ウダーナ1-10世とともに経は青い文字で記載します)


お釈迦様は、覚者の眼でもって世間を見渡しつつ生命が熱苦によって熱せられているのを、無数の苦悶によって身を焼かれているのを見ました。
貪り(貪)から生じるものによっても、怒り(瞋)から生じるものによっても
迷い(痴)から生じるものによっても


 熱せられている(santappamāne)とは、燃えている(ādittaṃ)と同義語です、そして、貪り(貪)、怒り(瞋)、迷い(痴)によってとあります、これは燃焼経(Ādittasuttaṃ)
の要約です。
 燃焼経の「燃えている」というのはお釈迦様の教えで最も重要な喩(たとえ)で、「無常・苦・無我」「五取蘊・六処・十二処・十八界」の教えを、「すべては燃えている」と喩えて、十八界という、ものの見方で、観察するのが悟りへの道と説いています。
 教えの内容については、燃焼経の説明をご覧ください


ここからは二つの詩の説明です、それぞれ世とともに経の詩、転法輪転教の四聖諦を語った部分、次にそれぞれの説明を記載しています、見比べてみれば、世とともに経の詩が言葉を変えて四聖諦を表しているのがお解りだと思います。


ウダーナ・世とともに経 一つ目の詩
世間の人々は、困っている /  接触(感覚)だけなのに、自ら病気だという
思い描き、考えても    /  現実には思い通りとはならない

(転法輪転教)
ところで托鉢僧達よ、これが苦という真実(苦聖諦)である
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
好まざるものとの出会いは苫しい(怨憎会苦)。好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)


解りにくいのでウダーナ・世とともに経の順番を変えます


(ウダーナ・世とともに経の要約)
世間の人々は、困っていて、自ら病気だという
思い描き、考えても、接触(感覚)だけなのに、
現実には思い通りとはならのに

(転法輪転教の要約)
この世間では生きることは苦であり、病だという
体は変化して老いても・死なないと思うこと、
要するに、五蘊に執着することが苦
苦しみというのは、現実には思い通りとはならないということ



ウダーナ・世とともに経 二つ目の詩
世間の人々は、変化するのに,     /  生存を望み、生存に負け、生存を期待する
大いに喜ぶ時でも、それは恐れである /  恐れが生まれる、それは苦しみである
この生存欲を捨てるのに       / 清らかになる修行を実践する

(転法輪転教)
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
それは、渇愛と再生をもたらしあれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち
欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛ある


(ウダーナ・世とともに経と転法輪転教の要約)
苦しみが生じるのは、生存への欲望(生存への渇愛)(bhavasatto)が原因で
喜び(歓喜)を感じ求めているが、世の中は変化している
喜びは恐れである、それは変化せず永遠に生きていたいから
欲望への欲(kāmataṇhā)をつくる、そして恐れをつくるのは生存への欲(bhavataṇhā)で、恐れを捨てるには、この存在自体(vibhavataṇhā.)を捨てればいいとなる
しかし、本当の意味で捨てるには修行すること。



修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ生存(有:実体)によって実体的に生存の解放を言ったなら、
『彼らは、その一切が常住論者であり、迷いの生存から放していない』とわたしは説く
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ、非生存(非有:虚無)によって虚無的に生存の離脱を言ったなら、
『彼らは、その一切が断滅論者であり、迷いの生存から離脱していない』とわたしは説く


上記の文は、転法輪転教の中道の説明にあたり、同時に八聖道の説明にあたります、インドは論議好きのお国柄で、お釈迦様の時代のインドでは、魂は永久不滅である(常住諭)、死ねば全て無くなる(断滅諭)、という二つの極端な教えがあり、その両方も煩悩(迷いの生存から)から離れていない、つまり悟っていないと説いています、お釈迦様の教えは、どちらの極端でもなく中道です。
内容については無我の説明も参考にしてください。



この苦しみは、心の依り所(Upadhiñhi)を縁として生じる。
全ての執着を滅することで、苦しみは生まれない


心の依り所(Upadhiñhi)は渇愛・執着と同義語です。


 十二縁起とは生物が生きていく過程では無数の縁起がありますが、その生物(人)が生きていく過程(プロセス)を、お釈迦様がポイントになる十二支を選んで説明しています、その最大のポイントは、苦しみが生じるのは執着が原因、執着を滅すれば苦しみは生まれないです。つまり上記の文は十二縁起の核心部分を語っています。一行目は十二縁起の順観、二行目は逆観を語っています。


世間の人々を見よ、無明に打ち負かされ生まれた生命であり、生命であることを喜ぶ者であり、迷いの生存から完全に解き放たれていない、迷いの生存は、どこであれ、どのような存在でも、


世間の人々は、無明に捉われいる。
執着の原因は十二縁起でたどっていけば、無明です。人は迷いの生存であり、とつづきます



sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
『それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである』


上記の文は無我相経(Anattalakkhaṇasuttaṃ)からのものです。
変化を法とする(vipariṇāmadhammāt)とは無常と同義語であり、無我と同義語です。
この文は、「無常・苦・無我」という仏教の三法印と呼ばれる仏教の教えそのものです。


下記の文は転法輪転教でコンダンニヤ尊者が四聖諦を理解した時の言葉です


Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」と。


二つの文は同じ意味です、無我相経は、転法輪転教を、お釈迦様がさらに詳しく五人のビクに説いた教えで、五人の比丘が理解した内容が上記の文です、つまり、お釈迦様の教えの核心部分です。コンダンニャ尊者が理解したのと同じ意味の言です。


ここから二つの詩により涅槃がかたられます


ウダーナ・世とともに経 三つ目の詩
このように、事実の通りに / 正しい知慧により、観ていると
生存欲は捨てられる    / 非生存を喜ばない
渇愛を、全て滅すること  / 貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃がある

(転法輪転教)
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
それは渇愛を離れることによって、その渇望を完全に滅すること、捨てること、放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。


(ウダーナ・世とともに経と転法輪転教の要約)
苦しみが滅するというのは、智慧により正しくものごとを見て
生存欲を捨て、非生存欲を喜ばない
全ての渇愛を滅すること
貪りを離れ、止滅することが涅槃である


ウダーナ・世とともに経 四つ目の詩
このように涅槃に到達したビクは、/ 執着がないので、さらな生存はもうない
まよいに、打ち勝ち       / 無数の生存を、乗り越えた

(転法輪転教)
ところでビク達よ、これか苦しみの滅へと導く道という真実(道聖諦)である。
それは八つの支分からなる聖なる道である。それはすなわち、
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である


苦しみが滅した人とは、このような人であるとお釈迦様はかたっています、転法輪転教では道を歩んできた人に、具体的に正しい道をかたっていますが、これから歩みはじめる人に、歩み終えた人をかたることで、道を指し示しています。


ここでは内容の説明は他に譲り、どの経典の教えかの対応関係を記載しました。




五取蘊をキーワードとして学ぶ例


生命が熱苦によって熱せられている(satte anekehi santāpehi santappamāne, )
すべては燃えている(ādittaṃ. Kiñca)(燃焼経より)
この二つの文は同じことを指している。


 五取蘊(S.pañcopādānaskaandha, P.pañcopādānakkhandha)とは五つの執着の蘊(kkhandha)集まり、という意味で、五蘊とは人を含む「生命」(名色)を指し、五つの枝という意味もあり、執着(upādāna)は燃料という意味もある、つまり、「五つの執着の集まり」と「五つの薪(燃料)の集まり」という二重の意味があり、同時に十二縁起では「苦の集まり」を、四聖諦では苦そのものを意味する「五つの執着の集まり」を指している(無我について参照)
 燃焼経は、薪(燃料)が燃えている、という喩で生命が熱苦によって熱せられていること、これは、六処という場所で接触(触)して感覚(受)を生じて渇愛を生じて執着が生じる、この説明が十八界で、燃えているとは生きている生命であるということで、生命とは有(存在)である、この生命は、行(業)が形作り、識(心・意識)があり、名色(体と心)が生じ、存在し、生(生)まれる、そして熱苦(santāpehi)、これは苦、貪瞋痴と同義語で。苦によって熱せられているという意味となる。生きるとは苦であると言い換えても同じ意味です。


 燃焼経の後に転法輪転経から四聖諦の苦諦と集諦のことがかたられます


つづいて、転法輪転経の中道の内容が、かたられます、この時期の世間の状態が反映され、極端に陥るな、悟りに関係のない議論はするなという、実践的な戒めも含まれています。


つづいて、縁起の教えが語られる、苦しみが生じるのは執着が原因(順観)、執着を滅すれば苦しみは生まれないという教え(逆観)で、苦しみとは五取蘊が執着(燃料)により生きる(燃える)ことで、苦しみを滅するとは五取蘊の執着(燃料)が滅すること、とかたりた


つづいて、無我相経から、五取蘊という、「生きている五つの執着の集まり」「五つの薪(燃料)の集まり」を観察すれば、絶えず変化して、それは無常であり、それは苦(永遠の神の世界でなく、人の生きる世だから不完全・不満足)つまり、無常・苦・無我だと悟る、これは四聖諦の悟りと同じことです。


最後に転法輪転経から四聖諦の滅諦と道諦のことが語られます、これは苦諦で語られた「五つの執着の集まり」が滅すことと、その道を語り終わります。

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