ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第8章2二の涅槃のこと経 (現代訳・解説)
第8章のテーマは涅槃(さとり)です。
ウダーナ第8章の中でも1~4は、ブッダが涅槃を語った極めて稀な経典です
8.2 二の涅槃のこと経(72)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられました。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園(祇園精舎)で、お釈迦様は修行者たちに、涅槃に関する法(真理)の法話によって、教えられ、観(すす)められ、励まし、喜ばせます。修行者は、それを目的として、その全てに心を集中して、耳を傾け、その法(教え)を聞いた。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
涅槃が皆無であることを理解するのは難しい
真理は容易く理解できるものではない
渇愛を知り尽くす人こそ
無性(涅槃)を知るのです(84)
以上が第二の経となる。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Duddasaṃ anataṃ nāma,
見難きは、曲がらない、それないもの。
na hi saccaṃ sudassanaṃ;
真理は、見易きものではない
Paṭividdhā taṇhā jānato,
渇愛を、知る人は理解する passato natthi kiñcanan”ti.
見ている人は、何もないと
解 説
Duddasaṃ anataṃ nāma,
涅槃が皆無であることを理解するのは難しい
*anataṃを知ることが難しい。(aは否定詞)
*nataとは曲がること、どんな形にもなれること、柔軟性です。
*生命は輪廻五道のどこに生まれようとしても、渇愛が逆らうことはありません。
*例えば、人間の渇愛から考えると悪趣に生まれ変わりたくないでしょう。
*しかし、悪行為を知る生命の渇愛が見事に悪趣に再生することに応じて、そちらに愛着
を作るのです。
*天界・梵天界の生まれの場合も渇愛が曲げてくれるのです。
na hi saccaṃ sudassanaṃ;
真理は容易く理解できるものではない
*anataṃ-非渇愛。
*生命の思考パターン、概念、認識過程において「渇愛」が潤滑油として働きます。
*色・受・想・行・識(五取蘊):眼耳鼻舌身意・色声香味触法(六根・六象)などの互
い違い機能を一束にして一体の働きにしてくるのは渇愛です。
*生命は、色・受・想・行・識、五取蘊で。こればらばらにはたらく。色って肉体・物
質、受は感覚、想は概念、行は衝動、識は認識。互い違い。これで命を組み立てて油
を入れるのです。渇愛が。あるいは眼耳鼻舌身意・色声香味触法。あの認識システム
です。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れて認識が生まれる。それで生きていると言
うのです。これ一束にして働くようにするのです。だから、潤滑油なのです。渇愛
は。
*「私が知る」という渇愛がなく、どのように認識するのかと理解することが難しいの
です。
*渇愛が働いていることを我われは気にしないのです。車には潤滑油が必要でしょ。我々はそれあまり気にしない。
*「私がいる」という渇愛が、「私が知る」になっています。「私が知る」という渇愛が
なく、どのように認識するのかと理解することが難しいのです
*ですから、anataṃ(非渇愛=涅槃)を認識できないのです。
*お釈迦さまが言う、この「私が知る」というこれがすべて認識することを理解するの
は、そうとう難しいよということです。
*お釈迦さまのあの一言葉で教えている、Duddasaṃ anataṃ nāmaっていうのはその意味
なのです。ですからanataṃ・非渇愛=涅槃を認識できないのだと。集中しなきゃと。
こころの次元を超えなきゃ。軽々しく言うなよと。そういうことです。
Paṭividdhā taṇhā jānato,
渇愛を知り尽くす人こそ
passato natthi kiñcanan”ti.
無性(涅槃)を知るのです
*渇愛を知り尽くした人がnatthi kiñcanaṃと名付けられる涅槃を知るのです。
*Paṭividdhā taṇhā っていうのは渇愛を知り尽くすこと。
*jānato, passato というのは、仏教が説く瞑想方法で無明を破って超越した智慧で知る
ことはjānato, passato なのです。我われの知るよりは、次元がまったく違うのです。
*natthi kiñcanaṃとは「なにもない」です。
*「なにもない」と。何にもないと。すべて現象と。現象と解ると、「なにもない」とい
うことを認識するのです。
*空性・無性・無などのどんな言葉も結構です。
*こころに「ある」ものなら認識できる。しかし、『ない』をどのように認識するのでし
ょうか?
*「なにもない」ということを認識することは論理的に不可能です。しかし、修行する人
にはできるのです。だから、jānato, passatoという言葉を入れてるのです。単純に知る
ことは出来ないのだから、jānato, passatoをステージにすると。ある瞑想をして、ここ
ろを超えて、ぎりぎりのところで「なにもない」・涅槃を知ってしまうのです。
*認識を司る渇愛が根絶した人が『ない』(涅槃)を知るのです。
*注意:認識するのではありません。
*認識ではない、結局は。『ない』を認識すると言っても、認識は成り立ってないので
す。それを言いたがっているのです。涅槃は認識じゃないのだと。なぜならば、『な
い』を、認識するのだから、『ない』を認識することは不可能ですから。でも、これ出
来ますよと。だから、認識とか、ある・なしとか、その次元の話じゃないのだよと言う
ところなのです。
