ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第8章8ヴィサーカーの経(現代訳・解説)


8.8 ヴィサーカーの経(78)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
 東の聖園にあるミガーラ・マートゥの高楼(鹿母講堂:ミガーラの母のヴィサーカーが寄進した堂舎)で、ミガーラの母のヴィサーカーの可愛がっていた孫が命を終えたのです。ミガーラの母のヴィサーカーは濡れた衣濡れた髪で、朝も早くからお釈迦様のところに行き近づいて、ご挨拶(あいさつ)してかたわらに坐りました。
 ミガーラの母のヴィサーカーに、お釈迦様は声をかけました。
 「ヴィサーカーさん、濡れた衣濡れた髪で、朝も早くからここに来たのですか」
 「尊き方よ、わたしの愛しく可愛い孫が命を終えたのです。それで濡れた衣濡れた髪で、
  朝も早くから参りました」
 「ヴィサーカーさん、サーヴァッティーにいる人の数の、子や孫を得たいですか」
 「世尊よ、わたしはサーヴァッティーにいる人の数の、子や孫を持ちたいです」
 「ヴィサーカーさん、どれだけ多くのサーヴァッティーの人が、毎日命を終えますか」
 「尊き方よ、十の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、九の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、八の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、七の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、六の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、五の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、四の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、三の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、二の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、一の人がサーヴァッティーで毎日命を終えます。
  尊き方よ、サーヴァッティーでは命を終える人たちに出遭わないことはありません」
 「ヴィサーカーさん、そうだとしたら、あなたは、いつでも、どこででも濡れていない衣
  をつけ、濡れていない髪でいることはないではないのか」
 「尊き方よ、とんでもございません。尊き方よ、わたしには、それだけ多くの子や孫を死
  に別れるのはもう十分です」
 「ヴィサーカーさん、
  百の愛しい人がいるなら百の苦しみがあります。
  九十の愛しい人がいるなら九十の苦しみがあります。
  八十の愛しい人がいるなら八十の苦しみがあります。
  七十の愛しい人がいるなら七十の苦しみがあります。
  六十の愛しい人がいるなら六十の苦しみがあります。
  五十の愛しい人がいるなら五十の苦しみがあります。
  四十の愛しい人がいるなら四十の苦しみがあります。
  三十の愛しい人がいるなら三十の苦しみがあります。
  二十の愛しい人がいるなら二十の苦しみがあります。
  十の愛しい人がいるなら十の苦しみがあります。
  九の愛しい人がいるなら九の苦しみがあります。
  八の愛しい人がいるなら八の苦しみがあります。
  七の愛しい人がいるなら七の苦しみがあります。
  六の愛しい人がいるなら六の苦しみがあります。
  五の愛しい人がいるなら五の苦しみがあります。
  四の愛しい人がいるなら四の苦しみがあります。
  三の愛しい人がいるなら三の苦しみがあります。
  二の愛しい人がいるなら二の苦しみがあります。
  一の愛しい人がいるなら一の苦しみがあります。
  愛しい人が存在しないなら苦しみが存在しません。
  憂いなく、世俗のちりを離れ、葛藤なき者たちである。とわたしは説きます」
   お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


この世にある無数の形の
憂い、嘆き、苦しみ
これらは愛しいものを縁として生ずる
愛しいものがないとき、これらはない
(91)


人にとって、この世で愛しいものがなければ
人は憂いを離れた安楽な人である
憂いなく、ちり垢を離れる境地を望む人は
この世のどこであろうと、愛しいものを作らないように
(92)
         以上が第八の経となる。


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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Ye keci sokā paridevitā vā,
それらが憂いや嘆きや
Dukkhā va lokasmimanekarūpā;
苦しみや、世間の求める無数の形態は
Piyaṃ paṭiccappabhavanti ete,
愛しいものを縁として生じていく
Piye asante na bhavanti ete.
愛しいものがないときは、生じない


Tasmā hi te sukhino vītasokā,
憂いを離れた安楽な人は
Yesaṃ piyaṃ natthi kuhiñci loke;
世間でどこにもいても、愛しいものはない
Tasmā asokaṃ virajaṃ patthayāno,
憂いなく塵を離れることを切望している人は
Piyaṃ na kayirātha kuhiñci loke”ti.
世間でどこにもいても、愛しいものを作らない



解 説


Ye keci sokā paridevitā vā,
この世にある無数の形の
Dukkhā va lokasmimanekarūpā;
憂い、嘆き、苦しみ
Piyaṃ paṭiccappabhavanti ete,
これらは愛しいものを縁として生ずる
Piye asante na bhavanti ete.
愛しいものがないとき、これらはない
 *「悩み、苦しみ、憂い、嘆きなどの原因は愛するものがあることです」


Tasmā hi te sukhino vītasokā,
この世で愛しいものがなければ
Yesaṃ piyaṃ natthi kuhiñci loke;
人は憂いを離れた安楽な人である
 *このフレーズは誤解しやすい。
 *好きなもの、愛するものが何もないとは、世間的には極限に暗い話ですね。
Tasmā asokaṃ virajaṃ patthayāno,
憂いなく、ちり垢を離れる境地を望む人は
Piyaṃ na kayirātha kuhiñci loke”ti.
この世のどこであろうと、愛しいものを作らないように
 *ここで、覚者、解脱者の究極の自由の成り立ちを説明しています。
 *覚者のこころには愛着がない。
 *この経典の面白いところは、お釈迦さまがものの見事にヴィサーカー婦人の悲しみをな
  くして、智慧が現れるようにしたんです。

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