ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章1~3の副読本Ⅳ


四聖諦


 ブッダがヴァーラーナシーの近くのイシパタナで、かつての修行仲間に対して行なった最初の説法〔初転法輪〕で説いた四つの公理〔四聖諦〕です
四つの真理とは、
Iドゥッカの本質
2ドゥッカの生起
Sドゥッカの消滅
4ドゥッカの消滅に至る道です
それでは見ていきます


第一の真理 ドゥッカの本質


 最初の公理は「ドゥッカの本賢」です、仏教では「生はドゥッカ(苦しみ)、痛みに他ならないと解釈されている、そしてこの解釈も、不十分で、誤解を招くものです 事実、この「ドゥッカ」の意味を部分的にしか伝えない、その表面的解釈が、仏教は厭世的だという誤ったイメージをもたせることになったようです。


仏教は現実主義
 仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、生命を、世界をあるがままに提える現実主義です、仏教はものごとを客観的に眺め、分析し、理解する 仏教は誤って人びとに人生は楽園であると思い込ませたり、恐がらせたり苦悶させたりしない、仏教は人間と世界のあるがままを正確に、客観的に説き、平安、静寂、幸福への道を示すものです。


ドゥッカについて
 バーリ語(サンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみ、惨めさを意味し、幸福、快適、安楽を意味するスッカの反対語です。しかし、四つの公理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、深い哲学的な意味があり、はるかに広い意味で用いられている。普通の意味の苦しみも含まれてはいるが、不完全さ、無常、実質のなさといったさらに深い意味があり、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を.一語で表わすのは難しい ドゥッカを悲しみ、痛み、苦と訳すのは、便利ですが、不十分なのでドゥッカと表記していきます。


 お釈迦様は 幸せを否定はしていません、幸せがあることを認めている。しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる、瞑想の境地も、幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。そして、それらは無常で、ドゥッカで、流れるものであると述べている ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることです 普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのです。


ところでビク達よ、これが苦しみという真実(苦聖諦)である
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
好まざるものとの出会いは苫しい(怨憎会苦)。
好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。
望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。
要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)

                          (初転法輪経)


 苦聖諦というのは、この世は苦(ドゥッカ)に満ちみちていることは真実で、具体的には四苦八苦であるというのが日本での伝統的な解釈で、それは、生苦、老苦、病苦、死苦の四苦、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五取蘊苦の四苦を加えて八苦、という数え方をする。


 生苦は、「この世に生きていることが苦である」というようなことであるというのが一般的な考えで、誕生時の苦のこと、つまり、赤子の産声は、そうした激痛に堪えかねて泣いている声だという、この生苦とはそうしたことであるともいわれる、生苦の「生」の原語である「ジャソマ」は、「生きていること」ではなく、「生まれること」を意味し、「輪廻」の別名は、「生死」(ジャンマ・マラナ)で、生きていることと死ぬこと」ではなく、「生まれることと死ぬこと」を意味するという解釈もある。
 老苦は、老いに伴う苦(ドゥッカ)。
 病苦は、まさに文字どおり、病気に伴う苦(ドゥッカ)。
 死苦も、まさに文字どおり、死に伴う苦(ドゥッカ)。
 愛別離苦とは、愛する人と別れることに伴う苦(ドゥッカ)。
 怨憎会苦とは、煩わしい嫌な人と人間関係を持つことに伴う苦(ドゥッカ)。
 求不得苦とは、欲しいものが手に入らないことに伴う苦(ドゥッカ)。
 五取蘊苦は、以上の七苦を要約したもので、心身が活動していることそのもの、つまり、この世に生きていること自体が苦(ドゥッカ)だということ。


 ドゥッカと五集合要素は二つの異なるものではなく、五集合要素そのものがドゥッカです。いわゆる「存在」を構成する五蘊(五集合要素)を少し角度を変えて記載します。
(1)色 (物質・ルーパ)
この物質という集合要素のこと、眼、耳、鼻、舌、身体と、それらが感知する対象、色かたち、音、香、昧、触と、心の感知対象(意)となる思い、考え、概念などが含まれる。内的、外的物質の領域は、物質という集合要素に含まれる。
身体の細胞システムと理解すればいいと思います。
(2)受 (感覚・ヴェーダナー)
人間が外の世界との肉体的、心的接触によって体験する快適な、不快な、どちらでもない感覚のすべてが含まれる。それは以下の六種類に分類される。
 ①眼が色かたちと接触することによって経験される感党
 ②耳が音と接触して経験される感覚
 ③鼻が匂いと接触して経験される感覚
 ④舌が昧と接触して経験される感覚
 ⑤身体が物と接触して経験される感覚
 ⑥心が感知対象、思いや考えと接触して経験される感覚
体中に機能する感覚のことで、感じる能力です。身体事態が外の世界を、自分がいることを、感じることです。触れたものを感じ、自分に体があることを感じます。私達の感受性自体が、受です。これは心のはたらきです。肉体的、心的なすべての感覚は、この中に含まれる。
仏教では、心は、機能、あるいは眼や耳といった器官という一機能で、他の機能と同様に、制御し発達させることができると、お釈迦様は頻繁にこの六機能を制御し、訓練することの大切さを述べている。
眼は色かたちを感知し、心はアイデアや考え、心的なことがらを感知する。私たちは色を聞くことはできないが、見ることはできる。同様に、音を見ることはできないが、聞くことはできる。こうして、私たちは肉体的器官-眼、耳、鼻、舌、身体-でもって、色かたち、音、香、味、そして接触できる物だけを体験する。これらは、ほんの一部にしか過ぎず、世界のすべてではない。アイデアや考えも同じく世界の一部であが、感覚的に捉えることができない。眼、耳、鼻、舌、身体では認識できない。それは心という、もう一つ別な器官、機能で感知される。アイデアや考えは、これら五つの肉体的器官で体験されるものから独立してはいない。実際には、それらは肉体的な体験に依存し、条件付けられている(影響される)。ですから、生まれつき眼の見えない人は、眼以外の機能によって体験できるものを通じてさまざまなものを知ることはできるが、色の概念をもつことはできない。アイデアや考えは、世界の一部ではあるが肉体的な体験によって生じ、条件付けられており、心によって感知される。ということで、心は、眼や耳と同じように、感覚機能、器官とみなされる。
(3)想 (識別・サンニャー)
眼耳鼻舌身意に入る情報を現象(概念)に変えるシステムです。感覚と同じく、識別も、六種類の内的機能とそれらに対応する外的対象に分類される。感覚と同じく、識別も六機能が外的世界と接触することにより生起する。肉体的なものであれ、心的なものであれ、ものごとを感知するのは想になります。
(4)行 (意志・サンカーラ)
善悪にかかわらず、すべての意図的行為が含まれる。生きていきた、行動したいなどの気持ち(行為)です、感情(衝動)です。
お釈迦様は業(カルマ)をこう語っています。私は、意志(チェータナー)を業(カルマ)と説く、意志してから、身体・言葉・思考によって業(行為)をなす                            
意志とは、「心的構築、心的行為」で、その役割は、善悪、そのどちらでもない行為の領域で、心に指示を与えることです。感覚・識別と同じく、意志にも受と同じく、六種類ある。受と想は、意志的行為(意志がはたらいているの)ではない。だから、受と想は、カルマの結果を生じない。注意力、意志、信念、自信、集中力、叡智、エネルギー、欲望、嫌悪や憎しみ、無知、うぬぼれ、自我意識といった意図的行為だけが、カルマの結果を生みます。
(5)識 (意識ヴィンニャーナ)
認識するシステムのことです。意識は、六つの機能(眼、耳、鼻、舌、身体、心)のうち、どれか一つを基礎とし、それらに対応する六つの外的対象(色かたち、音、匂い、味、接触できる物、心的対象すなわちアイデアや考え)のどれか一つに対する反応か返答です。
視覚意識は眼を基礎とし、見える色かたちを対象としている。心的意識は、心を基礎とし、心的対象、アイデアや考えなどを対象としている。ですから意識は他の機能と関連している。こうして意識も、感覚、識別、意志と同じく、内的機能、とそれに対応する外的対象の六種類に分けられる。
意識は対象を認知しないです。それは、対象が存在するということに気付く、感知の一種で、眼が色-たとえば青-と接触すると、視覚意識が生じるが、それは単に色がそこに存在するということに気付くだけで、青であるとは認知しない。それが青であると認知するのは、想なのです。「視覚意識」は、一般にいう「見る」ということを意味する哲学用語である。「見る」ことは、識別することではない。他(聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の意識に 関しても同様です
ここで意識とは、一般的にいう魂のようなものだという誤解が多いので、このことについて記載していきます。
サーティという、お釈迦様の弟子の一人が、「お釈迦様は『同じ意識が輪廻しさまよう』と、お教えになられました」と述べた。
そこでお釈迦様は、サーティが「意識」をどう理解しているのかを問うた。サーティは「意識とは、善悪の行ないの結果を表現し、感じ、体験するものである」と答えたが、これは当時のインドの主流な、いわば古典的な考えです。
師はそれを戒めて。
「私がそんな教えを説いたのを耳にしたという愚かな弟子がいるか? 私は「意識は条件から生起し、条件のないところに意識は生起しない」と繰り返し、さまざまな方法で説かなかったか?」
師は続けた。
「意識は、生起する条件によって、名付けられる。眼と色かたちによって生起する意識は、視覚意識と名付けられる。耳と音によって生起する意識は、聴覚意識と名付けられる。鼻と匂いによって生起する意識は、嗅覚意識と名付けられる。舌と昧によって生起する意識は、味覚意識と名付けられる。身体と接触感知対象によって生起する
意識は、触覚意識と名付けられる。心と(心的)感知対象によって生起する意識は、心的意識と名付けられる」


 火の喩え(燃焼経)
お釈迦様は、さらに喩えによって説明した。火は、燃える材料によって命名される。薪が燃えて生まれる火は、薪火と命名される。藁が燃えて生まれる火は、藁火と命名される。それと同じく、意識もその由来となる条件によって命名される。
この点に関して、注釈者ブッダゴーサは、こう説明している。
「薪が燃えて生じる薪火は、薪がある限り燃えるが、薪がなくなった瞬問に消える。なぜなら条件がなくなったからである。薪火は、破片などに燃え移り、薪火として燃え続けることはない。それと同じく、眼と色かたちによって生起する意識は、眼、色かたち、光、注意などの条件が揃って初めて生起するのであって、条件が揃わず、なくなれば、消える」
お釈迦様は、意識は色、受、想、行に依存しているのであって、それらから独立しては存在しえない、と明白に述べている。
「意識は、物質を手段とし、物質を対象とし、物質に依拠して生起し、喜びを求めて成長し、増大し、発展する。色の代わりに、受、想、行に関しても同じです。」
だれかが、『色(物質)、受、想、行と無関係に、意識が生起し、去来し、成長し、増大し、発展するのをお見せしよう』と言ったとしたら、彼は何か実在しないもののことを語っているのである」


すべては流れる
要するに、存在するのは五つの集合要素である。私たちが存在、個人あるいは「私」と呼んでいるのは、この五つの集合要素の結合に対する名称に過ぎない。それらはすべて無常であり、絶えず流れるものである。「無常なものはすべてドゥッカである」というのが、「要するに、執着の五集合要素はドゥッカである」というお釈迦様のことばの真意です。二つの連続する瞬間を通じて、同一。であり続けるものは何一つとしてない。すべては、一瞬ごとに生起し。一瞬ごとに消滅し、流れていく。お釈迦様はラッタパーラにこういっている。
「バラモンよ、それはあたかも、すべてを流し去り、遠くまで流れゆく山間の急流のようなものである。流れが止むことは、一瞬、一時、一秒たりともない、流れ続けるだけである。バラモンよ、人の命はこの山問の流れのようなものである、世界は絶えず流動し、無常である」因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない.そのなかで、持続的「自己」、「個人」、「私」と呼べるようなものは存在しない 色、受、想、行、識の中で、一つとして本当に「私」と呼びうるものがないということです。相互に依作し合うこれら五つの肉体的、心的集合要素が、肉体的・心的機械として結合して機能するとき、「私」という概念が生まれる。しかし、それは間違った考えです。



苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない
 一般に「存在」と呼ばれる、この五つの集合要素の全体はドゥッカそのものです。五集合要素の背後には、「存在」も「私」もない。ブッダゴーサはこう述べている。
「苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない。行為は存在するが、行為主体は存在しない」
流れの背後に、自らは流れることがない流れの主体はいない。ただ単に流れがあるだけである。人生は流れというのは間違っていて、人生は流れそのものである。人生と流れは二つの異なったものではない。言い換えれば、思考の背後に思考者はいない。思考そのものが思考者である。仮に思考を取り除いてみても、その背後に思考者は見出せない。


生命には始まりも終わりもない
 生命には始まりがあるか、お釈迦様の教えによれば、生きものの生命の始まりは考えられないということです。生命の創造を信じる人に、神の始まりは何か?と尋ねたら、神に始まりはないと答えるでしょう。ビックバンの起こる前はどこかと問えば、考えられないという答えになるでしょう。お釈迦様はこう言っている。
「弟子たちよ、この輪廻の周期には目に見える終わりがない。そして、この無知に包まれ、渇望の足かせに束縛された彷徨も、いつから始まったのかわからない」
輪廻の最大の原因である無明に関して、お釈迦様はさらにこう述べている。
「無明は、この時点で最初に起きた。それ以前に無明はなかったと定めることは不能だ」
そうしてみると、この時点以前には生命はなかったということは不可能である。突き詰めると、これがドゥッカの真理の意味です。この第一の真理を明確に理解することは、非常に大切です。なぜなら、お釈迦様が言っているように。
「ドゥッカを見るものは、ドゥッカの生起を見、ドゥッカの消滅を見、ドゥッカの消滅に至る道を見る」からです。



第二聖諦ドゥッカの生起
 ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
それは、渇愛と再生をもたらし
あれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち
(1)欲望への渇愛・(2)生存への渇愛・(3)非存在への渇愛である


 四聖諦の第二「ドゥッカの生起」は経典ではこのように記載されています


(1)感覚的喜びに対する渇望、(2)生存に対する渇望、(3)非生存に対する渇望
(1)~(3)の意味
(1)~(3)が再生存、再生成を生み、貪欲と結びついて次から次へと新たな喜びを見出す、さまざまなかたちをとって現われるこの、渇望、欲求、貪欲、飢えが、すべての苦しみと存在の継続を生起する.しかし、これが絶対的主囚ではないです、この渇望は、ドゥッカの原因、起源と見えるが、他の何かに依存して生起する それは受であり、受はまた接触によって生起する.さらに接触はまた……と続き、この輪が、縁起です.ですから、渇望はドゥッカの生起の第一の、あるいは唯一の原囚ではないが、直接的原囚であり、主囚ではあります。ですから、いくつかのパーリ語原典におけるドゥッカの生起の定義には、渇望が第一に挙げられているが、それ以外の汚れたもの、不浄なものも記されている。この渇望は、主として無知から来る誤った自己の考えに起囚していると述べるだけで十分です。
ここでいう渇望は、単に感覚的喜び、富、権力に対する欲望、あるいは執着を指すだけではなく、アイデア、考え、意見、理論、概念、欲望、あるいは執着を意味する。お釈迦様の分析によれば、この世の問題や争いは、すべては利己的な渇望から生じる。お釈迦様はラッタパーラにこう説いている。
「世界は物資に欠乏し、物資を欲しがり、渇望の奴隷と化している」
 世界の諸悪の根源は利己的な欲望ですが、この渇望が、再生存と再生成を生み出すかを把握するのは容易ではない。ここで第二聖諦のより深い哲学的側面を掘りさげる、それにはカルマと再生の理論を理解しておかねばならない


生存および生存の継続
 生存および生存の継続には、原囚あるいは条件という意味で四つの「栄養素(エネルギー)」がある
 1普通の物質的食べ物
 2感覚器官(心を含めた)と外的世界との接触
 3意識
 4心的意志
である。
 このうちの最後の心的意志が、生き、存在し、再存在し、継続し、増大しようとする意志です.それが、善悪の行為を行なうことにより、存在、継続の根源を生み出す。それが意志(行・業)です。お釈迦様は「意志はカルマである」としている.心的意志とは、生存に対する渇望のことであり、非生存(再存在)に対する渇望、つまりは、輪廻(生存)する栄養素のことであり、感覚的喜びに対する渇望とは、意志(行)から生じる、輪廻(生存)する栄養素である執着のことです。
こうして、渇望、意志、心的意志、カルマは同一のものを指していると言える.それは、欲望であり、生存し、存在し、再存在し、増大し、一層蓄積しようという意志である これが、ドゥッカの生起の原囚であり、存在を構成する五蘊(五集合要素)の一つである意志のうちに含まれる。


ドゥッカの原因はドゥッカの中にある
 今述べたことがブッダの教えの中で、もっとも重要な点です。ですから、ドゥッカの原因、芽は、ドゥッカ自身の中にあり、外にあるのではないということを、理解し、認識し、ドゥッカの消滅、破壊の原囚、芽も同じくドゥッカのうちにあり、外にあるのではない、ということをよく認識する必要がある これが「生ずるものは、一切が滅するものである」という、有名なパーリ語定言の意味です、存在、ものごと、システムは、うちに生起の性質をもっていれば、同様にそのうちに消滅、破壊の原因、芽ももっている。ドゥッカは.五取蘊(五集合要素)は、自らのうちに生起の性質をもっており、同じく自らのうちに消滅の性質をもっている。この点は、第三聖諦の章で再度取り上げます。


カルマは意図的行為
 カルマ(サンスクリット語 パーリ謡ではカンマ)は、行為、行ないを意味する 仏教では、すべての行為を指すものではなく、意図的行為のみを指す。意図は、欲望と同じく、善い場合も、悪い場合もある。カルマも善い場合も、悪い場合もある。善いカルマは善い結果を生み、悪いカルマは悪い結果を生む。渇望、意図、カルマは、善いものも悪いものも、結実として一つの力をもつ。善い方向でも、悪い方向でも、継続する力です。善悪というのは相対的なものであり、輪廻の中で言われることです。
 アラカンは行為をなすが、カルマを集積しない。なぜなら、自己という誤った概念、継続、生成への渇望、他の汚れがなく。再び生を受けることはない。
カルマの理論は、原因と影響、行為と反応の理論です。それは自然法則であり、正義、賞罰という考えとは関係ない。すべての意図的行為は、その結果、結実を生み出す。善い行為が善い結果を、悪い行為が悪い結果を生み出すとしても、それは行為自体の性質、道理のせいであり、意図的行為の結果が死後の生においても現れ続けるという点である。ここで、仏教における死を説明します。


生と死
 存在(生命)とは、肉体的、心的なさまざまな力あるいはエネルギーのコンビネーションに過ぎないです。死とは、肉体的身体の機能停止であり。身体が機能停止すると、これらの力やエネルギーは完全に停まってしまうとは、仏教では考えない。意志、意図、欲望は、存在し、継続し、増大しようという渇望は、すべての命、すべての存在を動かす途方もない力である、これは、世界でもっとも大きな力であり、もっとも大きなエネルギーです。仏教は、この力が身体の機能停止、死によって停まるとはない、それは、別のかたちで現われ続け、存在、再生を生み出すと考えます。現代物理学のエネルギー保存の性質を思い浮かべればいいとおもいます、自己、一般に魂といった永続的、不変的実体あるいは実質がないとすれば、死後に何が再び存在し、再び生まれるのか、私たちが生と呼ぶものは、肉体的、心的エネルギーのコンビネーション、五取蘊(五集合要素)のコンビネーションです、これらは絶えず変化しており、連続する一つの瞬間に同一のままであることはない.毎瞬間、生まれ、死ぬ。「ビクたちよ、集合要素が生起し、朽ち、死ぬとき、あなたがたは生まれ、朽ち、死ぬ」
 こうして、この今の生においても、瞬間瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいるが、それでも私たちは継続する 自分とか魂といった永続的、不変的実体なしで、私たちが今この生を継続しているということが理解できたなら、こうした力が、身体の機能が停止したあとも、あとに残された自己や魂なしで継続できる、ということが理解できるでしょう。


死後のエネルギーの継続
 肉体的身体が機能しなくなっても、それとともにエネルギーは死なない。それは別なかたち、姿をとって継続し、それが再生と呼ばれる。子供の肉体的、心的、知的能力は、成人となる可能性を秘めている.存在を継続する肉体的、心的エネルギーは、自らのうちに新たなかたちをとり、次第に成長する力を内在している。
 永続的、不変的実体が存在しない以上、ある瞬間から次の瞬間に継続するものは何もない.だから、ある生から次の生へと生まれかわる永続的、不変的なものは何もないことは明らかです。途切れなく継続するのは連鎖であるが、それは.瞬間瞬間、変化する.連鎖とは、実際のところ運動エネルギーです.燃え続ける炎のようなものです.同じものでもなく、また別なものでもない、大人は、60年前の子供と同じではないが、かといって別人でもない 同様に、ここで死に、別なところに生まれかわった人の場合、同一人でもなければ、別人でもない。同じ連鎖の継続、流れです。死と生の区別は、思考瞬間の違いだけです。この生の最後の思考瞬問が、いわゆる次の生の最初の思考瞬間の原因となる。この生でも、ある思考瞬間が次の思考瞬間の原因となる。この存在しよう、生成しようという渇望がある限り、継続の輪(輪廻)は続く。それが止むのは、現実、真理、ニルヴァーナを見る智慧によって、その原動力である渇望(煩悩)が断たれるときです。



第三の聖諦ドゥッカ(苦)の消滅
 第三の聖諦は、ドゥッカ(苦)の消滅です、これは悟り(ニルヴァーナ)の真理と言い換えてもよいです。


 ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
それは渇愛を離れることによって、完全に滅すること、捨てること、放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。


ドゥッカを完全に滅するには、その主な根源である渇愛を離れること、これが聖諦です、悟りとは、渇愛の消滅、とも呼ばれるので、ここでは、悟りについて記載していきます。



 陸地を歩いてきた亀が、池に戻って魚にそのことを話した。魚は「陸ではもちろん、泳いできたのでしょう?」と言った。そこで亀は、陸地は固く、その上では泳げないので歩く、ということを説明しようとした。しかし魚は、そんなことはありえない、自分のすむ池と同じく陸地も液体で、波があり、潜ったり、泳いだりできるに違いないと言い張った。
このお話のように、私達は悟りのような未知のことがらは言葉では表現できませんが、陸地とは池ではないとまでは、表現できます。そこでお釈迦様は、~でない、というような否定的なことばで、悟りを表現してきています、一言では、停止、燃焼、吹き消す、などです。


お釈迦様がどのように、悟りを表現したか記載していきます。


ビクたちよ、その場所(処)は存在する
そこには、地なく、水なく、火なく、風なく、
この世なく、あの世なく、月と日もない。
ビクたちよ、そこにおいて、わたしは、
来る所(現世)を説かず、行く所(来世)を説かず、
在る所を説かず、死を説かず、生まれるを説かず、
涅槃は、なにによっているのでなく、なにから生み出されたのでもなく、
なにに支えられているのでもない
これこそは、苦の終極である

〈ウダーナ8-1より抜粋〉)
ビクたちよ、
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件づけられた』ではないもの(涅槃)は存在する
ビクたちよ、
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件付けられたもの』ではないもの(涅槃)がないとしたら
『生じたもの』『存在するもの』『作られたのもの』『条件付けられたもの』からの出離は覚知されない
ビクたちよ
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件付けられたもの』ではないもの(涅槃)が存在することから
『生じたもの』『存在するもの』『形成されたもの』『条件づけられた』からの出離が覚知される      
                  
(ウダーナ8-3より)
 涅槃とは、地水火風なく、この世(loka)でも他の世界でもないような領域(āyataana)が存在し、そこには死の再生も存在しない、それこそが苦の終わり(anto dukkhassa)である。つまり苦の終焉である涅槃とは、生ぜず(Ajāta)、存在せず(abhūta)、形成されず(akata)、条件付けられていない(asaṅkhata・無為の)ものであり、そこでは縁生の現象が生成消滅しないから、死も再生も存在しないということ。
このような涅槃が存在するから、条件付けられた現象(この世・世間)を出離することが可能で、有為の現象を超えた所に、無為の領域が存在するから、覚知(目覚め・悟り)により、世間からの出離、すなわち渇愛を離れること、これが苦しみの滅、つまり悟り(涅槃)です。


 悟りについては、経典(テーラガーター他)に「三つの明知(P. tisso vijjā)」を得ることで解脱したという記載が多数出てきます。「三つの明知」とは、第一の明知を宿命知(過去世を見通す知)、第二の明知を死生知(来世を見極める知)、第三の明知を漏尽(āsava-kkhaya)知(煩悩を滅する知)であり「四聖諦」を悟ることと、されている。
菩提樹の下で、初夜に「第一の明知」を、中夜に「第二の明知」を、後夜に「第三の明知」を得た、と説かれる
(中部36 マハーサッチャカ経)
「三つの明知」という言は、初夜(夜の初め)に第一の明知を、現象は原因があると知る(縁起の順観を知る)、第二の明知を、現象は消滅していくと知る(縁起の逆観を知る)、第三の明知を、悪魔の軍勢を粉砕している、あたかも太陽が天空を輝かすように(縁起の順観・逆観を知り悟りをえる)ということでもある(ウダーナ1・1~3)つまり縁起を悟ることです。
 正覚経(相応部35・13~14)では内六処・外六処の十二処から、味楽経(相応部35・13)では五取蘊から、離れることを知って、苦が生じることを知り、悟ったとあります。


 城邑経(相応部12・65)という経典では、お釈迦様が十支縁起を悟ったことを回想し、森をさまよい古の人が歩んだ道を見つけ、その道を進んで古い街を見つけるように。過去仏たちが歩んだ古の道を自分も見つけ十支縁起を悟ったと説き、この古の道とは「八聖道」であると説く、さらに、それぞれの縁起支の原因(集)、停止(滅)、道を悟りと説き、縁起を四聖諦と組み合わせて説く。


「わたしの心の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は                     存在しない」と。(転法輪転教)


このように宣言されます、お釈迦様の「生」とは「さらなる再生は存在しない生」です


「さらなる再生は存在しない生」とはなにか、四聖諦で「苦しみの滅」の同義語「解脱」(S.mokṣa,vimukti,P.mokkha,vimutti)は、とらわれから解放されるという意味で、仏典では「生存のとらわれから全て滅した」(P.parikkhiṇabhavasaṃyojana)という言がよく出てきます。
 お釈迦様が「三つの明知」を得ることで解脱したとありますが、「第三の明知」では四聖諦を悟ることにより解放されると説きます。


 私は、このように知り、このように見る。快楽の影響からも心が解脱し、生存の影響からも心が解脱し、無知の影響からも心が解脱した。
解脱すれば、「解脱した」という慧が生じる
「生存は尽きた。修業は完成した。なすべきことはなした、もはや生まれることはない」と知った。
(中部36 マハーサッチャカ経)


 上記の経典のように、快楽の影響・生存の影響・無知の影響(厭離と離貪)からも心が解脱した者には、必ず「解脱した」との慧が生じる、というのは、経典において何度も繰り返されている仏説の基本です。いわゆる「解脱知見」を得た修行者は、「生存は尽きた」とか、「修行は完成した」とか、「なすべきことはなした」とか、「もはや生まれることはない」とか、そのような自覚を明白にもつ。つまり、涅槃を証得した者は、その時点で決定的に転換するということであり、それは以後も変わることのない、修行の完成でもあるということです。
 このように解脱・涅槃は本来、曖昧なものではなく、決定的で明らかな転換であったということは、経典で明示されていることで、少なくともお釈迦様の教について考える上では外すことのできない特徴です。それでは修行の完成とは、解脱知見とはなにか。実際に、きづきの実践を行って、内面に生じる煩悩を自覚し、現象を観察し続けていても、たしかに執著は薄くはなるが、根絶されるということはない。仏教では煩悩は、数多くの輪廻による長い間がある過去の業の結果として生起しているものである以上、百年程度の一生のあいだ、それを「堰き止め」続けたところで、「煩悩の流れ」が尽きてしまうことはないからである。なすべきことはなしたと、言い切るためには、流れを根絶させる(塞ぐ)ための決定的な別の経験が、必要とされるということです。


 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、
きづきである。(きをつけることが)
煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。
その流れは智慧によって塞がれるであろう。」
                    (スッタニパータ 1035)
 経典では、煩悩の流れをせき止めるのが「きづき(Sati)であり、智慧(Paññā)によって塞がれるとあります。煩悩は流れていくが、先ず止めるのは、きづきであり、流れを塞ぐ(根絶する)のが智慧であるということです。
きづき(Sati)は、日本では伝統的に、念、と訳されていて、近年ではマインドフルネスと訳され広まっています、基本的には、現状にきづいている、自覚的である、と考えていいと思います。きづきの実践に関しては、長部経典・22、大念処教(Mahāsatipaṭṭhāna-sutta)に詳細にあります。
智慧とは、考えること、つまり哲学談義や本を読むことではなく、過去の知識を学び、その結果として徐々に到達するものでないです。ここで経典に出てくる例を取り上げてみます。
お釈迦様の侍者として有名なアーナンダ尊者は、お釈迦様に二十五年間仕え、その教法を最も近くで聴き続けた有名な仏弟子で、経典への登場回数も非常に多く、多くの説法を聴いて記憶していても、お釈迦様の生きているときには、悟れなかった人でもあった。そのアーナンダ尊者が修行を完成したのはいつであったかというと、それはお釈迦様の死後、第一結集か開催される直前のことであった。
 律蔵「小品」の記述によれば、マハー・カッサパの主唱で開催されることになった結集の前夜、きづきの実践を行って過ごした。しかし、それでも解脱には至らず、明け方に、「横になろう」と身体を傾けたその瞬間、「頭が枕に達せず、足が地を離れない」あいだに、アーナンダ尊者の心は煩悩を離れて解脱したのである。と伝えられています。
 このお話は、「悟り」が、推論や思考の進行の結果として徐々に到達される概念的分別知ではなくて、瞬時に起こる決定的な転換、いわゆる直覚知であるということを、教えています。智慧をえる、というのは直覚知をえること、それは悟りをえるのと同じ意味ということです。
 悟りの経験、それ自体についても、表現したいのですが、悟りとは、生ぜず、存在せず、形成されず、条件付けられていない(無為の)ものであるということで、言語の領域(虚構の名称papañcasaṅkhā)を超えているので表現不可能なことです。
ここまでの記載で、言語の領域、虚構の名称の世界、から眺めた限りの、悟りの性質や、悟りを経験した結果について表現してきましたが、悟りそれ自体の表現は言語表現の限界です。ただ言えるのは、悟りが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけです。


 お釈迦様の教である四聖諦はここで終わりではありません、ここは非常に大切なところで、この点に関する無理解から、現代日本に見られる仏教に対する誤解の多くも起こっているように思われます。渇愛は凡夫に対しては、「事実」として作用しており、それが凡夫にとっては「現実」そのものである、つまり、凡夫は虚構の名称の世界に住んでいます。
お釈迦様が、「世界=苦」の原囚を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で人々にもその方法を教え、そしてお弟子さんたちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽した、少なくとも、そのように確信することができたからこそ、当時の真摯な修行者もお釈迦様に従ったのでしょうし、現代日本にもその教えが伝わっているように思われます。



第四の聖諦は、ドゥッカ(苦)の消滅に至る道です、まずは経典を見ていきます。


「ビク達よ、出家した者はこれら二つの極端にかかずらうべきでない。
どのような二つとはなにか。もろもろの欲望の対象を楽しむことである。
このことは低俗であり、凡俗であり、平凡であり、聖者の行いではなく、利益を伴わない
そして、一方は白身を苦しめることである。
このことは苦しく、立派でなく 利益を伴わない
ビクよ、これら二つの極端に近づかず、
中道は修行完成者によって完全に悟られた。
目覚めや安らぎへと導く中道とは。
それは、この八つの支分からなる道(八聖道)である。それはすなわち
正見(正しい見解)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい精神集中)
である

(初転法輪経)
上記の様に第四の聖諦は、出家の道は中道である、その内容は八正道であると経典に説かれています、それでは、中道の説明から。


 喩で説明します
ギターの弦を張るとき(チューニング)は
きつく張りすぎるとダメ  緩すぎてもダメ  その中間でもダメ  
きつすぎず緩すぎず 
これが中道です
ギターは世界中で何万台使われているかわからないほど数多く使われています、それでも機械でチューニングできません、もし出来たら、その機会を作った人はお金持ちになれるでしょう、その場その時により微妙に、湿気や会場の音響など条件が変わるので人間がチューニングしないとならないのです、このように困難な狭い道です、ベストな答えを得る道と言い換えてもいいでしょう、これが中道です。
お釈迦様の時代のインドでは、欲望のままに快楽を楽しむのが人生という人々と、ジャイナ教や当時の修行者の人々の中には、極端な苦行をする人々がいて、そのどちらも悟りには役に立たないということです。かといって快楽と苦行を足して二で割るような中間でも悟りには役に立たない。だから中道を歩め、それは八正道のことだよというのがお釈迦様の教です。


 八正道とは、お釈迦様が四十五年間にわたって説いた教えで、実質的にその教えは、八正道に凝縮されます。お釈迦様は、弟子の発展段階、理解能力、実践能力に応じて、さまざまな場所で、さまざまなかたちでこれを説明した、お釈迦様の何千という教えのエッセンスは、この八正道に集約されています。
 この八項目(正道)は、ひとつずつ実践していくものではありません、それらは、各人の能力に応じて、すべてを同時に実践するプログラムで、八つは各々繋がっており、ひとつの実践が他の実践に役立つようになっています。


 お釈迦様は、お弟子さん一人一人の修行の進み具合や性格など、いまどの教えを説くか、その場その場で見極め説いています。時として多くのお弟子さんに総合的に詳細に八正道を説いたことがあり、その時の経典が伝わっていますので、経典、つまりお釈迦様ご自身のお言葉で、次回記載する第四の聖諦の説明といたします。

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