ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

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ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第5章10チューラパンタカの経 (現代訳・解説)


5.10 チューラパンタカの経(50) 
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にて、尊者チューラパンタカがお釈迦様から遠く離れていないところ、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて全面に、きづきを置いて坐っていたのです。
 お釈迦様はチューラパンタカが、遠く離れていないところ、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて全面に、きづきを置いて坐っているのを見ました
そのときお釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
 
安定した身体によって、安定した心によって
立ち、坐り、寝ている姿で
このきづきを保っているならビクは
過去と未来の問題を解決する
過去と未来の問題を解決して
死王との関係から外れた
(61)
     以上が第十の経となる。



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 経典の詩一つ覚えられないで、僧団を兄に追い出されそうになったチューラパンタカ尊者を、お釈迦様が一枚の布を渡し「ちりを払え・ちりを払え」と唱えながら掃除をすることで、悟りに導いたというお話が伝わっていますが、真に何を見つめ、きづき、解決した(悟った)かを、ウダーナでは伝えています。けして、「ちりを払え・ちりを払え」とマントラを唱えればそれでよいという教えではなく、高度な瞑想法をお釈迦様は教えています。



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なにが書いてあるか
 インド文化の学問とは記憶力の勝負です。テキストと注釈書を覚えてから、理解する、議論することに進みます。
 チューラパンタカ尊者が四行の偈一つも暗記する力がなかったのです。ですから、一般人の評価基準によるならば、知識障害者になります。お釈迦様はちょっとしたプログラムをパンタカに教えたのです。きれいな布を与え“rajo haraṅaṃ・汚れを落とす”と唱えて修行しなさいと教えたのです。しかし、人間の脳は大量の概念を溜める器であるということ(見解)は、賢者になる条件ではないのです。
 チューラパンタカ尊者(の例)は釈尊のケーススタディの一つです。
俗世間が決める知識人、無知な人などの基準は仏教に関係がないのです。釈尊は、指導が正しければ誰にでも智慧が現れるのだという立場です。


(直訳詩)
Ṭhitena kāyena ṭhitena cetasā,
安立した身体、安立した心によって
Tiṭṭhaṃ nisinno uda vā sayāno;
立ち、坐り、臥している人は
Etaṃ satiṃ bhikkhu adhiṭṭhahāno,
このきづきを確立しているビクは
Labhetha pubbāpariyaṃ visesaṃ;
過去と未来の優れた位置を得る
Laddhāna pubbāpariyaṃ visesaṃ,
過去と未来の優れた位置を得て
Adassanaṃ maccurājassa gacche”ti.
死の王の見えないところへ行く



Ṭhitena kāyena ṭhitena cetasā,
安定した身体によって、安定した心によって
 *Ṭhitena kāyena  身体が安定している。
 *問題は、貪・瞋・痴で生きている人の身体は安定して機能しないのです。だから修行す
  る人はまず身体から訓練する。
 *安定した身体、安定した心をもって、立ち、坐る、あるいは臥(ふ)す比丘は、この想
  念(sati・きづき)を確立して、過去と未来の利益を得る。
 *hitena cetasā  こころが安定している。
 *思考・妄想・感情の混乱はない。
Tiṭṭhaṃ nisinno uda vā sayāno;
立ち、坐り、寝ている姿で
 *それで行・住・坐・臥(の瞑想実践)はこのような状態で行うのです。
Etaṃ satiṃ bhikkhu adhiṭṭhahāno,
このきづきを保っているならビクは
 *もし比丘がこれぐらいsati・きづきを保っているならば、きづきを行住坐臥の行為を安
  定して身体とこころで行えるまで育てるのですね。
 *何やっても、きづきがある状態で、歯を磨いても、座っていても、ご飯を食べていて
  も、きづきが力強くあるように訓練をしなくてはいけないのです。
 *釈尊はCūḷapanthaka尊者にsatiの実践のみを教えたのです。
Labhetha pubbāpariyaṃ visesaṃ;
過去と未来の問題を解決する
Laddhāna pubbāpariyaṃ visesaṃ,
過去と未来の問題を解決して
 *Satiが確立したならば、過去と将来に対する問題を解決します。
 *時間という妄想概念に人々は束縛されているのです。
 *この束縛から解放されます。悟りです。
 *きづきを実践する人は、一切の現象は無常・苦・無我だと分かるのです。
 *現象が現れて、すぐ消えちゃう。痛みが現れてもすぐ消えちゃう。痒みがあってもすぐ
  消えちゃう。だから引っかかる必要はないのです。消えない現象はないのです。それに
  目覚めるのです。
 *「ある」とは瞬間のことです。それも因縁によって成り立った現象です。
 *従って、過去、将来、現在などは人が作る概念であって、実在するものではありませ
  ん。その状態がpubbāpariyaṃ
 *visesaṃであると書いているのです。
  *これを軽く言うならば、聖者に過去、将来と現在は存在しません。
  *この智慧はpubbāpariyaṃ visesaṃというのです。この智慧を発見するのです。


そのお坊さまは、聖者は、
Adassanaṃ maccurājassa gacche
死王の関係から外れた
 *輪廻転生から脱出したという意味になるのです。
 *pubbāpariyaṃ visesaṃという智慧に達した聖者は、死王に管理することはできない。
 *解脱に達しているのだという意味です。
              


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伝 記


チューラ・パンタカ尊者


 ふたりの兄弟は、道のうえで生まれたことから、「パンタカ(道の者)」と名づけられた。兄マハー・パンタカは、出家して、知慧を得て。アラカンとなって、弟のチューラ・パンタカを出家させた。
  美しいコーカナダ蓮華が早朝に花ひらき
香りを四方に放つように、
光り輝いているアンギーラサ(古代の神人・ブッダの尊称の一つ)を見よ
空中にある太陽のように輝いている
    この詩偈を弟に与えた。
 チューラ・パンタカは、その詩偈を、四か月しても覚えられなかった
兄のマハー・パンタカは、「おまえは、お釈迦様の教えを学べない」と告げて、精舎から追い出した。
 その時、兄のマハー・パンタカ長老は、どの人々からのお食事のお布施を受けるか順番を決める係をしていた。ジーヴァカという長者が、兄のマハー・パンタカ長老のところにやって来て、「尊き方よ、明日お釈迦様と五百のビク(お弟子さん)と、わたしたちの家で、お食事をなさってください」と言った。マハー・パンタカ長老も「チューラ・パンタカを除いて、すべての者たちとうかがいます」と告げた。
チューラ・パンタカは、門小屋のところで泣き叫ぶ。お釈迦様はそれを見て、「なぜ、泣き叫ぶのですか」と語りかけた。チューラ・パンタカは、そのいきさつ告げた。
 お釈迦様は、
「詩を覚えられない者は、わたしの教えを学べないことはない。憂い悲しむことはありません」と、チューラ・パンタカの腕を執って精舎に入って、布を与えた。
「さあ、これで清らかなものをひたすらに念じて、きをつけて『ちりをはらえ』『あかをとれ』と、となえなさい」と。チューラ・パンタカが、そのとおりにしていると、布は真っ黒となった。チューラ・パンタカは、「衣は、清らかなもの、ここに汚れは存在しない。わたしがあるには、この汚れがある」と心にきづき、五蘊を見通す知恵が生じて、あるがままの観察をして、悟りのすぐ近くの心が生じた。
 お釈迦様は、チューラ・パンタカに光輝く詩偈を語った。
 貪り(貪)がちりであり、あかであると、説かれることはない。
『ちりあか』とは、貪りと同じである。この『ちりあか』を捨てて、賢者たちは、『ちりあか』を離れた教えの境地につく。
 怒り(瞋)がちりであり、あかであると、説かれることはない。
『ちりあか』とは、怒りと同じである。この『ちりあか』を捨てて、賢者たちは、『ちりあか』を離れた教えの境地につく。
 迷い(痴)がちりであり、あかであると、説かれることはない。
『ちりあか』とは、迷いと同じである。この『ちりあか』を捨てて、賢者たちは、『ちりあか』を離れた教えの境地につく。
 チューラ・パンタカは詩偈の終わりで、知慧と六つの神知と九つの世俗を超える法(性質)が獲得して、ときはなたれた(悟りを得た)。
 お釈迦様は、次の日、ジーヴァカの家に、ビク(お弟子さん)たちと共にお食事のお布施を受けに訪問した。食前の水で手をすすぎ、粥がもられるとき、お釈迦様は、手で鉢をふさいだ。ジーヴァカ長者は、「尊き方よ、いかがしたのですか」とたずねた。「精舎に、ひとりのビクがいます」と。
 ジーヴァカ長者は、人を送る。「行け、尊き方を、急ぎ、我が家にお連れしろ」と。
その朝、お釈迦様が精舎から出るとき、この詩偈が語られた
 「パンタカは、千回、自分の姿かたちをつくりだして、美しいマンゴーの林に坐した――
  食事の時の知らせがあるまで」
 ジーヴァカの使者は精舎に行って、光り輝く衣で一面の光となっているマンゴー林の僧園を見て、家に帰って、「尊き方よ僧園は、ビクたちで満ちています。どなたが尊き方であるか、わかりません」と言った。お釈迦様は、「さあ、行きなさい。あなたが最初に見る者、その者の衣をとって、『教師が、あなたを呼んでいる』と伝えて、連れてきなさい」と。ジーヴァカの使者は僧園に行って、長老チューラ・パンタカの衣をとった。その時一瞬にして僧院を光り輝く園にしていたチューラ・パンタカの神通力により作り出された数千のビクたちが消えた。長老は、「さあ、お行きなさい」と、ジーヴァカの使者を送り出して、顔を洗い、支度をして、使者より早く家に行って、ご自分の席に坐した。


  「テーラガーター」五五七~五六六を説く。
五五七 わたしの進歩は遅かった。わたしは以前には慨蔑きれていた。兄はわたしを追い出した。 ―「さあ、お前は家へ帰れ!」といって。
五五八 こうして、追い出されて、わたしは僧団の通路の小川に、がっかりして、静かに立っていた。-なお教えのあることを期待して。
五五九 そこへ尊き師が来られて、わたしの頭を撫でて、わたしの手を執って、僧園のなかに連れて行かれた。
五六〇 慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。-「この浄らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって。
五六一 わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみながら、最上に道理に到達するために、精神統一を実践した。
五六二 わたしは過去世の状態を知った。見通す眼(天眼)は浄められた。三つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。
五六三 「パンタカは、何度も(神通力によって)千度も自分のすがたをつくり出し、楽しいマンゴーの林のなかで坐していた。-〔供養するための〕時が告げられるまで。
五六四 次いで、師は、時を告げる使者をわたしのところへ派遣された。時が告げられたときに、わたしは〔跳び上がって〕空中を通って〔師のもとに〕近づいた。
五六五 師の御足に敬礼して、わたしは。一方の側に坐した。わたしが坐したのを知って、そこで師は〔わたしの帰依を〕受けた。
五六六 全世界の布施(尊敬)を受ける人、もろもろの献供を受ける人、人間どもの(福を生ずる田)は、供物を受けたもうた。
  チューラパンクカ長老



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