ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第5章8僧団の分裂の経(現代訳・解説)
5.8 僧団の分裂の経(48)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、ラージャガハに住んでおられた。
ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて、尊者アーナンダは斎戒のその日に衣を着けて鉢と衣料をもって、ラージャガハに托鉢のために入りました。
デーヴァダッタは、尊者アーナンダが托鉢のためにラージャガハを歩んでいるのを見て、尊者アーナンダのいるところに行き尊者アーナンダに、こう言いました。
「友よ、アーナンダよ。今日以後、わたしは世尊とは別にビクの僧団とは別に斎戒を行
う。さらには僧団の行事・作法を行う」
尊者アーナンダは、ラージャガハを托鉢して、食事のあと托鉢から戻りお釈迦様のところに行き、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐った。尊者アーナンダは、お釈迦様に、こう申し上げた。
「尊き方よ、わたしは、衣を着て鉢と衣料をもって、ラージャガハに托鉢のために入りま
した。尊き方よ、デーヴァダッタはわたしが托鉢のためにラージャガハを歩んでいるの
を見て、わたしのいるところに来て、こう言いました。
友よ、アーナンダよ。今日以後、わたしは世尊とは別にビクの僧団とは別に斎戒を行う
つもりだ。さらには僧団の行事・作法を行うと。尊き方よ、今日デーヴァダッタは僧団
を分裂するつもりです。斎戒を行うつもりです。さらには僧団の行事・作法を行うつも
りです」
そのときお釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
善き者に善きことはなしやすい
悪しき者に善きことはなしがたい
悪しき者に悪しきことはなしやすい
聖者たちに悪しきことはなしがたい(59)
以上が第八の経となる。
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デーヴァダッタが僧団を分裂させる悪行のお話、お馴染みの悪役デーヴァダッタですが、この名前は当時最も一般的な名前で一人の人物かどうかは不明です
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なにが書いてあるか
サンガの分離は五逆罪の中のうち五番目(の罪)で、人に犯せる最大の罪ですが、現代の比丘サンガも宗派にグループに分けて活動しています。今あるテーラワーダの宗派分離罪として考えてないのです。それは仏法僧に対する不信感ではない。単純に日常生活・習慣の差だからです。衣の巻き方・色などで違いを強調するなど、テーラワーダ仏教の宗派は同じパーリ経典に従って修行しているので、ブッダの戒律と教えは真剣に守っているのです。分離したわけではない。
お釈迦様も出家の仲良しグループを認めているのです。
Devadattaの比丘サンガの分離はそれと違いますお釈迦様とお釈迦様の弟子達から離れて(否定して)別行動し、出家比丘の間で(月2回やる)uposatha(布薩)という儀式があります。出家が和合を保って、お釈迦様の教えどおりに励むことを確かめる会議です。議論すること、話合うこと、互いの生き方について調べることなどは可能ですが、そういうことはuposatha(布薩)では行わないのです。ただ戒律項目を唱えて皆仲良く頑張りましょうということで終わる。uposathaは儀式になっているが、参加することは義務になっている。
この重罪は誰にでも犯すことはできません。
*指導者が正式的に比丘であること。
*比丘サンガの会議(布薩)を行うために必要な定員(出家比丘の数が決まっていて)、gurum(グル)が揃っていること。
*定めた布薩の日にそのグループが分かれて布薩法要を行うこと。
*参加者全員が認めること。
*また、細かな副条件もあります。
*成功するために儀式の前に、日にちをかけてPR活動もします。
特色
*分離が成立した時は特色があります。
*釈迦牟尼仏陀を法主・本師として認めない。
*(お釈迦様の)教えを否定しないが、自分独自の変更、改良は可能です。
*教えを否定すると仏教徒であることも止めて異教徒になるので、サンガが困る分離にな
りません。
*現代で例としてあげられるのは大乗仏教の諸宗派です。
*一旦分離してから、また、その中からいくら分離してもサンガの分離罪に当たらないの
です。
*比丘サンガではないグループから離れる行為ですから(サンガの分離罪に当たらないの
です)。
(直訳詩)
Sukaraṃ sādhunā sādhu,
善き人に、善きことは、なし遂げる
Sādhu pāpena dukkaraṃ;
悪き人に、善きことは、なしがたい
Pāpaṃ pāpena sukaraṃ,
悪き人に、悪きことは、なしやすい
Pāpamariyehi dukkaran”ti.
聖者に、悪きことは、なしがい
解 説
Sukaraṃ sādhunā sādhu,
善き者に善きことはなしやすい
Sādhu pāpena dukkaraṃ;
悪しき者に善きことはなしがたい
Pāpaṃ pāpena sukaraṃ,
悪しき者に悪しきことはなしやすい
Pāpamariyehi dukkaran”ti.
聖者たちに悪しきことはなしがたい
*人の行為と性格の関係を理解できる偈です。この偈は人間の性格についてお釈迦様が語
っているのです。
*良いことをしたいという気持ちがあっても、それができない人もいる。
*頼まれても悪行為はできない人もいる。
*行為の善悪関係を乗り越えた人はいます。
悪人・善人・聖者
*悪人:貪・瞋・痴の本能で生きている。悪行為しかしない。善行為はできない。
*善人:貪・瞋・痴の悪感情を理性・道徳・判断能力などで(貪・瞋・痴の感情に)蓋を
しているのです。だから、善人は時々、混乱したり、失敗したり、感情と対立したりし
なくてはいけないのです。
*善人は性格が堅くなる(貪・瞋・痴の感情に誘惑されて柔軟性がなくなって堅くなる)
場合もあります。
*聖者:貪・瞋・痴の感情を完全に壊している。善人のこころに対立的に作る不貪・不
瞋・不痴も必要としないのです。
*聖者の一切の行為は俗世間的に(判断すれば)純粋善になるが、聖者にとっては単なる
行為で善でも悪でもありません。
