ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章1~3の副読本Ⅲ


業について


 業とは「行為と結果」です
例えば、私が石をガラスに投げると、ガラスが割れる。
石がガラスに触れた¬=行為  ガラスが割れた=結果 となります
ここでは時間の間隔がないので原因による行為と結果は明確です
そこで、時間の間隔が有る場合には、私が投げた石がガラスにあたる間隔に、その他の原因による行為と結果が生まれます
 例えば、石を投げたのは私を殴った人に向けて投げたがガラスに当たった場合に、その原因は「私が割った」でも「私を殴った人」あるいは時間の間隔を短くして「石がガラスに当たった」でも原因による行為です、これが因果法則で考えることです
 また、一つの原因で何かが起こるということではありません、例えばガラスが割れたのは石が触れたことですがガラスにも原因があります、強化ガラスなら、クッションの上に置いてあったらガラスは割れないかもしれません、ただ単純に「石があたってガラスが割れた」とは言えません、数えきれない原因が見つかります
 ガラスの割れたのは誰のせいでしょうか、石を投げた人のせいか、その人を怒らせた人のせいか、その人が怒ったのはまた原因があるからその原因を作った人のせいなのか。このように原因と結果は、はてしなくつづき因果法則は複雑です


 仏教では「業」という場合はすべての行為を業とは言わずに、心の行為を業と言います、つまり「行為をしたがる意志」を業と言います
私が石をガラスに投げたことは業ではありません、ただの行為です、ただそれだけで心の結果を得るわけではないからです、「なぜ投げたのか」という私の気持ちを業と言います、つまり意志です


 業が自分に回るのかは「心は一本の絶え間ない流れとして流れているから、心の意志でやったことは、いつかは、やったことの結果がその心に現れる」ということです
心は瞬間瞬間、変わっていき、いまの心が死んで、次の心が生まれる。から、次の心が生まれる原因は前の心です


「私」というのは、結局、心です「身体が痛い」と言うときは、心がそこにはたらいていて、本当は身体ではなく「私=心」について「痛い」と、「楽しい」という場合も、心に生まれる感情ですから身体が楽しんでいるのではなく「私=心」が楽しんでいるのです


 人間の細胞は壊れては、新しく作られます、永遠に身体は同じものではありません、DNDをコピーして一生涯続いていく仕組みと、心が瞬間瞬間、生滅を繰り返し前の心をコピーして続いていく仕組みはよく似ています、コピーですから前のものとは異なりますが、前の心を受け継いでいきます
行為をすれば心になにか跡が残ります、この跡(潜在力)が原因となり結果が出てきます、これが業「行為と結果」ということです、身体で言うなら正しい治療をすれば健康になり、怪我をしたのに誤った治療をすればその影響は残ります。一般的な出来事でも「行為と結果」では同じです、お釈迦様はこのことを説明するために普通の行為論と業論を一緒に説明されています
心はいつ、どのような場合に、業の行為(原因)が出るか(結果)は複数の原因に複数の結果が、はてしなく続く因果関係で成り立っているので、通常解りません


仏教では「人が行為をする場合は、行為をしたいからしていると、したいからする行為は全部、業」と簡単に理解する為に言っています。
なにかしたい気持ちを、貪り(貪)・怒り(瞋)・迷い(痴)の行為は悪い行為・悪業で、不貪・不瞋・不痴の行為は善行為・善業という尺度で仏教では分けます
つまり業(カルマ)とは、「意志が業であり、なにかやりたい気持ちが業」で悪いことをしたら、悪い結果。善いことをしたら善い結果があるという理解でいいと思います



インドでは業というと、行為全体を業と説明する人々(宗教・哲学)が多数で、仏教とは異なる業の考えが主流です、このため西洋でも日本でも仏教とは異なる業の考えが入ってきています、現在でも混乱があります、西洋の文献を翻訳した日本語の文献でもかなり混乱がありますので注意してください



無我について


 「私」というものについて、認識がうまれるときに、同時に「自分」というものを感じる、ですから、なにかを見るたびに、自分が見ている、なにかを聞くたびに、自分が聞いている、香を感じ・味を感じ・体に触れても・何かを考えても、自分がということは、同じです、なにかに触れれば、自分がというと感じを受けて、自分がいるという感覚が起こります。
ここが問題です。
「感覚がある」ということでしかないのに、思考を働かせて、「感覚があるから〝自分〟がいる」という錯覚を作ります。
 かといって、嘘とは言きれないのです、現象の「生―生」という「ある」という四つのパターンのうち一つしか知りません、残りの四分の三は知りません、このように知っているのは一部のことだけですから、正解でないですし、人類がいつ初めて自分ということを感じたのかも知りません。


「私がいる」「自分がいる」という実感をもつのは、ごく普通のことです、「人の解る範囲は限りがある」という程度の話です。
 問題は「自分がいる」という実感を、貪り・怒り・迷い(貪瞋痴)という感情で「自我」「魂」「霊魂」といった錯覚をつくることです。
貪とは、果てしなく貪る心、欲のこと
  瞋とは、怒りの心
  痴とは、真理に対する無知
具体的に見てみます、「自分がいる」という実感があり、欲があると、自分の命に執着して、私は死にたくない、なにか死なない方法はないか、と考えるようになる。そして、「これが自分だと言えるなんらかの実態がある」「魂がある」「死なないなにかがある」。さらに「我諭」「天国と地獄」「永遠の命」という膨大な、宗教・おとぎ話をつくります。そして、「生きていたい」という欲があり「死にたくない」という怒り(うけいれたくない)があり、欲と怒りの感情があるので、「魂」「自我がある」という錯覚に極限までしがみつきます。
 お釈迦様は「自分がいるという実感」はどのように起きるのかしらべ、分析して。無我ということを発見したのです。「無我」とは「我は無い」ということです、「ない」を発見、説明するのは難しいです、「有る」は説明できますが、「ない」を説明するのは、大変難しいです。
無我の我とはアートマンのことです、「無我」とは「我(アートマン)が全くない」ではなく、「我ではない」という意味です、「自分がいるという実感」がないとは、お釈迦様は言ってないです、微妙なところですから注意してください。


では、お釈迦様がどのように、分析、説明したかを見ていきます。


 五蘊・五取蘊
人は、①色・②想・③受・④行・⑤識の集まりだという教えです。
①色という身体があって
②身体のなかに、受という感覚があり
③想という働きで概念をつくる、赤い、丸い、大きい、小さい、というようなことを考える前に思います、概念のことです。
④行は、なにかをしたくなるエネルギーで、食べたい、座りたい、しゃべりたい、寝たい、といった意欲・衝動的なエネルギーがあり、考え、実行します。
感覚・概念・意欲があり、
⑤識とは、認識することです
「自分」とはこの、五つつの働きからできています。
この五つの働きは、常に変化します、身体も感覚も常に変化します、色・想・受・行・識はものすごい勢いで変化します、つまり無常です、人(名色・五蘊)は無常なのだから、永久不滅で、これが人だといえる、絶対に変わらない、実態=アートマン(我)ではないです。つまりは人のなかにはアートマン(我)はない、ですから「無我」だとお釈迦様は説いています。


十二処・十八界
 「自分がいるという実感」があるのは、感覚が生まれるからです、「自分がいる」と感じるからです。眼・耳・鼻・舌・身・意という六つ(六根)に、色・声・香・味・触・法という六つ(六境)が触れることで、視覚、聴覚という感覚、認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が生まれます。この六つの感覚器官・六つの対象・六つの感覚器官六つの対象から生まれる認識は、常に変化します、身体も感覚も常に変化します、ものすごい勢いで変化します、つまり無常です、人(名色・五蘊)は無常なのだから、永久不滅で、これが人だといえる、絶対に変わらない、実態=アートマン(我)ではないです。また、認識の際に引き起こされる煩悩も、同じく無常です。ですから「無我」だとお釈迦様は説いています。


無常だから無我
 すべての現象は、生―滅の流れ、有―無の流れです。無というのは直接には観察できないが、客観的に観察すれば、前の現象と後の現象とは違っていると理解できます。
 ここでは流れを見てみます、川を流れる水を観察してみます。
「ある」と思える多摩川を観察してみましょう、多摩川だというべき絶対変わらない、多摩川の芯だといえるなにかがありますか。ありません。そこにあるのは、ただ、山に降った雨が海まで流れているだけです。雨が降るという条件が無くなれば、多摩川も無くなります、条件の中で生まれる現象だけです。そして川は、瞬間瞬間変わっていきます、いま見ている川の水は、一秒後には目の前にないです。一秒前に見ていた水が出ていき新しい水が入る現象を、瞬間瞬間くりかえしているだけの現象を、絶えず流れている現象を、私達は多摩川と呼んでいるだけです。流れは人が気づかないだけのことです。この現象を無常といいます。常に変化する無常なのだから、永久不滅で、これが人だといえる、絶対に変わらない、実態=アートマン(我)ではないです。ですから「無我」だとお釈迦様は説いています。


無常・苦・無我
 無常・苦・無我は同じものの、三つの側面にすぎません。ですから、無常=苦=無我です。これを、一切の現象の三つの相=三相と呼びます。
 では、なぜお釈迦さまは、無常・苦・無我という三つ言葉を使ったのでしょうか。
 無常の概念に興味を抱く人も、苦の概念に興味を抱く人も、無我の概念に興味を抱く人もいるでしょう。お釈迦さまは、誰にでも理解できるように仏教の真理をユニバーサルにしたのです。
 無常は、ほとんどの人が理解しやすいでしょう。物事が常に変化してやまないことは、感覚的にもわかりやすいです。
 苦は、感覚的に物事にアプローチする人にとってわかりやすいでしょう。感覚的に、「ああ、苦しい、この人生は」と思う人にとっては、苦のほうが入りやすいです。
 無我は、宗教家、思想家、精神世界に興味ある人にとってわかりやすいでしょう。ただ、あまりにも「我」論に執着すると、自分でもわからなくなります。存在しないものを存在すると思う話ですから。そうではなくて、あの人は何を言っているのか、この人は何を言っているのかと、そうやって調べる人にとっては、無我はアクセスしやすいのです。
 お釈迦さまは、苦・無常・無我以外にも、病・傷・できもの・蜃気楼・幻覚・燃える炭などのたくさんの単語を使って同じことを説明しています。
 このようにお釈迦さまは、相手の性格に合わせて語られています。


無常・諸法無我、浬槃もまた無我
 そこでお釈迦さまは、
“Sabbe saṅkhārā aniccā”ti, / yadā paññāya passati;
Atha nibbindati dukkhe,  / esa maggo visuddhiyā
一切の事象は無常である(諸行無常) / 明らかな智慧をもって観るとき
苦しみから遠ざかり離れる / これこそ清らかになる道である
(ダンマパタ277)
「諸行」とは、世の中にあるすべての現象、森羅万象のことです それは無常である
“Sabbe saṅkhārā dukkhā”ti,  / yadā paññāya passati;
Atha nibbindati dukkhe,  / esa maggo visuddhiyā.
一切の事象はドゥッカである(一切皆苦) / 明らかな智慧をもって観るとき
苦しみから遠ざかり離れる / これこそ清らかになる道である
(ダンマパタ278)
そして、
“Sabbe dhammā anattā”ti,  / yadā paññāya passati;
Atha nibbindati dukkhe,  / esa maggo visuddhiyā.
一切の法は無我である(諸法無我) / 明らかな智慧をもって観るとき
苦しみから遠ざかり離れる / これこそ清らかになる道である
(ダンマパタ278)
 と説かれるのです。
 ここで注意してほしいのは、「諸法」と「諦行」は違うということです。「諸法」には、現象だけでなく、すべてのものが含まれています。                            
「法」の場合は、何も抜けていないのです そして、すべてまとめて無我であると、お釈迦さまは説くのです。無我という概念を使う場合は、「法」という概念をわざと使います。「諸行無我」という。言はありません あくまでも「諸法無我」なのです。
 ウサギの角は、無常でしょうか、はじめからないものですから、無常とはいえません。しかし、ウサギの角という概念は「法」に入ります。存在はしませんが、頭の中で組みたてた思考としては存在します。それが無常だとは言えないです。
 たとえば、目の前にあるペットボトルは、無常です。実際にあるのですから、ベットボトルは、同時に無我です。永遠に変わることがない「実体」などありません。 
こうまとめてもよいでしょう
 行一囚禄によって起こる現象
 法一涅槃も含むすべて
法と言えば、涅槃もウサギの角もすべてが無我です。ですから、涅槃もまた無我なのです。
「涅槃もまた無我」と、誤解するでしょう。仏教では究極の幸福の境地として涅槃を説かれています 無我を発見していない一般の方々は、涅槃の境地に達したら永遠の幸福の命を獲得したようなものだと推測します。
 しかし、涅槃という境地は、認織概念では説明不可能です。すべての概念は現象の世界を指しています 現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません、強いて言えば、生き続けることは苦(ドゥッカ)であり、それを乗り越えられたならば、幸福である、という程度の話です。最初から自我はなかったのです、自我が有るというのは人間の錯覚です。悟りに達するひとには、自我の錯覚が消えます、それだけです。悟ったひとに、今までなかったアートマン(自我)か突然現れるはずはないのです。涅槃も無我です。ですから、諸行無常で諸法無我なのです。



  因縁(因果法則)原因が無くなれば結果も無くなる
一切の現象は、因縁によって現れます。人間に発見できても、できなくても、因縁なく、言い換えれば原因なしに、偶然、突然、あるいは神の創造によって、何かが現れるということはありません。
よく、「これは偶然だ」とか「これは突然だ」という人がいますね。「偶然」という言葉を口にすることがありますが、それは、その因縁の流れ・原因を知らないからです。「今日は突然、人が来た」というのは、その人が前もって「今日伺います」と連絡してこなかったから、来ると思っていなかったというだけの話です。その人が足を運んだという「原囚」があって、「来た」という結果があるのです。原因もなく、突然、現れたわけではありません。   
本人が知らなかっただけのことですから。
 科学の世界でも、まだ知られていないことは無数にあります。だからこそ、まともな科学者ならば、「まだそこまで研究していないからわからない」と答えるのです。知らないからといって、「偶然だ」「突然だ」「神の創造だ」などとは言いません。
 そして、原囚によって生じるものは、その原囚によって支えられている時のみ存在するのです。今、蛍光灯が光っているとします。光っているのは、偶然でしょうか?それとも、神の大慈悲の結果でしょうか?光る原因を、皆さんも知っていますね。しかし、蛍光灯の光は、光る原因にずっと支えていてもらわないと、消えてしまいます。囚果法則とは、そういった話なのです。
 原囚が無くなると、結果も無くなります。ですから、絶対的で、常在する実体(アートマン)が存在するというのは、観察能力が乏しいことから起こる、錯覚以外のなにものでもありません。この世の中にある膨大な我論、アートマンに関する膨大な知識・哲学というものは、単純に観察能力が乏しいことの結果に過ぎないのです。


 覚りの結論
お釈迦さまが観察すると、因果法則ということがわかってしまいました。そうすると
Sabbe dhammā anattā 一切の法は無我である(諸法無我)
という結論に達しました。
Sabbe dhammā anattā 一切の法は無我である(諸法無我)
という結論は、このような現実的な因縁の法則を理解したことの結果です。
 これが、お釈迦さまの覚りの結論です。



無我について、お釈迦様の言で説明します。
スッタニパーター 4 八なるものの章 14 迅速の経 より


athaṃ disvā nibbāti bhikkhu,
比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか
Mūlaṃ papañcasaṅkhāya, (iti bhagavā)
「虚構の名称(papañcasaṅkhāya,)の根元を、
Mantā asmīti sabbamuparundhe;
『わたしがいる』という一切を、明慧によって破壊するように
Yā kāci taṇhā ajjhattaṃ,
渇愛があるなら、それらを取り除くために、
Tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
常にきづきある者として、学ぶように。
お釈迦様゙は、どのように見て、涅槃に到達するのですか、と尋ねられ、『わたしがいる』という一切を、明慧によって破壊するように、と答えています


無我を見て取ることが涅槃だと答えています


人間の存在は台風のようなものだというのが無我の教えです、台風は雲(水蒸気)と風から出来ています、地球の気象条件(原因)により台風が姿を現します(結果)、台風は地球の一部分であり、独立した存在でもあります、つまり
台風は地球と
<同じでものでない>
<異なるものでない>
<同じでものない>かつ<異なるものでない>ではない
<同じでものない>かつ<異なるものでない>のであり、条件によって発生したものである



その姿について
台風は目(中心)をもっています、その目(中心)には、なにかありますか
 答えは 台風の中心は
<あるわけでない>かつ<ないわけでない>のであり、条件によって発生したものである


台風の目(中心)は永遠にあるわけではなく、なにもないわけでもないのです
これはインドでは数字の0という概念です
台風は自分の意志で進路を決めていません、地球の条件により進路を決めます、人間は自分の意志で動いているように見えますが錯覚しているだけです
台風は自分の意志で発生(生まれて)消滅(死ぬ)するのではありません


つまり台風は台風の目(中心)が、
あるわけでもなく、ないわけでもなく
進路を自分できめているのでなく、発生も消滅も自分で決めていません
台風のように、人間は自我でなにかを決めているのでない



無我(滅諦)の姿を解き明かし
無常(時間・集諦)苦(空間・存在・苦諦)を説き
無我をあるがままにみると、貪りから離れるのが解脱(悟り)であり
その道(道諦)こそ修行と説く


無我の教えは、「五蘊・十二所・十八界の分析」と「縁起の教え」の自然な答えであり、ここから理解するのが正しい道ということです。
私たちが存在、個人と呼ぶものは、五取蘊という五集合要素から成り立っている。そして、それらを分析し、検証してみると、その背後に「私」、アートマン、自己と呼べるものは何もないことがわかった。これが分析的方法であり、分別と仏教用語では言います。一方「縁起」の教義は総合的方法であり、分別の方法です、そして、同じ結論に達します。つまり、世界には絶対的なものは何一つ存在しない。すべては縁起で成り立っていて、相対的である、これが、仏教のアナッタ、無我の教理です。



 お釈迦様は、相手によって、説き方を変えて説きます、対機説法と言われる方法で、聞いている相手が解りやすいように説いていきます。例えば、相手が騒がしい乱暴な子供なら、静かに話なしなさいと言う、相手が元気のない静かな子供なら、大きい声で話しなさいと言います。ときにはお釈迦様は、相手の病によって異なる薬を与える医者に例えられます。記載してきた、業・縁起・五蘊・十二処・十八界・無我などの教えを、四聖諦という形に整理して教えることが多かったと伝えられています、次回は、四聖諦について記載していきます。

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