ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第6章3注視の経(現代訳・解説)
6.3 注視の経(53)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園(祇園精舎)でお釈迦様は、ご自分の過去に捨てさられた無数の悪しき、善からぬ法(業)を、修行を完成した無数の善なる法(業)を観察しながら坐っておられたのです。
お釈迦様は、ご自分の過去に捨てさられた無数の悪しき善からぬ法(業)を、修行を完成した無数の善なる法(業)を、あるがままに知って、ウダーナを唱えました
過去にはあったが、そのときにはなかった
過去にはなかったが、そのときにはあった
過去もなかったし、未来にもないであろう
今現在もない(64)
以上が第三の経となる。
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無数の出来事をお釈迦様が観察していたある日のお話
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Ahu pubbe tadā nāhu,
前にもそれはあった
nāhu pubbe tadā ahu;
前にはそれはなかった
Na cāhu na ca bhavissati,
あったこともなく、あるであろうこともなく
na cetarahi vijjatī”ti.
今もしられることはない)
解 説
Ahu pubbe tadā nāhu,
過去にはあったが、そのときにはなかった
*Ahu pubbe
*先(過去)のこころに様々な不善があったのです。
*tadā nāhu
*そのとき智慧がなかった。
*そのとき正等覚者の智慧はなかった。
nāhu pubbe tadā ahu;
過去にはなかったが、そのときにはあった
*nāhu pubbe
*過去、様々の善はなかった。(正等覚者の智慧はなかった。)
*tadā ahu
*そのとき不善はあったのです。
Na cāhu na ca bhavissati,
過去もなかったし、未来にもないであろう
*過去、将来、現在に対して、善も不善もない。
na cetarahi vijjatī”ti.
*今現在もない
*今は、心は無量の状態で、把握できない状態で、善・不善とか色付けすることはできま
せんということです
*翻訳するには厄介な偈です。
*意味は:「善・不善などの問題」について、あった、なかった、なかった、あったなどの
揺らぎがありました。
*今は、あった、なかった、起こるでしょうという相対的な次元をいまお釈迦さまは超えて
いるのです。
*これは自分のこころの観察の結果です。
*項目ごとに心所を観察すると理解できます。
例:欲が、過去あったり、なかったりでした。今は、(欲が)あった、なかった(の見解が)起こるでしょうという問題はありません。
*「修行を完成した」とは、正等覚者の無量の智慧のことです。
