ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第2章1ムチャリンダの経(現代訳・解説)

 ムチャリンダの経は、ブッダが人々に説法(転法輪転経)を始める前の心境が言葉になっている貴重な経典です。相手が解るようにということは意識していないので難解かもしれませんが、それだけに悟りの境地が、そのまま語られています。




 2.1 ムチャリンダの経(11)
このように、わたしは聞きました。
ある時、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。
ネーランジャラー川の岸辺のムチャリンダ樹の根元で、悟りをえてすぐのころお釈迦様は、七日のあいだ、瞑想姿で坐ったまま、解脱の安楽を楽しんでおられた。
巨大な雨雲が現われ七日のあいだ雨となり、冷たい風の荒れた日々となった。
龍(ナーガ)王のムチャリンダは自らの住まいから出て、お釈迦様の身体を七重の蜷局(とぐろ)で取り巻いて、頭上高くに巨大な鎌首をもたげて立った。
「お釈迦様が寒くてはならない、お釈迦様が暑くてはならない、お釈迦様に虻や蚊や風や熱や蛇が近づいてはならない」
お釈迦様は、その七日が過ぎて瞑想から覚められた。
龍王のムチャリンダは、雷雲が、離れ去り天が晴れたことを知って、お釈迦様の身体から七重の蜷局(とぐろ)をとき龍(ナーガ)の姿から若者の姿になり、お釈迦様の前に立ち、合掌しお釈迦様に礼拝しました。
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


離れて満足するのは楽しい
真理を学び体験するのも楽しい
世に対して害する心ないのは楽しい
生きとし生けるものに節度あるのも楽しい



世に対して執着が無いのは楽しい
もろもろの欲望を超えることも楽しい
私がいるという実感をなくす
このことが最高の楽しいこと
(13)
    以上が第一の経となる。


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 お釈迦様が、覚りに達して六週間目のこと、伝道活動を始める前の出来事として設定されています。
 覚者のこころの状態はどうなっているのかということを説明するウダーナで、他人を諭すために説かれた説法ではありません。
 ムチャリンダというのは蛇の名前です、当時インドでは蛇は脱皮することなどから、生まれ変わる生命の象徴として信仰されていました。
 内容は難しいかも知れませんが、解脱の境地を相対的に理解できるとおもいます。


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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Sukho viveko tuṭṭhassa,
離れて満足するのは楽しい
sutadhammassa passato;
真理を学び体験するのも
Abyāpajjaṃ sukhaṃ loke,
世間に対して害する心ないのは楽しい
pāṇabhūtesu saṃyamo”ti.
存在する生命に節度あるのも


Sukhā virāgatā loke,
世に対して離れるのは楽しい
kāmānaṃ samatikkamo;
もろもろの欲望を超えることも
Asmimānassa yo vinayo,
我慢をなくす
etaṃ ve paramaṃ sukhaṃ”ti.
このことが、最高の安楽



解 説


Sukho viveko tuṭṭhassa,
離れて満足するのは楽しい
 *Viveko 離れている、離れて生活している人。
 *俗世間の煩わしさから離れる。出家生活するとは一般的な意味です。
 *生きるとは、眼・耳・鼻・舌・身・意から入る 色・声・香・味・触・法という情報の
  刺激に依存することと、更に期待することで(煩悩が現われて心が汚れます)、覚者の
  心は情報の刺激に依存しない期待しない境地に達しているのです。
 *tuṭṭhassa 満足している。
 *人は期待どおりの刺激を受けると、一時的に満足する場合もありますが、満足は長持ち
  しません。覚者は色・声・香・味・触・法の刺激を期待しないのです。心が安穏に達し
  ているので、要求するべきものはありません。
 *この状態は「常に満足」なのです
sutadhammassa passato;
真理を学び体験するのも
 *suta学ぶという意味で、dhamma は真理です。
 *解脱に達する以前、お釈迦様は「真理とは何か?」と徹底的に探し求めていた
 *passato 見るという意味
 *この場合は、「体験する、経験する、発見する、実証する」という意味で使用されま
  す。
 *お釈迦様は前提を調べたのです。
 *sutadhammassa 自分がスタディしたことをちゃんと実践して実証したということ
 *理解があった真理を実証したのです。
Abyāpajjaṃ sukhaṃ loke,
世に対して害する心ないのは、楽しい
pāṇabhūtesu saṃyamo”ti.
生きとし生けるものに節度あるのも、楽しい


Sukhā virāgatā loke,
世に対して執着が無いのは楽しい
kāmānaṃ samatikkamo;
もろもろの欲望を超えることも楽しい
Asmimānassa yo vinayo,
私がいるという実感をなくす
 *アラカンの境地です
etaṃ ve paramaṃ sukhaṃ”ti.
このことが、最高の楽しいこと



(意 訳)
足るを知り満ち足りている人は真実の教えを学んだ人
あるがままに経験している人は悟りの境地にいる人は楽しい
世間に対して傷つける心ない人
生きとし生けるものに慈悲喜捨の心で接する人は楽しい


世間に対して執着がないこと
執着を離れることは楽しい
わたしがいる、という実感がいつわりであるとしること
これこそ最高の安楽である



 生きるとは、かかわりを持つということでもあります。それは苦(ドッカ)つまり苦聖諦です、第二章は生きる喜びを含めて苦・楽が語られ、かかわるということでは重要な、慈悲喜捨の心を説いています。
 悟りは最高の安楽であるが、残酷な心でかかわるな、つまり生きるなという、お釈迦様のもう一つの教えです


 生きるとは、眼・耳・鼻・舌・身・意から入る 色・声・香・味・触・法という情報の刺激に依存、触れることと、更に期待することです。つまり膨大な勝手な概念を作り出し、私という概念を作り「私」、「私の物」に執着して煩悩を拡大生産し、この現象により煩悩で心が汚れます、この汚れが無明であり渇愛・執着です。
これが生きるということです。
生きるとは、情報の刺激に触れること、世間とつながりをもつことです、このつながりを「離れる」のが悟りです。
覚者の心とは情報の刺激に依存しない期待しない 境地に達していること、つまり「viveko」「離れている」これが真意です、悟りそのものを表すひと言です



2.1 ムチャリンダの経は覚者のこころの状態はどうなっているのかということを説明する偈です、解脱の境地は言葉では説明できません、リンゴを食べたことがない人に、リンゴの味を説明するようなことですが、相対的に例えなどをつかい説明することはできます。
とても難しいことですがウダーナという経典はこのようなブッダのつぶやきが、悟りに達したひとの言葉が、ちりばめられています。



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次回から、ウダーナ第2章を順番に紹介していきます。

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