ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章1~3の副読本Ⅱ

  


         
             五蘊について


 身体・感覚・心、のことを五蘊と言います。
お釈迦様が問題にしたのは心のなかの、感覚です、ここに焦点をあてて説明したのが五蘊です。蘊とは集まり、システムのこと、色受想行識という五つのシステムが集まって生命(人)を形作っているという教えです。


色蘊
 これは物質的な体のことです、身体の細胞システムと理解してもいいと思います。内的、外的物質の領域は、物質という色蘊に含まれます。


受蘊
 体中に機能する感覚のことです、感じる能力です、身体事態が外の世界を、自分がいることを、感じることです。触れたものを感じ、自分に体があることを感じます。私達の感受性自体が、受です。これは心のはたらきです、物質の働きではありません。物質は感じることはできません。身体という物体に心がないと、何も感じません。
眼、耳、鼻、舌、身体、それから意識・心。この六つのどこかに常に何かが反応する。その反応を「受」と言います。反応は知識ではありません。認識でもありません。まだ知ったわけではない。音に「反応」して、音を「聞く」。なにを聴いたかは、頭の中(意識)の主観で合成するので、感じただけでは知識にはなっていません。知識になる以前、情報を感じるステップが「受」です。


想蘊
 眼耳鼻舌身意に入る情報を現象(概念)に変えるシステムです。我々は認識することによって知識、概念や世界観、区別判断などをします、これが想というはたらきです。何かを見たとき、見たものが青いと認識する「青い」という結果は、想です。ですから五感で認識すると同時に、想が起こります。
 「思い出す」という機能があります、それは過去の想の現在の認識で蘇らせることです、過去の想を現在に認識で蘇らせることができない場合いは「忘れた」となります。
 認識するたびに起こる区別判断も想です。この判断が出来なくなると「認知症」となります
 勉強して、知識を増やすのも想蘊を増やすということです


行蘊
 生きていきた、考えたい、話したい、行動したいなどの気持ち(行為)です、感情(衝動)です。私達は、想で考えたり外の世界を理解したりすると、次に「何かしなくてはいけない」という状態になり。
例えば、何かが見える。食べ物だと判断する(想)。おいしいものだと判断する(想)。同時にそれに対して何かをしたいという感情(衝動)が生じる(行)食べたい、食べたくない、無視したいなどです(行)。おなかで何かを感じる。空腹だと判断する(想)。何かを食べたという感情(衝動)が起こる(行)。 
 何かをしたいという気持ちは瞬間たりとも止まりません。何をしたいかは瞬間瞬間変わりますが、何かをしたいとう感情(行)は、常に変化し続けながらあります。行があるから息を吸う。吸ったところで吐きたいという行が生じるで、息を吐く。何かをしたいという感情(衝動)はつづきます、これが行です


識蘊
 認識するシステムのことです。身体は物質ですが、生命です、なぜかというと、識があるからです。しかし識、心は独立して行動できないのです。何かに依存して存在しなくてはいけません。それが色蘊です、身体です。身体全体に「認識できる」という機能があります。この身体全体で機能する認識を識蘊といいます。
 「知ること」と理解してもいいと思います、「何を知ったか」は想蘊の働きです。
 身体と心が人(生命)で、その心の内、お釈迦様が問題にした感覚(受・想・行)を除く部分が識と考えてください



            受蘊について
 「受」というのは「感じる」という意味です、「感受」「感受性」つまり「感じること」です、お釈迦様の世界観ではこの「受」がキーワードです、存在とは? 生きるとは? という疑問を解明する鍵です
 生きものと生きていないもの、生命体とただの物質の違いは何でしょうか、それは、心というはたらき、があるかないかです。心のはたらきを具体的に説明するのは難しいのですが観察してみれば、生命、例えばネコは反応しますが机は反応しません、この「反応する」という、はたらきが「受」です
 その対象は二種類です「一:外の世界に反応する」「二:自分の体に反応する」です。
普段は外からの情報ばかり現代人は気にします、暗い部屋などにいれば何も反応しないかと言えば、自分の体を感じて反応します、自身が自分を感じているから、心は止まることなく回転します。
私は、音に耳が反応して。その音に「人の声・音楽・雑音」などなどの概念を作って、言葉で、認識しています。身体は熱と固さに反応しているだけなのにそれを頭のなかで「熱いもの、冷たいもの、柔らかいもの、固いもの」などの概念で、言葉で認識する。頭のなかの妄想だから、私が「柔らかい」というものに、他人は「硬い」と言うかもしれません。
 存在とは、生きているとは、感覚があることです。感覚とは、外からの情報に反応することです。
 人々にはこのことが難しいのです。「命は感覚だと言うと」納得しない、耳が音を感じても、私はそのステップを飛ばして、頭の中で「あれは音楽だ、あれは鳥のさえずりだ」と瞬時に概念(言葉)を合成する。「聞いた」とするのは、外にあった実際の音でなく、頭の中に起きた概念のことです。これが問題なのです。私が「楽しい音だ」と認識する音に、他人は「うるさい音だ」と認識することはあり得ます、そのとき互いに相手を軽視したり、非難する可能性があります、頭の中で起こる概念が、その人にとっては事実なのです。だから「自分の思うことは正しい」と執着してしまうのです。
 同じ音に「音楽だ」と認識する私は、それが正しいと思う。「うるさい雑音だ」認識する人は、それが正しいと思う。どちらの認識も正しくありません。感覚のステップを飛ばして頭のなかで概念を作ったから起こった出来事に過ぎないのです。主観にとらわれて、自分だけの世界で、自分が正しいという錯覚を抱きながらでは、真の姿(真理)は見えて来ません。だから情報をありのままに客観的に観察したい人は、身体にある「感覚」を重視しなくてはいけない。頭に起こる概念を無視しなくてはなりません。このような理由で、感覚というはたらきは重大なポイントとなります。


眼は光を、耳は音を、鼻は香を、舌は味を、身体は固さや温度、意識で心にそれぞれ反応します、この六つのどこかに常に何かが反応する。その反応を「受」と言います。反応は知識ではありません。認識でもありません。まだ知ったわけではない。音に「反応」して、音を「聞く」。なにを聴いたかは、頭の中(意識)の主観で合成するので、感じただけでは知識にはなっていません。知識になる以前、情報を感じるステップが「受」です。
「感じることが生命」だから、生命という問題を解決するには「受」がキーワードになります。
 我々は、話す、考える、なにかを作る。この膨大な情報、意識、活動は、すべて感覚が受け取った情報の主観的な合成なのです。主観的な認識は、その個人に限られたものですが、感じる、ということはすべての生命に共通しておこる出来事です
 眼は光を、耳は音を、鼻は香を、舌は味を、身体は固さや温度をというように「感じる情報」は決まっています
 意識は五感から入る情報を合成して概念を作る、また、過去のことを認識する、存在しないものをイメージする、将来を憶測したりすることもしますが、それは信頼できないはたらきです。意識は事実に徹するということはしません。過去のこと、将来のこと、ありえないことを妄想していても、意識には何かの現在の情報が触れています、そのほとんどは「貪瞋痴」という感情なのです


 「受」を別の角度から説明します、何に反応するかを説明してきましたが、反応してなにを感じるかを説明します。
 感受性は三つ、楽、苦、苦でも楽でもない(不苦不楽)という三つだけです。
 例えば、耳に音が触れたら、「感じた」「聞こえた」とほぼ同時に、苦か、楽か、不苦不楽かを感じています。だから我々はいつでも、感受性として、生きている間に、苦しみを感じる、そのほとんどは「貪瞋痴」という感情を感じる。楽しみsukhaを感じる。あるいは、不苦不楽adukkha-asukkhaを感じる。
 お釈迦様の教えである、お経を細かく砕いて読んでみてください、批判でも、宗教の分析でも、輪廻の説明でも、その中心は「受」感受性です。すべての原因はここから始まると。生命だから、何かに触れて感じて生きています、感じない瞬間はなく、その感覚とは、楽か苦か不苦不楽の三つだけです。
 人は、眼耳鼻舌身意があって、その六つの感覚器官から反応している機関に過ぎません。その反応で感覚は、苦、楽、不苦不楽その三つの単純な反応から妄想して、いろいろなことを言葉にして、思想やら社会問題やらを作る。この妄想が作り出す世界は、そのほとんどは「貪瞋痴」という感情から作られます。このような世界に生きるのを、苦dukkhaといいます。
 この受に基づいて、存在という、からくりが回っています。梵網経という経典に「世の中で起こりうる一切の宗教・哲学・概念などは、受から始まる」と説かれています。この受は因縁によって瞬間に消える無常aniccaṃなものです。だから「受に基づいて妄想推測をはたらかせて概念を作るのではなく、受に対する執着を捨てれば、苦を乗り越えて解脱に達することができる」と説かれています
 六処(眼耳鼻舌身意)という場所で、受という、はたらきが原因・ステップとなり、想・行という、はたらきが「私」つまり「自分がいる」という実感を作る、この「私」という実感は、受という感覚を合成すると二次的に表れる概念です、このことが無我anattāということです。
 受が「変わらない自分がいる」という壮大な錯覚を、引き起こしています。感受で知ったり、感受で考えたり、感受で妄想したりするのですから、感受で自我意識を断つというのは簡単ではありません。


 生命は、先ず刺激があって、「受」が感受して、心が反応し、それに対して外の世界からの反応があり、貪瞋痴やまれに善き感情で、さらに反応し、その新たな反応が新しい刺激を生んでいく、この繰り返しです。そこには何の意味もありません。
心が対象(例えば音など)に触れると、「受」の働きによりその対象を経験します、これが「聞こえる」です。心が聞こえます、心は一本の絶え間ない流れとして、細胞がDNDをコピーして生滅を繰り返し存続していくように、流れています。聞こえる、という心は、次の心にその、聞こえた、という経験を手渡していきます、その経験をしている主体が「受」です。
 過去世や今世において形成された業の結果を、一瞬一瞬、眼耳鼻舌身で経験し続けて、それぞれに反応して心が生起し、また新たな業を形成していき、それらの心を対象とする心がさらに生起していきます。
 この心の働きはすべて、「対象を経験する」ことで成り立っています、その対象を経験する主体が、心と共に生起する「受」です
 古来よりインドでは、人間は、名nāma(精神的現象)と 色rūpa(物質的現象)で作られているというのが常識でした、この人間と言う現象の中で、「対象を経験する」という働きを持っている構成要素(蘊)は「受」のみです、対象を経験し、感受しているのは、「私」でもなく「私の魂」でもなく、「受」です。このことがわかれば「そこに何の意味もない」と言うことが本当に見いだせれば、それこそ真理への道、仏道ということです



            十二処・十八界


 十二処とは認識の起こる場所ということです。煩悩の起こる場所であり、受想行識が起こる場所です。具体的に分析してみると、眼という処(場所)で、眼に見える色・形という処があり、二つが触れると感じる、そして受が起きて、同時に想行識も起こり、眼耳鼻舌身意という処に色声香味触法という処が触れて認識過程という作業が起こる。人が生きていると起こるすべての出来事は、身体で起こります、それを十二所という用語で省略しています。
眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処・色処・声処・香処・味処・触処・法処という十二処(場所)があります。


①眼という処と、見える色・形という処があり、二つが触れると感じる
②耳という処と、聞こえるという声という処があり、二つが触れると感じる
③鼻という処と、香るという香という処があり、二つが触れると感じる
④舌という処と、味わうという味という処があり、二つが触れると感じる
⑤身(皮膚)という処と、触れるという触という処があり、二つが触れると感じる
⑥意という処と、心的対象という法という処があり、二つが触れると感じる


 ①から⑤については、眼耳鼻舌身は人間の五感として知られ、私達にも、うなずけると思います、まとめて言えば、眼耳鼻舌身(内処)という身体の内側の認識器官に色声香味触(外処)という情報(外側の世界)が触れて、心が起こるということです。
⑥について説明します、意とはこころと同じ意味だと考えてもいいです、ではこころはどこにあるのかは、「身体の内側でこころのはたらきをしているどこか」、というのが答えです。これは、なにか特定の塊や器官というより身体全体ということです。現代の科学では頭(脳)というのが解りやすと思いますが、最先端の脳科学でも脳がこころや体をどの程度コントロールしているかは解らないことが多く、少なくとも、身体もこころも、脳だけでコントロールしているのではないことは、解ってきています。それでは触れる法とはなにか、眼耳鼻舌身以外の情報です。それは、頭でイメージした実在しないもの、具体的には、どこかでみた過去の風景・音・香り・味・触感、ドラえもん、天使、などや、存在するが五感でとらえるのが出来ないもの、具体的には、自身の眼や耳、眼に見えない紫外線(現在は機械で認識できますが、五感が直接は認識できません)など、涅槃も法に入ります。



 十八界とは、十二処は場所ですが、十八界は認識の世界すべて、人の存在に関わるものすべてという意味です。
眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界という十八界があります。


①眼という界と、見える色・形という界があり、二つが触れると感じ、眼識が生じる
②耳という界と、声という界があり、二つが触れると感じ、耳識が生じる
③鼻という界と、香という界があり、二つが触れると感じ、鼻識が生じる
④舌という界と、味という界があり、二つが触れると感じ、舌識が生じる
⑤身(皮膚という界)と、触という界があり、二つが触れると感じ、身識が生じる
⑥意という界と、法(心的対象)という界があり、二つが触れると感じ、意識が生じる


 五蘊・十二処・十八界は同じことを、異なる方法で分類して説明したものです。では、なぜ同じことをわざわざ説明するのか、それは学問や、哲学のためではなく、修行実践のために役に立つからです、心と身体(名色)で出来ている人を、このように分けて観察すれば悟りに役立つという、お釈迦様の観察方法が、五蘊・十二処・十八界です。



 ここで、仏教の認識、知るということの説明をしていきます、 五蘊と同様に十二処は生滅を繰り返しています、現象というのは、ある振動、生と滅を繰り返す、それは波のような現象です、仏教ではこれを、「現れては消える」、と表現します。解り難いなら、有―無、と言い換えてもいいと思います。例えば、耳に、音が、触れて聞こえた、という感覚が生じる。耳は、分子から、素粒子から出来ていて、素粒子はとどまることはありません、耳も、人間の身体も同じことです。つまりは、「現れては消える」ということです。振動を繰り返している波のような、変化を繰り返す流れです。
音も同じく、「現れては消える」(生―滅)の流れです。耳も音も流れです、生―滅(有―無)を繰り返す流れです、耳が有で音が有のとき触れる(ぶつかる)と反応が起こります、その反応が、「聞こえた」ということ「感覚が生まれた」と言っても同じです。
感覚器官である、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つ(六根)があります
認識対象であう、色・声・香・味・触・法という六つ(六境)があります
 六根が六境に触れることで、視覚、聴覚という感覚、認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が生まれます。
 感覚、認識というのが、仏教の知るという機能です、心(nāma・名)です、そして、この心は、ものすごい速さで変化していきます。


図.1 十二処です
(内処)眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処
(外処)色処・声処・香処・味処・触処・法処


図.2 十二処を四つに分けています、これは解りやすくするための区分です
 内五処    眼処・耳処・鼻処・舌処・身処
 内一処 意処
 外五処 色処・声処・香処・味処・触処
 外一処 法処


 図.3 十二所のうち、どの組み合わせで触が生じるかの図です 16通りの内、触が生じるのは5通りです、11通りは人間には知覚できません 

〇は触の生まれる組み合わせです、空白の触の欄では触は生まれません、つまり認識しない組み合わせです



 図.4は十二処の全ての組み合わせの図です 144通りの内、触が生じるのは17通りです、127通りは人間には知覚できません


 図.5は内処と外処の関係です


 感覚器官が滅のとき、認識対処が滅の時は認識しません、両方が生のときのみ認識します。図4で解るように私たちは四分の一しか認識していません、さらに図4でもわかるように、私達は現象のほんの一部分しか認識していません、ですから「ありのまま」を認識しているわけではないということがわかります。


 このように私たちは「ある・(生)」という世界だけを認識します、これは、私たちの知識はすべて「ある」という世界のことだけ、ということです。
 なにを意味しているかというと、人間の知識では、ものごとの変化を「ある」から「ある」しか認識できないということです、水を電気ポットに入れて、コンセントを差せば沸騰する、この現象過程も、「ある」から「ある」しか認識できない、これは無常の知識ではありません。
「ある」から「ない」から「ある」、つまり、「現れては消える」(生―滅)の流れは認識できないということです。


では、「ない」は認識できないのに、なぜ解るのか、具体例で説明します、100円のコインが昨日は財布に「あった」が今日は「ない」。あるいは、財布を見たら「あるはず」のコインが「なかった」というように、「ない」ことを推測しているが、「ない」ことを直接は認識できません。
 もう一つ具体例を、目をつむって、コインを手のひらでポンポンと投げて弾ませます、手のひらに触れているときは、コインを認識して「ある」とわかりますが、手のひらから離れ空中にあるときは認識しないので、なにもわかりません、落ちてくればわかります。全体の流れとしては「ない」は推測にすぎませんが、わかります、これが人の認識です。


お釈迦様は「ない」を説明するのに、
否定形  「ない」を説明するのに、「あるのではない」という形
二項対立 「ある」を説明して、対になるのが「ない」だよという図式を使って説明します。



  次回は、業、無我について記載します

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