ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章1~3の仏教副読本(Ⅰ)


仏 教 副 読 本


 ウダーナという経典は、転法輪転経という経典で、ご自分の悟った内容である中道とその実践法である八正道、苦集滅道の四諦を説いた。その時、五人のうちコンダンニャが悟りをひらき「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」という言を口にした。その姿を見て、お釈迦様は「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」と。唱えたと伝わっています。
  お釈迦様が口から発した
「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」
という言がウダーナです。


 ウダーナは、お釈迦様が、ときと場所を考えて、誰かにあてて説いた、誰かのために説いた言ではなく、自然に発した言です、ウダーナという経典は、このお釈迦様が自然に発した言に、後世の人々が、ふさわしと思われる、時と場所や経典から選んだエピソードなどの解説をつけて、一つの経典として編集したものと思われます。文体などからしても、ほぼ間違いのないことだと思われます。後世の人々が、物語などを付け加える時には、お釈迦様の教えは、ある程度体系化され、お釈迦様の生涯やお弟子さん達の物語は、常識としてウダーナという経典は編集されていると思われます。
 そこで、副読本という形で常識を記載していきます。インドは歴史を残さない文化です、何時、お釈迦様の言に、物語が関連づけられ、ウダーナが編集されたのか正確には解りません、常識と言っても正確とはいきませんが、ウダーナを理解するのに役立つような、ことを記載していきます。


なにを悟ったか


 ウダーナ1-1~3は、お釈迦様が悟りを開いた直後の様子が語られています。このときに、お釈迦様が口にされた言葉が別な経典に伝わっているので記載します。


Anekajātisaṃsāraṃ ,
無数の生涯の輪廻を
sandhāvissaṃ anibbisaṃ;
見出すことなく流転した       
Gahakārakaṃ gavesanto,
家の作者を探し求めて
dukkhā jāti punappunaṃ.
再三再四の生は,苦しいことだ     


154Gahakāraka diṭṭhosi,
家の作者よ、お前は見られた
puna gehaṃ na kāhasi;
再び家を作らないであろう 
Sabbā te phāsukā bhaggā,
すべてのお前の梁は壊れた
gahakūṭaṃ visaṅkhataṃ;
家の屋根は構成力を離れた
Visaṅkhāragataṃ cittaṃ,
構成力を離れた心は
taṇhānaṃ khayamajjhagā.
渇愛を滅ぼしに到達した 
(ダンマパダ153・154)


 シャカ族の王子シッダッタは、ゴータマ家の家長スッドダーナ王と母親マーヤー王妃の息子として生まれた。王子二十九歳の時、何不自由のない優雅な宮廷生活を自ら放棄されるや『生』『老』『病』『死』の苦しみを解決する道を探し求めるため出家修行者となられた。その後六年間、沙門シッタックはガンガ川流域を放浪しながら当時の有名な宗教家たちに師事しては彼らの教理と修行方法を学び、そして、死の一歩手前の極限状態まで自分を追いつめるほどの苦行を続けられたが、それでも探し求める結果を得ることができなかった。この体験をもとに苦行では自分の目的を達することはできないと理解されたシッダッタは、快楽主義や苦行主義という両極端な修行方法を捨る決心をされた。そして、智慧の眼を生じさせ、完全なる心の平和に導く中道を知るや自ら八つの部分からなる聖なる道の実践(八聖道)をはじめられた。
 やがて三十五歳になられた沙門シッダッタは、ある日、ネランジャラー川の辺にある菩提樹の下で「私は自分が求める結果を得るまでは死んでもここを離れない」という決意を胸に秘め一人静かに座られたのである。その夜の初夜にまず自分の心の中にある悪魔(Mara)の甘い誘惑と強い脅迫に勝利されたシッダッタは、やがて深い禅定の力によってはるかな過去世から現在に至るまで自分及び他人の前世のことを知ることができる宿住智を、さらに中夜には天人の眼のように肉眼で見えない遠い所や微小な所を見えることができる天眼智を、次の後夜にはすべての煩悩を残らず滅し尽くす漏尽智を得られたのである。そして、これらのすぐれた智慧によって、人は生死を繰り返し、そのたびに老死の苦しみを受ける流転・還滅の中に独自の『縁起の道理』を発見され、さらにそれを観察されたのである。この縁起の瞑想に一夜を過ごされたシッダッタは、やがて暁天に明星が現れる頃、その智慧と明察力によって聖なる四つの真理(四聖諦)を自ら完全に理解されるとともに、自己の覚った真理を他の人に救済として悟らしめる覚者・仏陀となられたのである。この最高の真理を発見された時、仏陀は思わず次の二つの詩を歓喜の中で唱えられたのであ
る。
 「私は、この身体という家を建てる大工を、遥か昔の覚者が「あなたは将来ブッダ(仏陀)
になるであろう」と予言されて以来、探し求めていた。しかし、これまで菩提智という智慧を覚れなかった私は、その大工を見つけ出すことができず、数えきれないほど生死を繰り返し、さ迷っていた。この輪廻の世界に生まれ続けることは、‥‥・実に、苦しみ以外なにものでもない」 
 「この身体という家を作る大工よ。私はこの菩提智によって、ついにあなたを見つけた。これからはもう家を建てることはできないだろう。何故ならば、あなたの家の煩悩という『たる木』も無明という『むな木』も折れて屋根が崩壊してしまったからである。
私の心は、もはや家を作る行為から離れ『生』『老』『病』『死』の苦しみのない完全な幸福の境地にある。もろもろの渇愛を尽滅する漏尽智を得たのである」と。
                        (ダンマパダ153・154の因縁物語)


この詩は、上座部仏教の国々では開眼供養などの時に唱えられる。


 ウダーナ1-1~3と、ほぼ同じ内容が、最古の仏伝と言われる、パーリ仏典(パーリ三蔵経典)、律蔵(戒律をまとめた文献)の犍度、大品に記載されています。


 上記の様に、ウダーナは多くの経典と深いつながりがあります、ウダーナを入口にして、おなじ内容の経典をご自分で探してみるのも、よいと思います。



 仏教副読本ではこれから、ウダーナの理解に役立ことを記載していきます。


 縁起について


 もろもろの現象は原因から生ずる。真理の体現者はその原因を説きたもう。もろもろの現象の消滅をも説かれる。
大いなる修行者(お釈迦様)はこのように説きたもう。
(律蔵 大品)
縁起についての有名な言です。
「原因があって結果がある、原因がなくなって結果がなくなる」
この教えをお釈迦様は説いている、つまり、これこそお釈迦様の教という意味です。これはどういうことかを、これから記載していきます。


 縁起の型式つまりは、お釈迦様が智慧を使う方法を記載します。
   ①これがあるからあれがある、②これが生ずるからあれが生ずる
   ③これがないからあれがない、④これが滅するからあれが滅する

 ①は常に支え合っている因果関係、②は原因によって原因と異なる果が生まれるという連続性を示す因果関係   
 世の中の現象は、二つの側面があり、ここにある現象を、それはどうゆうことかと説明すること(例えば引力という原因が絶えずあるので、人は地面に付いている)が必要なのと、その現象が変化して違う現象になる(百年前の世界と今の世界が、だいぶ変わっているように)その、現象が違う現象になる仕組みも説明しなくてはなりません。その両方を説明するための、厳密に見るための方法です。
③④は①②の反対です、これは正しいと確かめるための方法です。「AがあるときBがある」、これが正しいと確かめるには、「AがないときBもない」と発見し、Bという現象の存在にAという現象が欠かせないと、確かめる、こうして、すべてのものごとを観察したお釈迦様は、一切の現象は無常であり、消えてゆくものだと発見したのです。
縁起というのは、因(原因)と果(結果)で一切(世界)を語ります、因と果の間の現象は何も語りません、人間という存在は生滅を繰り返していく存在とまでは語りえますが、現れては消えながら映画のフィルムの様に流れて行くのに、人の記憶は、なぜつながっていくのかはわからないのです、人間の解りえる範囲には限度があります、難しい論議は、その限度を超えて言葉の世界でその答えを解ったように語っているだけです。
お釈迦様の法は、縁起という説明方法で一切を解る範囲で開示して、その姿を見つめる方法を語っている教えです
 縁起というのは、すべての事象は、このように観察していけばいいという方法が縁起です。ですから縁起というのは、人が生きていれば無数にあります、例えば、なにか食べるという結果の原因は、食べようという意志が原因としてあり、食物も原因、食器も原因、食物の生産者も原因、料理に使った火も原因などなど、無数に原因があり結果があります。


 十二縁起とは、お釈迦様が十二の項目を選び出して並べた教えです、その目的は、悟りをえるためです、それでは、どうしたらよいか、それは欲(無明・渇愛)を滅ぼすということだ、というのを一目で解るように、多くのお弟子さん達が解るように説いた教えです。
相手が理解しやすいように、無数の縁起の中から相手が学んできた言葉で、相手のレベルに合わせて説いています。
 縁起の法は、身近なところから始まる教えです。お釈迦様の教えは四聖諦でも一番身近な苦諦から始まり、悟りへの修行方法でも、身近な生活を整える戒律から始まり、瞑想でもまずは自分自身の体から始めていく、縁起の教えを理解するのなら身近なところから始めていけばよいのです。
 それぞれがそれぞれに生滅を繰り返し行く縁起の世界では、因と果の間の現象は解らないが、確かに無明と渇愛は因果があり存在する、この無明と渇愛(煩悩)が我(私)をつくり、生物として生きるのに都合のいいように心という〝しくみ〟をつくり瞬間瞬間を生きています、この〝しくみ〟を見て取り、表現したのが十二縁起です


十二縁起を簡単に記入しておきます


 先ず生命、生きることがテーマなのが十二縁起です、生きることは生命のことで、それは動き続けることであり、①これがあるからあれがある、のであるから、生命があるのから縁起があります。③これがないからあれがない、生命がなければ縁起がありません。


無明ではじまるのは因果をことばにするためには因が必要なので持ってきただけです
 無明→行 
煩悩で潜在的な要因(業)をつくる、真理を知らない状態から生きるために動かなければならないから衝動が生じる
 行→識 
潜在的な要因(業)が表面に現れて心(識)をつくる。生命の認識が現れる。
 識→名色 
心から体ができてきます。物質と心の区別がある世界が起こる。
 名色→六処 
心の感じる六種類の機能(チャンネル)ができます
 六処→触 
心が触れて感受(認識)がはじまります、人間の解る範囲をここで明らかに説明する。
十二処・十八界などの説明はこの説明です
 触→受 
心が外からの刺激(触)で〝しくみ〟をつかい、ふるいにかけて苦・楽などをきめま
す。このとき過去の記憶と照合する働きが想です
 受→渇愛 
渇愛はこれいいね程度の欲が生まれます
 渇愛→執着 
これいいね程度から、欲しい・離さないという欲になります
 無明も渇愛も執着も欲です、この欲が我をつくる、その〝しくみ〟が心です、そして執着があると次の生をつくる、執着すると無常が解らなくなり無常を無視して新たな生をつくる。
 執着→有 
執着から業(行)が生まれ(有り)・この世に生まれる(有る)
 有→生 
この世に生まれます
 生→老死愁悲苦憂悩
  苦が生まれます
苦が生まれる〝しくみ〟の説明が十二縁起とも言えます


 十二縁起は具体的に考え立体的に語られるが言葉では表現が困難です、そこで四聖諦や無常・無我・苦という形にして説いていきます


 下記は十二縁起についてテーラワーダで伝統的に説かれている教えです、興味のある方は読んでください


 無明 知るべき法をしらないことを無明という、その自性は不善心と相応する痴である。この無明は、四聖諦、前辺、後辺、前辺・後辺、十二縁起の8点について正しい理解ができないこと、つまり、理解できないように慧を妨げているのが無明である。


 無明という縁から行 現世のあらゆる身業・語業・意業、及び次有に異熟をもたらすあらゆる業を行という。つまり、善行・不善行・不動行の3種であり、その自性は世間善心・不善心に相応する29の思である。(道の思は異熟をもたらす有為であっても、輪転に属さないので行に入らない)
 その中、欲界善心8、色界善心5と相応する13の思を善行といい、不善心と相応する12の思を不善行といい、無色界善心と相応する4の思を不動行という。(無色界は定の力が勝れているため、敵対法に対して動揺しないので不動と言われる)
 無明に縁って善行・不善行・不動行の起こる様子は次の通りです。名色蘊を得ている限り、生・老・病・死などの不可避の苦を初めとして、財の損出、愛する者との離別、憎む者との出会い、求めて得られないなどの様々の苦を受けるが、渇愛を抱く人々は無明に妨げられて、その苦を見ることができず、善行。不動行を為すのである、また、殺生などの不善行を為せば、現では人に嫌われ、次有では離善地に落ちるなどの結果を招く、不与取や邪欲行なども同様である。しかし、死を望む人が毒を恐れないように、無明のためにその結果を見ることができない人々は、殺生などの瞋恚悪行を為し、また、幼児が大便を玩ぶように邪欲行をなす。


 行という縁から識 この場合、識の自性は、結生時・生起時における世間異熟心32です。その中、善行を縁として欲界無因異熟8、大善心8、色界異熟5の21識が生じ、不善行を縁として、不善無因異熟7識が生じ、不動行を縁として無色界異熟4識が生じる。なお、出世間の異熟識は輪転に属さないものであるから識に入れない。


 識という縁から名色 識が縁となる際の、その識の自性は、過去業識、つまり思と称される業と相応する識、及び異熟識である。同じく、この際の名の自性は、異熟心と相応する心所であり、色の自性は業生色です。
 結生識が生じる時には、この識と相応する名蘊(受・想・行)と業生色も同時に生じる。この同時に生じるものの中、識が主になっているので、識によって名色が生じるというのである。生起時にも、眼識などに相応する心所が同時に生じるのである。(この場合にも名の自性として、心と心所を共に取るべきであるが、識の自性として縁の力から已に取り上げているため、縁と縁所生とが混乱しないように、名の自性から心を除いた。)
そして、識が名色を生じさせると言っても、五蘊地の場合には眼識などの前五蘊は、名のみを生じさせ、心生色を生じさせない。しかし、他の識は名・色を共に生じさせる。無色界には色がないので名のみを生じさせ、無想有情地には、その地に生まれる前の、過去世で修した第五禅業である業識が業生色を生じさせる。


 名色という縁から六処 世間異熟心と相応する心所としての名と業生色とを縁として、眼・耳・鼻・舌・身の色処五と、世間異熟心32の意処とが生じる。すなわち、名色が生じるとその中に業生色も含まれているから、業生色の中に含まれている眼色などの色処5も同時に生じることになる。つまり、業生色が生じれば、眼色などの色処も必ず生じるのである。また心所としての名も意処である異熟識に対して倶生縁などの力で縁となる。このように五蘊地においては名色が六処を生じさせ、無色界地においては名が意処のみを生じさせるのです。


 六処という縁から触 六処とは已に述べた眼浄色などの六内処であり、(色処などの六外処も合わせて取る説もある。)触の自性は世間異熟心32に相応する触心所である。この触は六内処に応じて眼触・耳触・舌触・身触・意触の6種となる。この中、眼浄色(眼基)に依私止する触を眼触という。つまり、眼識に相応する触心所で。この眼触は眼処が無ければ生じることができない。耳・鼻・舌・身触などが生じるのも同様です。
 次に前五識10を除いた世間異熟心22に相応する触を意触という。この意触も意処が無ければ生ずることができない。


 触という縁から受 触とは先に述べた触心所であって、この触によって生じる触所生受という。その自性は世間異熟心32の相応する受心所である。受もそれに応じて眼触所生受・耳触所生受・鼻触所生受・舌触所生受・身触所生受・意触所生受の6種となる。つまり接触が無ければ感受作用も生じないのです。


 受という縁から渇愛 受が6種あるから、それを縁とする渇愛の、色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛の6種となる。すなわち眼触所生受を縁として色愛が生じ、同じく他の耳触所生受などを縁として、それぞれ声愛などが生じるのです。貪根心8と相応する貪心所である。そして、ここで受を縁として渇愛が生じると称しながら、渇愛を色愛などと名づけるのは、色所縁などが受を伴い、それに対して渇愛が働くからです。
 例えば色愛の場合、色所縁を貪るのは、その色所縁が楽受を伴っているからである。この楽受に対して渇愛が働くのである。苦受にたいしても、その苦受から逃れて他の受を得ようと貪り、捨受に対しても、その捨受を貪る渇愛が働くのです。


 割愛という縁から執着 執着(取)とは、4種の執着であるから、縁としての渇愛の自性と4種の執着中の欲の執着の自性とは同じ貪ということになる。しかし両者は自性は同じ貪であっても働きが異なっている。つまり、所縁に対して貪る度合が、渇愛は弱く、欲に執着は強いのです。例えば、或る色所縁を見る時には、先ず、渇愛が生じ、それが強くなれば欲の執着というのです。
 次に、我説の執着は、五蘊に対して我という霊魂があると執着する見です。つまり有身見であるが、そもそも、この有身見が生じるのは、自分に対する渇愛のためであるから、この渇愛から有身見という執着が生じると言われるのです、また習性行の執着においても、それは次有に楽を得んがためであるから、これも渇愛に基づいて生じることがわかる。見の執着も同じく渇愛によるものです。


 執着という縁から有 有には業そのものとしての業有と、その業有の結果としての起有との2種がある。業有とは、世間善心17と不善心12とに相応する思29である。すなわち、行の箇所で述べた善・不善行・不動行のことである。
 起有とは、その業有より生じる世間異熟心、それと相応する心所、及び業生色である。すなわち欲有・色有・無色有である。例えば次の執着の場合、この執着があるため或る者は現世の欲楽を得ようと、殺・盗などの業有を為して離善地に起有を得、或る者は天人や人間の業の楽を求めて欲界善である布施などの業有をなして欲善趣地に起有を得、或る者は更に欲界より上の楽を求めて色界禅・無色界禅である業有を修し、色界・無色界に起有を得るのである。
 このようにして次の執着から業有。起有の両者が生じる。見などの執着の場合も、それぞれの執着のため適宜に業有と起有が生じるのは同様である。
<行と業有の相異>業と業有とは共に世間善・不善心に相応する思であるが、行は現世に異熟をもたらすところの過去世に生じた思であり、業有は来世に異熟をもたらすところの現世に生じる思である。つまり、思としては同じであっても、その思が生じる時点が過去世であるか、現世であるかによって行となり、業有となる訳である。


 有という縁から生 この場合に有は、業有のみを意味し、生とは三界の各有における結生の刹那に生じる世間異熟名蘊と業生色とである。例えば人界に結生する場合、結生心としての大異熟第一心、それと相応する心所、及び業生聚3などの、その有における最初の名色蘊が生である。三界の他の地における場合も同様である。つまり有と生とは、業とその異熟の関係に他ならない。


 生という縁から老・死・愁・悲・苦・憂・悩 老とは、結生以来死ぬまでの間における世間異熟名蘊・業生色などの老いる状態である。死とは、同じく世間異熟名蘊・業生色が死滅すること。愁とは愁えること、例えば親族・財産・名誉などが損なわれることを心配するのが愁であり、その自性は瞋恚相応心と相応する憂受である。悲とは悲泣のこと、例えば親族・財産・名誉などを失った時に、声を挙げてなき悲しむなどは悲であり、その自性は心生による顚倒の声色である。苦とは肉体的な苦痛のこと、その自性は心識と相応する苦受である。憂とは親族・財産・名誉などを失うこと、愛する者との離別、憎む者との出会い、求めても得られないなどによって生じる精神的苦痛であり、その自性は瞋恚相応心と相応する憂受である。悩とは悲・愁より更に激しい苦脳であり、その自性は瞋恚相応心と相応する瞋恚である。以上で明らかなように、一切の苦は無明などを縁として生じるのであって、ブラフマンなどの絶対神の作るものではない。


 十二縁起について経典から記載します、下記は無明から十二縁起が始まるのは、なぜかというお釈迦様の答えです。


 2. Yamakavaggo 10. 2. 2. 1 Avijjā suttaṃ (Sāvatthi)
Purimā bhikkhave koṭi na paññāyati avijjāya 'ito pubbe avijjā nāhosi, atha pacchā sambhavī'ti. Evametaṃ bhikkhave vuccati, atha ca pana paññāyati 'idappaccayā avijjā'ti.
「比丘たちよ、無明のばあい、『無明は、これより前には有ることなく、後に発生した』という、前端(直前の存在)が覚知されることはありません。比丘たちよ、私はこのように説きます、『この縁から、無明がある』と覚知されます」(アングッタラ・ニカーヤ10.2.2.1)
意訳
「比丘たちよ、無明のばあい、『無明は、この時点で最初に起きた。それ以前に無明はなかった』と定めることは不可能だ。比丘たちよ、私はこのように説きます、『(現象の)最初の端は成り立ちません』と覚知されます」


 10. 2. 2. 2 Taṇhā suttaṃ (Sāvatthi)
''Purimā bhikkhave koṭi na paññāyati bhavataṇhāya, ito pubbe bhavataṇhā nāhosi, atha pacchā sambhavī1''ti. Evañcetaṃ bhikkhave vuccati, atha ca pana paññāyati ''idapaccayā bhavataṇhā''ti.
「比丘たちよ、生存への渇愛のばあい、『生存への渇愛は、これより前には有ることなく、後に発生した』という、前端が覚知されることはありません。比丘たちよ、私はこのように説きます、『この縁から、生存への渇愛がある』と覚知されます」(アングッタラ・ニカーヤ10.2.2.2)と。
  意訳
 「比丘たちよ、渇愛のばあい、『渇愛は、この時点で最初に起きたのだ。それ以前に渇愛はなかった』と定めることは不可能だ。比丘たちよ、私はこのように説きます、『(現象の)最初の端は成り立ちません』と覚知されます」


 お釈迦様の十二縁起にかんする自らの言です。


‘‘Iti hidaṃ avijjāpaccayā saṅkhārā; saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ…pe… evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hoti. ‘Samudayo, samudayo’ti kho me, bhikkhave, pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
十二縁起を語ったのちに
比丘たちよ、私はこのように考えたのである
「集合し起こる、集合し起こる」といまだかつて聞かれたことのない法に対して、私に眼が生じ、知識が生じ、知恵が生じ、明知は生じ光が生じた
(サンユッタニカーヤ12・10・15)


‘‘Iti hidaṃ avijjānirodhā saṅkhāranirodho; saṅkhāranirodhā viññāṇanirodho…pe… evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa nirodho hoti. ‘Nirodho, nirodho’ti kho me, bhikkhave, pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādī’’ti. Dasamo.
十二縁起を語ったのちに
比丘たちよ、私はこのように考えたのである
「離散し滅する、離散し滅する」といまだかつて聞かれたことのない法に対して、私に眼が生じ、知識が生じ、知恵が生じ、明知は生じ光が生じた
(サンユッタニカーヤ 12・10・15)


 明知は生じ光が生じたとは、悟りに達したと同義です。お釈迦様が自ら縁起の法を、いまだかつて聞かれたことのない法と、お弟子さんに語り、十二縁起はお釈迦様の教えだと語っている経典です。


 十二縁起、ひとつひとつの要素は、(他を)条件付けると同時に、(他により)条件付けられている。すべては相対的であり、相互依存しており、相互に関連しており、何一つとして絶対ではなく、独立していない。仏教では何かが絶対的主因であるとは見なさない、これも縁起の教えの自然な答えです。始まりが、人には解らないとなれば、始まりという一点は言葉の概念でしかなく、仏教には不要になります、そこで、縁起は、完結する閉じた輪と見なすべきであり、完結しない単なる連鎖と見なすべきではない。という表現がなされ、仏教の教えが円として表現されていきます。

×

非ログインユーザーとして返信する