ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について



ウダーナ副読本


ウダーナ7章と
アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章)
との関係について



 ウダーナ(感嘆の言葉)は、悟りを開かれた目覚めた人、覚者であるお釈迦様が、日常の生活のなかで子供たちに話しかけたことばから、悟りをひらいた人と会話のように、私達には別次元のことば、と想うような多彩な教えが集められていますが、いずれも短いことばで語っています。これは喩えれば、洋食はオムレツに始まりオムレツに終わる、という格言のようなもので、豊富なレシピを身に着けた名人がオムレツ作りは洋食の技術がすべて入っていると名人になって実感して理解できるような言葉で、修行する前に師匠から伝えられて、胸にしまいながらいつか名人になって理解できればという経典です。
 ウダーナの詩は短いことばで鍵のような役割をし、物語は扉のように、教えの入口になり、扉を開ければさらに具体的で詳細なお釈迦様の教えにつながります。


 ウダーナ7章はアッタカ・ヴァッカの扉に思えて、この副読本を書いてみました。


アッタカ・ヴァッカは、ウダーナとの関連を取り上げています。


 アッタカ・ヴァッカ・11争 闘は、ウダーナ(自説経)1-10 バーヒヤの経の解説に代えてに、翻訳と解説があります。


 ウダーナ第7章はアッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章)と連動させて編集されていると思われます。ここではウダーナを理解するためにアッタカ・ヴァッカとの関係を記載していきます。(アッタカ・ヴァッカについてはウダーナ5-6ソーナを参照)


       ウダーナ第7章とアッタカ・ヴァッカとの対照表


 アッタカ・ヴァッタは、お釈迦様の時代は、バラモン教との関わりで16章あるということに意味があり、順番にも深い意味があったのですが、ウダーナが編集された時代には、すでに仏教は確立して、バラモン教の儀式との関わりは忘れられて、配列されています。
 ウダーナの物語でアッタカ・ヴァッカと対照章の関係を表し、ウダーナの詩でアッタカ・ヴァッカの内容のポイントを示唆して、互いを学ぶことで深く理解できるように編集されています。


ウダーナ各章では、集・苦・道・滅というように配列してありますが、7章では、苦・集・滅・道と配列しています。これは、転法輪転経とのつながりを強調するためと思われます


仏・法・僧。戒・定・慧。身・受・心・法の簡単な説明と、ウダーナとの対象関係を、記載します。


仏・法・僧とは、仏教では三宝と呼ばれ、この三宝に帰依するのが仏教徒とされていますが、一般の悟りを得ていない人々が耳を傾けるものは何かを具体的に示している言葉。
 仏 仏様、ブッダ、お釈迦様  
 法 正しい教え
 僧 教えを受け取った者の集団である、僧伽(サンガ)


戒・定・慧とは、仏教では三宝と呼ばれ、仏道を修行する者が、必ず修めるべき基本的な修行項目をいう。
 戒 生活を正すこと
 定 禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。
 慧 智慧(パンニャー)を修めることで、煩悩の縛りを破って、すべての法の真実の姿を見極めること。それによって真理をさとり、仏道が完成される。


身・受・心・法とは、仏教における悟りのための4種の観想法の総称。悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想(瞑想)法をいう。
 身 身体を観ずる
 受 認識を観ずる
 心 心の状態(清らかさ)を観ずる
 法 もろもろの法を観ずる



それぞれのつながりを簡単に記載します


 仏 4・お釈迦様が、一般の人々が欲望に溺れている姿をご覧になっての偈
 法 6・お釈迦様が、法と一体となった理想的な人をご覧になっての偈
 僧 3・お釈迦様が、修行者(サンガに集う人々)に囲まれ、一般の人々が欲望に溺れている姿をご覧になっての偈


 戒 1・覚者のあるべき姿を描いた偈
 定 5・大いなる瞑想の境地をえた覚者を描いた偈
 慧 2・戒・定を修し智慧をえて苦しみを終わらせた覚者を描いた偈


 身 8・身体を観ずることがテーマとなります 
 受 7・認識を観ずることがテーマとなります
 心 9・心を観ずることがテーマとなります
 法 10・法を観ずることがテーマとなります
  * 数字はウダーナ7章の番号です




ここからは、ひとつひとつ、ウダーナの章を見ていきます。


   7-1第一のラクンダカ・バッディヤ と、
   14迅速(前半915~920)・16サーリプッタ


物語では
 ラクンダカ・バッディヤ尊者はサーリプッタ尊者の相手という役どころで、アッタカ・ヴァッカ16経の主役、智慧第一と称えられたサーリプッタ尊者が、低いカースト(身分)出身の背椎が曲った小人なのでバッディヤと呼ばれ、カーストや見かけで差別することのない仏教教団(サンガ)の代表としての、ラクンダカ・バッディヤ尊者に教えている物語。


詩では
 ウダーナ、アッタカ・ヴァッカとも、解脱者(悟りを開いた者)を、詩っています。


 これから、ウダーナとアッタカ・ヴァッカの関係を、ウダーナ7-1の詩を中心に記載してみます。
 ウダーナの詩をアッタカ・ヴァッカの詩が詳しく、具体的に解説しています。


  ウダーナ 7-1 1行目
Uddhaṃ adho sabbadhi vippamutto,
上に下に、すべての所で解脱したひとは
アッタカ・ヴァッカ・14迅 速 917(ブッダの言葉 中村元訳の番号)
917Yaṃ kiñci dhammamabhijaññā,
いかなることがら(法)をも覚知するとよい
Ajjhattaṃ atha vāpi bahiddhā;
内的にでも外的にでも
Na tena thāmaṃ kubbetha,
しかしそれによって慢心を起こしてはならない
Na hi sā nibbuti sataṃ vuttā.
それが安らいであるとは真理に達したひとびとは説かないからである
 *内的にでも外的にでも、いかなることがらを覚知するとよい
 *上に下に、内的にでも外的は、全て(一切)の場所とかものごとという意味


  ウダーナ7-1 2行目
Ayaṃ aham asmīti an ānupassī;
このわたしは 存在すると、知ることがない
 *わたしは、存在するということを、すべての所で、知ることがないのが、
解脱したひと、という詩
アッタカ・ヴァッカ・14迅 速 916
916 Mūlaṃ papañcasaṅkhāya, (iti bhagavā)
虚構の名称(papañcasaṅkhāya)という、根本を
Mantā asmīti sabbamuparundhe;
このわたしは存在する(asmīti)という、すべて制止せよ。
Yā kāci taṇhā ajjhattaṃ,
内に存するいかなる妄執をもよく導くために
Tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
常に心して学べ。
 *papañcasaṅkhāya,(虚構の名称)とは、わたしを作るしくみと考えてください
 *虚構の名称というしくみで作った、わたしは存在するという、すべてを智慧で、根元か
  ら、壊しなさいという詩
 *私(自己・我)についてのお釈迦様の、最も重要な教えが、言葉はちがえども同じこと
  がらを言っています。


  ウダーナ 7-1 3・4行目
Evaṃ vimutto udatāri oghaṃ,
このように解脱人は
Atiṇṇapubbaṃ apunabbhavāyā”ti.
かつて渡られたことのない、煩悩の大河を渡った
アッタカ・ヴァッカ・14迅 速 919・920
919Ajjhattam eva upasame,
修行者は内に安らぎ
Na aññato bhikkhu santimeseyya;
他のものに安らぎを求めてはならない
Ajjhattaṃ upasantassa,
内に安らいだひとには取り上げられるものは存在しない
Natthi attā kuto nirattā vā.
どうして捨てられるものがあろうか
920 Majjhe yathā samuddassa,
大海の奥深いところでは
Ūmi no jāyatī ṭhito hoti;
波が生じないで、静まっているように
Evaṃ ṭhito anejassa,
静まり不動であれ
Ussadaṃ bhikkhu na kareyya kuhiñci”
修行者はどのようなところでも高ぶってはならない。」
*このようなひとが解脱したひとという詩


 ならべただけでも、言葉はちがえども同じことがらを言っているのは明らかです。


 次の経典でもウダーナの詩をアッタカ・ヴァッカの詩が詳しく、具体的に解説しています。
  アッタカ・ヴァッカ・16サーリプッタ
尊者サーリプッタが修行者の心得を問い、お釈迦様が具体的に解りやすく語っていく経典です、物語に登場する尊者サーリプッタのお人柄や、お釈迦様の実践重視の教がよく表れています。この経典でも解脱者が主題です。


955サーリプッタさんが言った、―
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。―このようにこと  ば美しき師、衆の主がトゥシタ天から来たのを。
956眼あるひとは神々や世人が見るように、一切の暗黒を掃い去り、独りで楽をうけられた。
956こだわりなく、偽りなく、このような範たるひととして来た師・目ざめたひとであるあなたのもとに、これらの縛りある多くの人々のために問おうとして、ここに来ました。
958修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を親しみ、山間の洞窟の中におり、959もろもろの座所にいるとき、そこでどんなに恐ろしいことがあるのか。―修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。
960未到の地に向かう人にとっては、この世にどれだけの危難かあるのでしょうか。-修  行者は辺境で坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのでしょうか。
 *住まいに関する質問です
961熱心につとめる修行者には、いかなることばの道があるべきなのでしょか?ここでのふるまう範囲はいかにあるべきか?まもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?
962心を安定させきづをもつ賢者は、どのような学修を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?ー讐えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」
 *きづきある賢者が、自身の汚れにきづくには、どうしたらよいかという質問です
963師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地や法にしたがって実践することを、わたくしの知っているとおりに、語りましょう。
964しっかりと気をつけ節度を守る聡明な修行者は、五種の恐れを恐れてはならない。つまり襲いかかる虻と蚊と昆虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。
965ことなる教えを奉ずる人々も恐れてはならない。―たといこの人々に中に多くの恐ろしいことを見ても。―また善を探し求め、他のもろもろの危難にうち勝て。
966病いにかかり、飢えに触れても、また寒さや暑さをも耐え忍ぶべきである。家なき人は、これらに触れられても、勇気をもって、堅く努力をなすべきである。
 *964から触れることが中心に語られています
 *私が存在するというのは、触れることから始まります
967盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(生きとし生けるものに)慈しみ(メッター)をもって触れよ。心の乱れを感ずるときには、カンハ(悪魔)の仲間であると思って、これを除き去れ。
 *慈しみ(メッター)は尊者サーリプッタのふるまいによく表れています
968怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくすように。また快いものも不快な    
ものも、しっかりとうち克て。

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