ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章10世とともに経(現代語訳・解説)

 3.10世とともに経はとても広い範囲を語る内容ですので副読本を作成しました
次回から8回に分けて公開していきます。



 3.10 世とともに経(30)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、ウルヴェーラーに住んでおられた。
 ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元で最初の悟りをひらき、七日のあいだ瞑想姿で坐って解脱の安楽に浸っておられた。
 お釈迦様は、七日が過ぎて心の統一から覚めて、覚者の眼でもって世間を見渡された。
 お釈迦様は、覚者の眼でもって世間を見渡しつつ生命が熱苦によって熱せられているのを、無数の苦悶によって身を焼かれているのを見ました。
  貪り(貪)から生じるものによっても
  怒り(瞋)から生じるものによっても
  迷い(痴)から生じるものによっても
 お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


世間の人々は、困っている
感覚のみなのに、自ら病気だと言う
思い描き、考えても
それとは、異なったものとなる
(34)


世間の人々は、変化するのに
生存を望み、生存に負け、生存を期待する
大いに喜ぶ時でも、それは恐れです
恐れが生まれる、それは苦しみです
この、生存欲を捨てるのに
清らかになる修行を実践する
(35)


 修行者であろうと、バラモンであろうと、誰であれ生存(有)によって実体的に生存の解放を言ったなら、彼らは、その一切が常住論者であり、迷いの生存から解放していないとわたしは説く
 修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ、非生存(非有)によって虚無的に生存の離脱を言ったなら、彼らは、その一切が断滅論者であり、迷いの生存から離脱していないとわたしは説く
  この苦しみは、心の依り所(依存の対象)を縁として生じる。
  全ての執着を滅することで、苦しみは生まれない
 世間の人々を見よ、無明に打ち負かされ生まれた生命であり、生命であることを喜ぶ者であり、迷いの生存から完全に解き放たれていない
 迷いの生存は、どこであれ、どのような存在でも、それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである


このように、事実の通りに
正しい智慧により、観ていると
生存欲は、捨てられる
非生存を喜ばない
渇愛を全て滅すること
貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃です
(36)


このように涅槃に到達したビクは
執着がないので、さらなる生存はもうない
まよいに、打ち勝ち
無数の生存を、乗り越えた
(37)
     以上が第十の経となる。



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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Ayaṃ loko santāpajāto,
世間の人々は、熱苦に陥り
Phassapareto rogaṃ vadati attato;
接触に打ち負かされて、自己では病だと言う
Yena yena hi maññati,
それで、思い考える
Tato taṃ hoti aññathā.
それとは、異なったものとなる




解 説


Ayaṃ loko santāpajāto
世間の人々は、困っている
 *santāpa 本当にどうしよう、困ったと泣いている状態です。
 *Ayaṃ loko この世の中の生命はいつでもそんな状態でいるのです。安らぎがないので
  す。
Phassapareto rogaṃ vadati attato;
感覚のみなのに、自ら病気だと言う
 *Phassapareto  眼耳鼻舌身にいろんな物が触れるだけですけど、足が痛い、腰が痛
  い、と言う
 *rogaṃ vadati attato  病気だと言っても、呼吸困難になっているとか、あれやこれや言
  っているのですが、それは感覚だけなのに、身体にいろんな感覚が起こると、そのまま
  それは観ないで、これは病気だと苦しむ。
Yena yena hi maññati
思い描き、考えても
 *その法則は、人はこうなって欲しい、こうなって欲しいと思う妄想で期待する。
Tato taṃ hoti aññathā
それとは、異なったものとなる
 *しかし現実的には、それと違うことが起こる
 *違うことが起きると皆、病気で倒れます。自分が思ったことが起こると、皆、舞い上が
  るけど、思った通りに世の中は変化しないのです。



(直訳詩)
Aññathābhāvī bhavasatto loko,
世間の人々は、異なる存在に変化し
Bhavapareto bhavamevābhinandati;
生存に打ち負け、生存を喜ぶ
Yadabhinandati taṃ bhayaṃ,
それを喜ぶ時なら、それは恐れであり
Yassa bhāyati taṃ dukkhaṃ;
それを恐れるなら、それは苦しみである
Bhavavippahānāya kho
生存を捨てるのに
panidaṃ brahmacariyaṃ vussati’’
また、この梵行を実践する



解 説
Aññathābhāvī bhavasatto loko,
世間の人々は、変化するのに
 *bhavasatto loko lokoは人々、人々は存在に執着している。生きることに。
 *しかし、Aññathābhāvī  それが変化する。あなたの期待どおりに行かない。生きて行
  きたいと思っても死ぬのです。毎秒、毎秒、年を取っている。身体が壊れて行く。
 *だから、bhavasatto   存在欲がある、生きて行きたいということに執着している生命
  は、現実的にはものごとは変化して行くということが分からない。そこで必死になるの
  です。
Bhavapareto bhavamevābhinandati;
生存を望み、生存に負け、生存を期待する
 *Bhavapareto  こんなことは嫌、生きて行きたい、生きて行きたいと、そういう意味で
  す。
 *そこで人々はbhavamevābhinandati; 存在ばかりまた期待する。
Yadabhinandati taṃ bhayaṃ
大いに喜ぶ時でも、それは恐れです
 *病気になれば怖い、何で怖いと思ったか、生きて行きたいからです、生きて行きたい
  と、さらに強く生きる意欲を作る。そして、病気にならないように、長生きできるよう
  にと考える。だから、恐怖を作ったのは存在です。そこで存在を期待して、さらに恐怖
  を作る。
Yassa bhāyati taṃ dukkhaṃ
恐れが生まれる、それは苦しみです
 *恐怖が生まれることは苦しみだと理解しましょう。
Bhavavippahānāya
この、生存欲を捨てるのに
 *この存在自体を、存在欲を無くせばいいのです。
 *身体はどうしても壊れる。それは法則であって、壊れて欲しくないという気持ちを無く
  そう。
panidaṃ brahmacariyaṃ vussa
清らかになる修行を実践する
 *そのためにbrahmacariyaṃは、仏道の修行はそのため実践するのだと。


 ある存在に達して、存在の苦を無くすと説く、これは常住諭とよばれ、いまの存在が苦なのだから、別な存在になればよい、例えば天国へ行けばすべて幸せとか、ブラフマンと一体となれば悟りというような考え。もう一つは、非存在に達して、存在の苦が無くなると行者が説く、これは死ねば終わりというような考えです。
両者とも「執着」を捨てないので、解脱に達しないとお釈迦様は説く。
どのような存在であっても、全て無常・苦・無我ということです


(直訳詩)
Evametaṃ yathābhūtaṃ,
このように、このことを
sammappaññāya passato;
正しい智慧により、感じていると
Bhavataṇhā pahīyati,
生存欲は、捨てられる
vibhavaṃ nābhinandati.
非生存を喜ぶことはない
‘‘Sabbaso taṇhānaṃ khayā,
すべての渇愛を滅し
Asesavirāganirodho nibbānaṃ
残りなく離欲と滅尽があり、涅槃がある


解 説
Evametaṃ yathābhūtaṃ,
このように、事実の通りに
sammappaññāya passato;
正しい智慧により、観ていると
 *苦・無常・無我であると、ありのままに知ること
Bhavataṇhā pahīyati,
生存欲は、捨てられる
vibhavaṃ nābhinandati
非生存を喜ばない
 *存在欲を期待しないだけではなくて、非存在欲、いわゆる壊滅主義にも執着しない。
  存在も非存在も、どちらにも執着しない。
 *これはとてもロジカルなポイントです、人間というのはイエス・ノーで理解する。存在
  って大変だと言ったら、ならば、非存在しましょう。苦味はちょっと苦手だといった
  ら、砂糖を入れてくださいと。それだけで解決だと思っているのです。
  だから、人間の中で存在に対して概念が生まれると、この反対の言葉が、非存在という
  ものは当然、現れます。いつでもコインの裏と表です。
 *善・悪は。同じことです。コインの裏と表です。善があると想うと悪もある。悪がある
  と思うと善もある。
 *捨てるなら、両方を捨てなくちゃいけないのです。どちらか一個(一方)だけは取れま
  せん。だから存在欲を捨てるならば、非存在欲も捨てなくちゃいけないのです。
Sabbaso taṇhānaṃ khayā
渇愛を全て滅すること
 *完全に渇愛をなくす、渇愛というのは執着ことです。イエスにもノーにも執着しない、
  善でも悪でも執着しない。
Asesavirāganirodho nibbānaṃ
貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃です
 *そこで渇愛がAsesavirāganirodha 渇愛は残りなく無くなったら、
 *それをnibbānaṃ 涅槃と言うのです



(直訳詩)
Tassa nibbutassa bhikkhuno,
そのビクは涅槃に到達した
Anupādā punabbhavo na hoti;
さらなる生存はなく、存在しない
Abhibhūto māro vijitasaṅgāmo,
まよいは制圧され、戦は制圧され
Upaccagā sabbabhavāni tādī’’ti.
すべてと生存は、過ぎ去った



解 説
Tassa nibbutassa bhikkhuno,
このように涅槃に到達したビクは
Anupādā punabbhavo na hoti;
執着がないので、さらなる生存はもうない
 *Anupādā 執着はない
 *Upaccagā sabbabhavāni 全ての存在を乗り越えました
 *tādī 安穏に達した
 *punabbhavo 再び生まれることは無い
Abhibhūto māro vijitasaṅgāmo,
まよいに、打ち勝ち
 *māra この場合のマーラというのは、輪廻転生の流れです
 *vijitasaṅgāmo 戦いに勝ちましたよ
Upaccagā sabbabhavāni tādī
無数の生存を、乗り越えた

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