ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第8章4四の涅槃のこと経(現代訳・解説)


8.4 四の涅槃のこと経(74) このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様はサーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園(祇園精舎)で、お釈迦様は修行者たちに、涅槃に関する法(真理)の法話によって、教えられ、観(すす)められ、励まし、喜ばせます。修行者は、それを目的として、その全てに心を集中して、耳を傾け、その法(教え)を聞きます
 お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


何かに依存する人には、動揺がある
依存なき人には、動揺はない
動揺がないとき、安息がある
安息があるとき、渇愛はない
渇愛がないとき、来る・去るがない
来る・去るがないとき、死・生はない
死・生がないとき、この世もあの世もその間もない
これは、苦の終極である
以上が第四の経となる


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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Nissitassa calitaṃ,
依存する人には、動揺がある
anissitassa calitaṃ natthi.
依存なき人には、動揺はない
Calite asati passaddhi
動揺がないとき、安息がある
,passaddhiyā sati nati na hoti.
安息があるとき、意向はありえない
Natiyā asati āgatigati na hoti.
意向がないとき、行くと行かないはありえない
Āgatigatiyā asati cutūpapāto na hoti.
行くと行かないがないとき、死生はありえない
Cutūpapāte asati nevidha na huraṃ na ubhayamantarena.
死生がないとき、この世になく、あの世なく、そのふたつの中間もない
Esevanto dukkhassā”ti.
これこそは、苦しみの終わりである


解 説


Nissitassa calitaṃ,
何かに依存する人には、動揺がある
anissitassa calitaṃ natthi.
依存なき人には、動揺はない
 *この場合は。頼っているのです。生命は、頼って成り立っているのです。だから、常に
  動揺があるのです。身体(色)に頼るは、声香味触法に頼るは、切ないんです。依存が
  生命に成ってます。
Calite asati passaddhi
動揺がないとき、安息がある
 *動揺がなくなると安息になる。すごく落ち着いて楽になるのです。
,passaddhiyā sati nati na hoti.
安息があるとき、渇愛はない
 *安息があると渇愛はいらないのです。渇愛には苦しみが必要です。
 *安穏に達したら、渇愛はない。だから、依存なくなったら安息になる。安息になったら
  渇愛は出番がなくなる。
Natiyā asati āgatigati na hoti.
渇愛がないとき、来る・去るがない
 *渇愛がないと、来る・去る、とは、この世に生まれてこの世を去る精神状態=渇愛
Āgatigatiyā asati cutūpapāto na hoti.
来る・去るがないとき、死・生はない
 *「来る・去る」がなくなったら「死ぬこともないし・再生もない」んです。
 *全部、渇愛がやっていたものなのです。渇愛は、苦しみがないと成り立たない。
Cutūpapāte asati nevidha na huraṃ na ubhayamantarena.
死・生がないとき、この世もあの世もその間もない
Esevanto dukkhassā”ti.
これは、苦の終極である


 *ちょっとした因縁の流れで、依存から始めて、依存あると、動揺する。依存をなくしちゃうと動揺が消え。安息になる。安息なら渇愛には出番がない。
 *お腹が空いて苦しみがなければ、食べなさいっていう渇愛が生まれない。だから、渇愛も苦に支えられているのです。それで渇愛がなかったら、こちらに生まれてくることもないし、生命はここから去ることもない。だから、死ぬことはないし、再生もない、成り立たない。ということは、この世も、あの世も、間の何かも存在しない。これで苦が終わりという経典です。

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