ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 なぜウダーナなのか

 ウダーナは八章からなり、半分の四章まで記載し終わりました。そこで今回は改めてウダーナをなぜ取り上げたのかを書いてみました。
テーマは、「ゴーダマ・ブッダのそのままの教」とはなにかです



ウダーナについて
 ウダーナはパーリ語で記された経典の中の、教蔵・小部の三番目に位置している、お経です、スッタニパータ(ブッダのことば)、ダンマパダ(真理のことば)などと同様に最も古い経典でお釈迦様のことばのままを、もっとも伝えている経典と言われています。
お釈迦様が、ときと場所を考えて、誰かにあてて説いた、誰かのために説いた言ではなく、自然に発した言葉とされ、このお釈迦様が自然に発した言葉に、後世の人々が、ふさわしと思われる、時と場所や経典から選んだエピソードなどの解説をつけて、一つの経典として編集したものと思われます。
 個人的な感想にすぎませんが、ウダーナは、各地区、僧院、師匠一人一人がとっておきのお釈迦様の言葉を、悟るまで忘れるなと授けたもので、、入門前の人にも解るように物語という説明をつけて授けていたものを集めて一つの経典として編集したように思います。
 お釈迦様が誰に教えるのでもない、心から口にされたことばを胸に刻み、支えにして、修行の日々をどのように過ごすか、瞑想修行の目標、修行が進んではじめて真意が解る簡潔な深い教えなど、修行が完成するまで一人一人の修行者が、ひとつひとつ心に留めておく教えをあつめた宝石箱のような経典に感じます。



なぜウダーナなのか
 パーリ経典はお釈迦様が実際に教えを説いた時代と、お釈迦様が亡くなってから仏教教団として、世の中と共存しながら、当時の人々の常識や風習、思想的な流行りなどを肯定しながら教団を継続しなければならないに時代に作られた経典が混在しています。
 ですからパーリ経典に説かれた、そのままでは、お釈迦様の説かれた、そのままの教というわけにはいきません、そこでお釈迦様の教え、そのままを知るためには、なんらかの方法が必要です。
 さらにお釈迦様が生きていた時代の初期のころは少数のお弟子さんに解るように説き、教団が形成され大きくなると、大勢のお弟子さんや遠方のお弟子さんにも解るように説いていくようになります、当然その解き方は変わります。
 例えてみれば、お釈迦様がいた初期のころは、少数のお弟子さんに目の前で料理を作りながら説いていたものが、遠方の大勢の人たちにも料理が作れるレシピ本の様に、スプーン1の砂糖とカップ3の卵と細かく説かないと伝わらなくなり、お釈迦様亡き後では、時間も流れ、遠く離れた場所では食材も風習も人々の好みも変わり、現地に合わせて料理そのものも変化していくということが起こります。このように、お釈迦様の教えも当時の常識に合わせ、さらに時間はながれ、教えを純粋に伝えられなくなったものも含まれると推察されます。
 もう一つ元々のお釈迦様の教えというのは何かという疑問があります、実際にお弟子さんや一般の人々に話したと伝えられている言葉をもって元々の教えとするのか、心の中でどう考えていたのであろうと推測した内容をもって元々の教えとするのかです。
お釈迦様が説いた言葉と、お釈迦様が心のなかで考えたこと、が同じとは思えません。もちろん語り伝えられた内容である経典を前提にしなければ、お釈迦様の心のなかを推察してもそれは単なる想像になってしまいます。しかし、ことような視点をもって経典に接するのは、けして無駄ではないように思います。
そこでお釈迦様が誰かに向けて説いた言葉ではなく、なにげなく口に出した言葉のなかに、お釈迦様のなかで考えていた純粋な思考が推測できるのではないかと思いウダーナを取り上げてみました。
 ウダーナにしても全てがお釈迦様の口に出した言葉とは限りません、大きくなった仏教教団の誰かが作ったものや、すぐそばにいた誰かに向けての言葉が含まれているかもしれません、お釈迦様の亡きあとの作られた言葉と、お釈迦様の心のなかで考えたことを明確に分けることは不可能ではありますが、なんらかの手がかりになればと思い日本語にしてみました


ウダーナについて、もう少し詳しくは下記のブログをご覧ください
https://padoma.muragon.com/entry/39.html
https://padoma.muragon.com/entry/40.html

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