ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第2章4尊敬の経 (現代語訳・解説)

 


2.4 尊敬の経(14)  
 このように、わたしは聞きました
 あるとき、お釈迦様はサーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、お釈迦様は人々から尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、衣料や飲食物や寝具や薬を得ていた。
修行者の僧団も人々から尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、衣料や飲食物や寝具や薬を得ていた。
 異教の遊行者たちは人々から尊敬されず、重んじられず、慕われず、捧げられず、うやまわれず、衣料や飲食物や寝具や薬を得られなかった。
異教の遊行者たちは、お釈迦様への人々の尊敬を耐えられずに、修行者の僧団への人々の尊敬を耐えられずに村でも林でも修行者を見ては粗暴な言葉でもって、ののしり、ひぼうし、悩ませ、困らせていました。
大勢の修行者は、お釈迦様のところに行き、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐り、お釈迦様に、こう申し上げた。
 「尊き方よ、世尊は人々から尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、衣料や飲食物や寝具や薬を得ています。修行者の僧団も人々から尊敬され、重んじられ、思慕され、捧げられ、うやまわれ、衣料や飲食物や寝具や薬を得ています。異教の遊行者たちは人々から尊敬されず、重んじられず、慕われず、捧られず、うやまわれず、衣料や飲食物や寝具や薬を得られないでいます。
尊き方よ、異教の遊行者は、お釈迦様への人々の尊敬を耐えられずに、修行者の僧団への人々の尊敬を耐えられずに、村でも、林でも、修行者を見ては、粗暴な言葉でもって、ののしり、ひぼうし、悩ませ、困らせます」と。
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


森であろうと、林であろうと、苦楽に触れたなら
それを自分に由来するとも他人に由来するとも思ってはならない
苦楽を感じるのは執着による
執着がなければ何によって苦楽を感じることが起こるであろうか
(17)
        以上が第四の経となる。



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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Gāme araññe sukhadukkhaphuṭṭho,
村や林で、楽・苦を感じたなら
Nevattato no parato dahetha
自己からでなく他者からでもなくと定める
Phusanti phassā upadhiṃ paṭicca,
拠り所を縁として、触れることを感じる
Nirūpadhiṃ kena phuseyyu phassā’’ti
拠り所がないものは、なにに触れることを感じるのか



解 説


Gāme araññe sukhadukkhaphuṭṭho,
森であろうと、林であろうと、苦楽に触れたなら
 *色々な悩み苦しみに人間と言うのは何処でも遭遇します。その時はどうしましょうかと
  いうことです。
Nevattato no parato dahetha;
それを自分に由来するとも他人に由来するとも思ってはならない
 *例:あの人が私を罵(ののし)った。
 *「あの人が」とは「他」ですね。「他人がいる」とみなすことです。
 *「私を」とは「自分」ですね。 「自分がいる」とみなすことです。
Phusanti phassā upadhiṃ paṭicca,
苦楽を感じるのは執着による
 *Upadhi (拠り所)とは、色・声・香・味・触・法という情報を受け入れる準備をして
  構えていることです。要するに「執着」のことです。
 *執着を縁にして、苦楽に触れる(感じる)ということです
Nirūpadhiṃ kena phuseyyu phassā’’ti,
執着がなければ何によって苦楽を感じることが起こるであろうか
 *執着がなければ、苦楽は感じないということです
 *聖者は情報に依存しないで。頼らないで流せる。一切は無常なので執着する必要はあり
  ません。
 *私がいるという実感から解放された人に、他がいるという気持ちもないのです。
 *罵られることがあっても、それは、ただ「耳に触れる音」だけです。音は無常です。
 *こころは動揺しないので、動揺は不可能です。

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