ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章10世とともに経の副読本


           ウダーナ副読本


     ウダーナ(自説経)3・10 世とともに経


 この副読本は、お釈迦様の時代のバラモンに説いた教えを取り上げています、バラモンとは当時の知識階級であり、バラモンの経典とも言うべきヴェーダやウパニシャットを学んできた人々です、お釈迦様は、ヴェーダやウパニシャットにそれとなく触れながら、正面から否定することなく説法されます。最古の仏伝と言われる律蔵にある大品によると。この世とともに経に出てくる教えは、サーリプッタ尊者という智慧第一と伝えられ、お釈迦様に代わり説法も行い、その教えを詳細に他のお弟子さん達に説いた方が、お弟子さんになる前の説法です。お釈迦さまの説法の解説者がまだいない時期の説法で、しかも説法の相手は、お釈迦様の教えを詳しくは知らないバラモンで自分達が学んできたヴェーダやウパニシャットと照らし合わせながら理解しています。解説者つきで、教えの大切なことだけを話し、細かいことは解説者に聞くようにという説法とは違い、教えの中身は同じでも伝え方は、ことなります。解りやすく伝えるにはヴェーダやウパニシャットではこうだが、正しくはこうだという伝え方になります。しかし、お釈迦様は、正面から断罪したり否定するようなことはしません。このような、お釈迦様の説法を理解し、バラモンと同じ視点で、お釈迦様の説法が理解出来たらと思いこの副読本を作成しました。


 世とともに経というのは、お釈迦様の第一の説法とされる転法輪転教、第二の説法とされる無我相経、第三の説法とされる燃焼経、十二縁起の教えをまとめたウダーナの第1~3経のエッセンスを取り出して一つの経典にしたような内容です。


最初に、世とともに経の原言であるパーリ語と日本語訳、その後に解説という構成です。


 世とともに経の理解のために燃焼経、転法輪転教、無我相経を、それぞれに、原言であるパーリ語と日本語訳、その後に解説を記載して、さらにテーマを選んで解説して、世の教にも記載されている十二縁起を解説してウダーナ 1菩提の章 第一の菩提の経~第三の菩提の経のパーリ語と日本語訳を記載しました。




            Lokasutta
           世とともに経


Evaṃ me sutaṃ—
このように、わたしは聞きました。
ekaṃ samayaṃ bhagavā uruvelāyaṃ viharati najjā nerañjarāya tīre bodhirukkhamūle paṭhamābhisambuddho.
あるとき、お釈迦様は、ウルヴェーラーに住んでおられた。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元で最初の悟りをひらき、
Tena kho pana samayena bhagavā sattāhaṃ ekapallaṅkena nisinno hoti vimuttisukhapaṭisaṃvedī.
七日のあいだ瞑想姿で坐って解脱の安楽に浸っておられた。
Atha kho bhagavā tassa sattāhassa accayena tamhā samādhimhā vuṭṭhahitvā buddhacakkhunā
お釈迦様は、七日が過ぎて心の統一から覚めて、覚者の眼でもって
lokaṃ volokesi.
世間を見渡された。
Addasā kho bhagavā buddhacakkhunā volokento satte anekehi santāpehi santappamāne, anekehi ca pariḷāhehi pariḍayhamāne—
お釈迦様は、覚者の眼でもって世間を見渡しつつ生命が熱苦によって熱せられているのを、無数の苦悶によって身を焼かれているのを見ました。
rāgajehipi, dosajehipi, mohajehipi.
貪り(貪)から生じるものによっても、怒り(瞋)から生じるものによっても
迷い(痴)から生じるものによっても


Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi—
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。


Ayaṃ loko santāpajāto,
世間の人々は、いつでも困っている
/Phassapareto rogaṃ vadati attato;
感覚のみなのに、自分は病気だという
Yena yena hi maññati,
思い描き、考えても
Tato taṃ hoti aññathā.
 現実には思い通りとはならない


Aññathābhāvī bhavasatto loko,
思い描き、考えても
Bhavapareto bhavamevābhinandati;
生存を望み、生存に負け、生存を期待する
Yadabhinandati taṃ bhayaṃ,
大いに喜ぶ時でも、それは恐れである/
Yassa bhāyati taṃ dukkhaṃ;
恐れが生まれる、それは苦しみである
Bhavavippahānāya kho 
この生存欲を捨てるのに
panidaṃ brahmacariyaṃ vussati’’
清らかになる修行を実践する



‘Ye hi keci samaṇā vā brāhmaṇā vā bhavena bhavassa vippamokkhamāhaṃsu,
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ生存(有:実体)によって実体的に生存の解放を言ったなら、
sabbe te avippamuttā bhavasmā’ti vadāmi.
『彼らは、その一切が常住論者であり、迷いの生存から解放していない』とわたしは説く
‘Ye vā pana keci samaṇā vā brāhmaṇā vā vibhavena bhavassa nissaraṇamāhaṃsu,
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ、非生存(非有:虚無)によって虚無的に生存の離脱を言ったなら、
sabbe te anissaṭā bhavasmā’ti vadāmi.
『彼らは、その一切が断滅論者であり、迷いの生存から離脱していない』とわたしは説く


Upadhiñhi paṭicca dukkhamidaṃ sambhoti,
この苦しみは、心の依り所を縁として生じる。
sabbupādānakkhayā natthi dukkhassa sambhavo.
全ての執着を滅することで、苦しみは生まれない
Lokamimaṃ passa; puthū avijjāya paretā bhūtā bhūtaratā aparimuttā; ye hi keci bhavā sabbadhi sabbatthatāya
世間の人々を見よ、無明に打ち負かされ生まれた生命であり、生命であることを喜ぶ者であり、迷いの生存から完全に解き放たれていない、迷いの生存は、どこであれ、どのような存在でも、
sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
『それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである』


Evametaṃ yathābhūtaṃ, 
このように、事実の通りに
sammappaññāya passato;
正しい知慧により、観ていると
Bhavataṇhā pahīyati, 
 生存欲は捨てられる
vibhavaṃ nābhinandati.
非生存を喜ばない
Sabbaso taṇhānaṃ khayā,
渇愛を、全て滅すること
Asesavirāganirodho nibbānaṃ
貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃がある


Tassa nibbutassa bhikkhuno,
このように涅槃に到達したビクは、
Anupādā punabbhavo na hoti;
執着がないので、さらな生存はもうない
Abhibhūto māro vijitasaṅgāmo,
まよいに、打ち勝ち
 Upaccagā sabbabhavāni tādī’’ti.
無数の生存を、乗り越えた

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