ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章10世とともに経の副読本③

 


 ウダーナ・世とともに経の順番通りに燃焼経から記載します、このお経は、お釈迦様三番目の説法とされていますが、最初と二番目の説法は見知り知った人たちに向かっての説法でしたので、この燃焼経は公のデビュー説法とも言える経典です、現在では残念なことに、一見繰り返しが多いので省略されてテキストに記載されることが殆どですが、けして省略する経典ではないです、詳しくは解説を読んで頂くとして、お釈迦様の最も重要な喩えである、燃えている、後の時代に十八界と言われる、お釈迦様が名立たるお弟子さん達に向けて説かれた最重要の教えが初めて公にされた、このお釈迦様の言葉をフルバージュンで味わってください。


 dittasuttaṃ
  燃焼経


Ekaṃ samayaṃ bhagavā gayāyaṃ gayāsīsesaddhiṃ bhikkhusahassena.
あるとき、幸あるお方は、ガヤーのガヤシーサ山(象頭山)の精舎に、千人のビクの大きな集まりと共に住んだ。
Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi–
ときに、幸あるお方は、ビクたちに呼びかけられた。
“sabbaṃ, bhikkhave, ādittaṃ. Kiñca, bhikkhave, sabbaṃ ādittaṃ?
「ビク達よ、すべては燃えている。また、ビク達よ、すべては燃えているというのはどういうことか。


Cakkhu, bhikkhave, ādittaṃ, rūpā ādittā, cakkhuviññāṇaṃ ādittaṃ,
眼は, ビクたちよ、燃えている。色かたちは燃えている。眼による認識は燃えている。
cakkhusamphasso āditto.
眼の接触は燃えている。
Yampidaṃ cakkhusamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ.
眼の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ? ‘Rāgagginā, dosagginā, mohagginā ādittaṃ, jātiyā jarāya maraṇena sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittan’ti vadāmi
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。


Sotaṃ ādittaṃ, saddā ādittā, sotaviññāṇaṃ ādittaṃ,
耳は燃えている、音声は燃えている、耳による認識は燃えている。
sotasamphasso āditto,
耳の接触は燃えている。
Yampidaṃ sotasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ.
耳の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。


Ghānaṃ ādittaṃ, gandhā ādittā, ghānaviññāṇaṃ ādittaṃ,
鼻は燃えている、香りは燃えている、鼻による認識は燃えている。
ghānasamphasso āditto,
鼻の接触は燃えている。
Yampidaṃ ghānasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā
adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
鼻の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。


Jivhā ādittā, rasā ādittā, jivhāviññāṇaṃ ādittaṃ,
舌は燃えている、味は燃えている、舌による認識は燃えている。
jivhāsamphasso āditto,
舌の接触は燃えている。
Yampidaṃ jivhāsamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
舌の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。


Kāyo āditto, phoṭṭhabbā ādittā, kāyaviññāṇaṃ ādittaṃ,
身体(皮膚)は燃えている、触れられるものは燃えている、身体(皮膚)による認識は燃えている。
kāyasamphasso āditto,
身体(皮膚)の接触は燃えている。
Yampidaṃ kāyasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
身体(皮膚)の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。


Mano āditto, dhammā ādittā, manoviññāṇaṃ ādittaṃ,
意(思考器官)は燃えている 法(思考の対象)は燃えている 意による認識は燃えている
manosamphasso āditto,
意(思考器官)の接触は燃えている。
Yampidaṃ manosamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
意の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。


Evaṃ passaṃ, bhikkhave, sutavā ariyasāvako
ビク達よ、このように考察して、多くを聞いた聖なる弟子は、


Cakkhusmimpi nibbindati rūpesupi nibbindati cakkhuviññāṇepi nibbindati
眼をも厭い、       色かたちをも厭い、 眼による認識をも厭い、
cakkhusamphassepi nibbindat
眼の接触をも厭い
Yampidaṃ cakkhusamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
眼の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う


Sotasmimpi nibbindati, rūpesupi nibbindati, sotaviññāṇepi nibbindati
耳をも厭い、     音声も厭い、    耳による認識をも厭い、
sotasamphassepi nibbindat
耳の接触をも厭い
Yampidaṃ sotasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
耳の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、


Ghānasmimpi nibbindati gandhesupi nibbindati ghānaviññāṇepi nibbindati
鼻をも厭い、      香も厭い、     鼻による認識をも厭い
ghānasamphassepi nibbindat
鼻の接触をも厭い
Yampidaṃ ghānasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
耳の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、


Jivhāyapi nibbindati rasesupi nibbindati jivhāviññāṇepi nibbindati
舌をも厭い、     味をも厭い、    舌による認識をも厭い
jivhāsamphassepi nibbindat
舌の接触をも厭い
Yampidaṃ jivhāsamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
舌の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、


Kāyasmimpi nibbindati phoṭṭhabbesupi nibbindati kāyaviññāṇepi nibbindati
身体(皮膚)をも厭い、 触れられるものも厭い、  身体(皮膚)による認識をも厭い
kāyasamphassepi nibbindat
身体(皮膚)の接触をも厭い
Yampidaṃ kāyasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
身体(皮膚)の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、


Manasmimpi nibbindati dhammesupi nibbindati manoviññāṇepi nibbindati
意(思考器官)をも厭い   法(思考の対象)  意(思考器官)による認識をも厭い
manosamphassepi nibbindat
意(思考器官)の接触をも厭い
Yampidaṃ manosamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
意(思考器官)の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā – tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、


Nibbindaṃ virajjati virāgā vimuccati
厭えば貪欲から離れる、貪欲から離れれば、
Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ hoti.
解脱すれば、解脱した、という智慧が生じる
‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ,
生まれることは滅尽した。修業は完成した。
kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’
なすべきことはなした、もはや生まれることはない
ti pajānātī’’ti.
と知るのである」と。 


Idamavoca bhagavā. Attamanā te bhikkhū bhagavato
幸あるお方がこれを説かれると、心に適った比丘たちは、
bhāsitaṃ abhinanduṃ.
幸ある方の教説を喜んで受け入れました。
Imasmiñca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne
そして、この教説が説かれているうちに、
tassa bhikkhusahassassa anupādāya
千人の比丘たちは心に執着がなくなり
āsavehi cittāni vimucciṃsūti.
根源的な欲より解脱した。




燃焼経の解説
 このお経は当時のバラモンという宗教的指導者の人々に向かって説かれた教えです、バラモンの家では、親元を離れ師匠のもとで宗教的な教えを学びます、その入門する時に薪を持参して弟子入りします、現代の密教での護摩炊きを思い浮かべてください、規模は色々ですが護摩炊きと似たような儀式を行うのがバラモンの日常でした。この人々が、お釈迦様が燃焼経を説く相手ですから、火と薪はセットというのは常識です。


 燃えているというのは、熱がある、生きている存在していることの例えです。
薪は物質(身体・対象)、炎は心の例えです、体があり心がその体が燃える(熱がある)ように生きているという例えです


 ビク達よ、すべては燃えている。また、ビク達よ、すべては燃えているというのはどういうことか。
心と身体で出来ている人間(生物)が熱を発している、つまり生きていることの例えです。すべてとは、眼・耳・鼻・舌・身・意と、色・声・香・味・触・法のことです。前の 6 つは感覚器官で、後半の 6 つは対象、感覚器官に入る対象です。 つまり、生きているということのすべてです。


 火をよく観察してください、絶えず変化しています、一瞬たりとも同じ姿をしていません、薪も絶えず火がある時は同じように変化します、無常の例えです。
薪は燃えて小さくなります、焼かれています、火も薪が焼かれればその寿命は短くなりますが、これを止めることは出来ません、これが苦の例えです。永遠に燃え尽きない薪や火は、永遠の楽園や苦の反対です。
一つの薪に一つの火が燃えている、火は常に薪について条件によって因果律によって燃えています。バラモンの当時の常識(ヴェーダ文献)では、火(熱)は生命であり、生命は欲動的なきっかけで始まり意識が宿るとされている、意識とは善悪の行為の結果を経験し感覚をもつ輪廻する魂ないし本質であり身体から身体へ乗り移ることが出来る永久不滅の物のような存在(アートマン)に内在し究極的にはブラフマン(宇宙の原理)と同一であるとされていました。意識とは絶えず変化し、なにかについて燃える火のようなものだとするお釈迦様の教えとは、反対の教えです、これが無我の例えです。


 眼は, ビクたちよ、燃えている。色かたちは燃えている。眼による認識は燃えている。
眼の接触は燃えている。
眼の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
眼と色かたちが接触して同時に認識が生じます。
この一連の流れを感じる(知覚)といいます、この感じるときに自己は感じられるでしょうか?お釈迦様の時代には私(アートマン)があるから感じることが出来ると説かれていたのをお釈迦様は下記ように説きます
 眼の接触に縁って生ずるものは楽・苦・楽でも苦でもないものである
接触を原因として楽・苦・楽でも苦でもないもの(受)が生じる、これが縁起の教えです、生きているというのは、条件によって薪が燃えているようなものだという例えです。このようなことを、ありのまま理解すれば、不変の私(アートマン)は経験的に知りえないものであるという教えです。


 何によって燃えているのか、貪りの火によって、怒りの火によって、迷いの火によって燃えている。
貪り・怒り・迷い(貪・瞋・痴)により心は燃えているという意味と、お釈迦様の時代のバラモンは三つ一組の火を日々灯し続けるのが務めでした、火は家庭人としての生活を象徴しています。東の火は両親、西の火は家族と使用人、南の火は供物を受け取るのに値する聖人を表します。お釈迦様は別の経典では、太ったバラモンに、家長は献火を守るべきだと語っています。全ての人々を養い生活するという意味です。
 燃えているという例えは、バラモンの生活をすべて否定しているのではありません、時代が下ると、貪・瞋・痴は三毒とされて否定的な意味だけが伝わりますが、お釈迦様に出合う前にバラモンとして生活していた人々への説法です、冷たい理論理屈だけの説法ではないということは心にとめておくべきです。


誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えている
一般的な苦しみと考えていいと思います
眼・耳・鼻・舌・身・意というそれぞれの場所で燃えている、生きているとはこういうことだという教えです


 このように考察して、多くを聞いた聖なる弟子は、眼をも厭い、色かたちをも厭い、眼による認識をも厭い、眼の接触をも厭い、眼の接触に縁って生じる感受、それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う
智慧が現れて解脱に達します 、ということです


厭えば貪欲から離れる、貪欲から離れれば、解脱する。解脱すれば、『私は解脱した』という智慧が生じ『生まれることは滅尽した、清浄な行いはすでに終了した、なすべきことはなし終えた、さらにこの輪廻の生存は受けることはない』と明らかに知るのです」
解脱したとき、『解脱した』という智慧が起こります。
解脱を表す涅槃という言葉は、火を吹き消すという意味です、薪を燃やしている火の原因である貪り・怒り・迷いを吹き消すのが悟りという喩です
燃料がなくなればやがて火は自然に消えます、この例えは貪・瞋・痴という燃料を投げ入れなければ火は自然に消えるという喩です、そして火が燃えるのは自然現象ですが燃料(執着)を加えるのは人間です、火をなくしてしまうのが悟りではなく、燃料を加えないで自然に消えるのが悟りだという教えです
もう少し詳しく解説します


 このお経はカッサバ三兄弟と、その他お弟子さんというバラモンにむけて説かれた教えです、最初にも書いていますが、お釈迦様の時代のバラモンは、火を起こす儀式を行うのが日常であり努めでした、マッチなどない時代に火を起こすというのは(火の神をむかえる)のは大変な手間のかかることであり神聖な行為でした、火にバラモンの人々が深い意味を込めて考え語っていたのは容易に想像が出来ると思います、このバラモンの人々に向けての説法であり、お釈迦様はバラモンの教えを熟知した上での説法ということを前提に経典を読んでください


  燃えているについて


 当時のバラモンは意識とは、欲(kāma)から生じ、欲動的であるということでは火に似ていて、意識はアートマンやブラフマンの中に宿り永遠不滅であると考えていた。それに対してお釈迦様は燃えているという言で火を以下の形で用います。意識は欲動的であるということでは火に似ていて、意識は火と同じ様に火を消そうとする者がいなくても燃料が尽きれば自然に消える、そして火(意識)は薪つまり、燃えている物(燃料)と分離できないと喩えた。対象を持たない意識は存在しないということを説き、主体と客体は互いを前提条件として、すべての経験は双方が揃わらなければ成立しない、さらには主体と客体とは究極的には分離されない、このことは火と薪、心と身体、主体と客体は分離できないということです、世界(すべて)は一個人の身体に宿るということを表している、お釈迦様の教えは一人一人を言及対象としている、苦から救い出そうとしたのは一人一人の人間なのだから当然のことですが、実際にはこのことは世界にも等しく当てはまる、なぜなら世界は経験可能なもののみ記述されえるからです。
さらに重要なことは、バラモンの伝統ではアートマンやブラフマンに代表されるような永久不滅の変化しないものを求めていましたが、お釈迦様はバラモンの伝統にはないものを明らかにされました、それは。火は絶えず形を変えて、つまり変化しながら燃えているということです、心と身体の集合体である一個人も世界もすべて変化している、これは私たちの意識とその対象はすべて、変化をくりかえす過程(プロセス)であり、このやむことのない変化である点は火に似ている、それを超えたものは原理的にとらえられない(業について参照)それは純粋な思考においてのみとらえられえる。しかし私たちが経験を得るための装置(感覚器官)は仮にそれを超えたものが存在したとしても、経験の外側に存在するしかないと定めている。
もう一つ、私たちの経験を構成する過程(経験と記憶)は火と同じように、その燃え方は予め決まっているのでもなく、原因も条件もなく偶然に起こることではなく、薪(燃料)があって火がついて燃える、つまり原因と条件があって結果があるということの喩でもあります。



  すべてについて


 眼・耳・鼻・舌・身・意の六感覚器官と、色・声・香・味・触・法の六対象が触れて、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識が生じて認識が生じるということです、これは人が知るすべてです、最先端の宇宙物理学でも、宇宙についての情報は人間の知覚(認識)を通さなければ得られない、日常生活でも同じです、ここまではバラモンも大体同じですが、一点だけ異なるのは認識主体つまり自我(アートマン)がなければいけないということです、これは知覚という認識には認識主体である身体がなければならないからです。
お釈迦様がすべてに自我(アートマン)を入れないのは「アートマンは無い」からではなく「アートマンではない」つまりアートマンは経験的に知りえないからです、そしてお釈迦様のすべてとは、六つの認識器官の束であり、この束が「自己・私」という錯覚を作ると説いています、無我の教えです。


  何によって燃えているのかについて


 燃えているという喩えには五取蘊とう意味が含まれています、執着(取・upādāna)という言には燃料という意味があり、蘊(khandha)という言には、もともと木の枝という意味があり、五取蘊というのは、五本の薪を暗示する言です。
執着によって苦に至ることは、乾燥した草や牛糞や薪などの燃料を、薪を焼く火に投げ入れることに喩えられ、この執着に危険を見る者には苦の停止があると言うことは、薪を焼く火に燃料を投入しないことに喩えてお釈迦様はかたっています(相応部12・51執着経)
五取蘊についてでも説明しましたが四聖諦で説かれている苦(dukkha)と十二縁起で説かれている苦とは五取蘊のことです、何によって燃えているか、貪り・怒り・迷い・誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えとは五取蘊の別名であり苦の別名です、つまり苦によって燃えているということです、一人一人のすべては燃えている、という意味と、すべての生命は燃えているという二つの意味があります。


 火を吹き消すという意味のある涅槃(S.nirvāna P.nibhāna)という言は、燃えるという原義の執着(S.P.upādāna)と対をなしている、同じ様に、いやになるという意味の厭う(S.nirvid P.nibbidā)は、取って、執着の(S.P.upāda)と対をなす言です。
お釈迦様はウぇーダの教えである業を意志と転換することで論理を業の中心にそえて、生きてきた経験の記憶である「すべて」は、論理の枠内で生起するとし(業について・十二縁起について参照)、私たちは心の一部である業が(五蘊について参照)・燃えている火が消えるよう状況を創り出すことは、論理的に知的なことで、それは燃えている火は、苦しみに関わり、同時に妄想や、しらないという無明に、つまり智にも関わることで、考察し、多くを聞くことは、転法輪転経の三転十二行相と同じことであり、四聖諦・十二縁起を学ぶことであり、八聖道の正見のことでもあります、そして、この火を維持する燃料(執着)が尽きれば火が消えるということです。

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