ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章7虚構を滅する経(現代語訳・解説)
7.7 虚構を滅する経(67)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、お釈迦様は、みずからの虚構の想いと名称を捨てることを観察しながら、坐っておられたのです。
お釈迦様は、みずからの虚構の想いと名称を捨てることを知って、ウダーナを唱えました。
その人に妄想のとどまることが存在しないなら
束縛と障害をも超えている
渇愛なき人として常に歩んでいる聖者を
天の神々も含む世の人々は見下すことがない(80)
以上が第七の経となる。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yassa papañcā ṭhiti ca natthi,
虚構の止住がないなら
Sandānaṃ palighañca vītivatto;
綱と閂を超えた人であり
Taṃ nittaṇhaṃ muniṃ carantaṃ,
渇愛ない聖者は行く
Nāvajānāti sadevakopi loko”ti.
神々も世間も、しらないことがない
解 説
Atha kho bhagavā attano papañcasaññāsaṅkhāpahānaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi
お釈迦様は、みずからの虚構の想いと名称を捨てることを知って、ウダーナを唱えました。
*papañca-saññā-saṅkhā-pahānaṃ
虚構の想いと名称を 捨てること
*想(Saññā)とは、眼・耳・鼻・舌・身・意に色・声・香・味・触・法という情報が触
れたとき、こころがデータを受信したという反応です。想という心所です。
*眼に見えるものが眼に触れると感覚が生まれる。その感覚は三種類(苦・楽・不苦不
楽)です。眼に感覚が生まれたら、受信したと、こころ(細胞)が信号を受け取る。こ
のsaññāのための信号が、受けた瞬間は、人間に理解することはできない。本当の認識
過程は、アビダルマでも、この人間のこころは理解することはできないのです。
感覚(苦・楽・不苦不楽)も我われの脳は知らない。我々は口の中で何かを噛んでこれ
美味しいと思うより先に感じたのです、味(苦・楽・不苦不楽の感覚)を、その感じた
もの(感覚)を(神経細胞を)通って、こころに行って、脳で処理して、美味しいって
いう幻覚を作る。その過程で最初に(眼・耳・鼻・舌・身が色・声・香・味・触という
ルーパを)感じ。次ぎは、データを受信した信号を、つくる。データを受信し、このデ
ータをどうするかということも、その時、決まっています。
私達は、想(saññā)という機能で、インデックス・索引を作る、図書館で本を探すに
は索引は役に立つ。索引が機能すると、これは何年何月何日の何時の出来事とか答えら
れます。だから、想(saññā)はみんなにあります。
問題なのは、想は使えないのです。図書館のシステムがアラビア語だったらお手上げで
すね。システムの場合もアクセスできないのです。たまたま何かアクセスできるだけ
で、それも都合の悪い記憶は、思い出せない、起動しないデータシステムなのです。
Saññā・想はデータバンクです。しかし、アクセス不可能です。たまたま漏れるデータ
を知ることは出来るのだけど、インデックス・コントロールできないのだからアクセス
出来ない。
お釈迦さまは、何百、何万、何億という過去のところまで思い出せるのです、インデッ
クスが、しっかり出来ているのです。
瞑想の世界はそうじゃないのです。それだけで、ピンポイントで出てくるのです。
人間は想(saññā)をつくるのですね。想(saññā)という心所をつくるのです。
*想(Saññā)について。通常は、想・受・行・識として説明されていますが、ここで
は、こころの仕組を、まとめて、想(saññā)と言っています。この想という言葉は、
古い使い方で、後の時代には、お弟子さん達に、詳細に説明する為に、人間は五つの集
まりなので無我ということを説明するのに、五取蘊(色・想・受・行・識)という言葉
を使っています。対話の相手がこころの仕組を十分に見つめたバラモンなら、五取蘊は
一塊で機能し、バラバラに機能しないのだから、想(saññā)と一言で説明しても、用
は足りるので、ここでは、こころのしくみ、という意味になります。
*合わせて、混ぜて、組み立てて、加えて、判断・選択した結果が知る世界です。
*これは、明らかに情報を捏造することです。用語はPapañca(虚構)です。
*Papañcaが(捏造する機能を)思考の回路に使うので、papañca・saññā(捏造・想)
といいます。
*人は捏造した概念こそが事実・真理・客観的なデータだと勘違いして、その認識・感
情・判断などを妄執します。
*妄執になるものと言う意味でsaṅkhāという言葉を使うのです。saṅkhāは、想定、憶
測、決めてかかること、当然のことと考えること、推定、仮定、名称、名づける、思
念、という意味です。
*幾つかの機能をまとめたところで、papañcasaññāsaṅkhāという用語になります。
*意訳は幻覚構成組織と言える。
*この機能の流れを「捏造」と紹介しています。
*虚構の想いと名称を分解して発見することができるなら、それは智慧と言うのです。
*時間をかけて実践しないと、ブッダの指導を受けないと成功しない。
*釈尊が自分一人の力でこの心の仕組みを分解して壊したことを思い出したのです。
*お釈迦様は五蘊・十二処・十八界というように分解しています。
*想(saññā)というのは心の仕組みのことで、この心で作り出す捏造された情報を作り
出す仕組みを虚構(Papañca)という、この捏造された情報に名称をつける、名づけ
て、妄執(saṅkhā)つまり執着・煩悩を作り出す仕組みを、虚構の想いと名称
(papañcasaññāsaṅkhā)という用語で、よんでます。
Yassa papañcā ṭhiti ca natthi,
その人に妄想のとどまることが存在しないなら
*papañcā ṭhiti
*妄想(虚構)のとどまること、固定概念のこと。
Sandānaṃ palighañca vītivatto;
束縛と障害をも超えている
*Sandānaṃ(束縛)直訳は網、梵網経(Brahmajāla Sutta)に説かれている六十二の誤
った見解を指している。
*palighañca(障害)直訳は閂、無明を指している。
Taṃ nittaṇhaṃ muniṃ carantaṃ,
渇愛なき人として常に歩んでいる聖者を
*muni
*聖者とは、完全な沈黙者になれということ、虚構の想いと名称という言葉を使えば
、それが執着・煩悩となるから。物理的にしゃべるなという意味ではありません、捏造
するな、論争するな、という意味です。
Nāvajānāti sadevakopi loko”ti.
天の神々も含む世の人々は見下すことがない
