ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第2章10バッディヤの経 (現代語訳・解説)
今回は解説が2種類あります
一般的とは、広く世間と人々と出家する前や出家食後の人に向けた解説
仏教の見地からとは、仏教を学ぶ人々や出家して修行にはげむ人々から悟りをえた方々にあてています。
次回はウダーナについて。全体的なことを記載します。
2.10 バッディヤの経(20)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、アヌピヤーに住んでおられた。
郊外のマンゴーの果樹園で、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤが、林にいても、木の根元にいても、人気のない土地にいっても、「ああ、楽しい」「ああ、実に楽しい」と、喜びの言葉を唱えたのです。
大勢の修行者は、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤが、林に行き、木の根元にいっても、人気のない土地にいっても、「ああ、楽しい」「ああ、実に楽しい」と、喜びの言葉を唱えているのを耳にしてこう思った。
「友よ、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、いまは喜ぶことなく、清浄行を歩ん
でいる、昔、王様であった時の楽しみを、思い浮かべて、林にいても、木の根元いて
も、人気のない土地にいても、『ああ、楽しい』『ああ、実に楽しい』と、喜びの言葉を
唱えたのだ」
そこで修行者たちは、お釈迦様のところに近づき、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。修行者たちはお釈迦さまに、こう申し上げた。
「尊き方よ、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、林にいても、木の根元にいて
も、人気のない土地にいても、『ああ、楽しい』『ああ、実に楽しい』と、喜びの言葉を
唱えています、尊き方よ、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、いまは喜ぶことな
く、清浄行を歩んでいます。昔、王様であった時の楽しみを、思い浮かべながら、林にい
ても、木の根元にいても、人気のない土地にいても、『ああ、楽しい』『ああ、実に楽し
い』と、喜びの言葉を唱えています」
お釈迦様は、修行者に語りかけました。
「ビクよ、わたしの言葉を、バッディヤビクに伝えなさい『友よ、バッディヤよ、教師が、呼んでいますと』」
「尊き方よ、わかりました」と、答えて、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤに、
「友よ、バッディヤよ、教師が呼んでいます」と
「友よ、わかりました」と、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、答えて、お釈迦
様のおられるところに行き、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました」。
カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤに、お釈迦さまは語りかけた。
「バッディヤよ、あなたは、林にいても、木の根元にいても、人気のない土地にいても、 『ああ、楽しい』『ああ、実に楽しい』と、喜びの言葉を唱えたのですか」
「尊き方よ、そのとおりです」
「バッディヤよ、どのような理由で、林にいても、木の根元にいても、人気のない土地に
いても、何度となく、『ああ、楽しい』『ああ、実に楽しい』と、喜びの言葉を唱えたの
ですか」
「尊き方よ、わたしが、昔、在家であったときには、王として権力をふるい、宮殿の内側
の守護も、宮殿の外の守護も、城市の内の守護も、城市の外の守護も、地方の内の守護
も、地方の外の守護はしっかりとしていました。
尊き方よ、このように守護され、保護されていたのですが、疲れ、恐れ、怯え、疑い深く、恐れおののき、住んでいました。尊き方よ、わたしは林にいっても、木の根元にいっても、人気のない土地にいっても、独りでいながら、恐れず、怯えず、疑いなく、恐れなく、安心して、落ち着いていて、施しで生活し、鹿のような穏やかな心で住んでいます。
尊き方よ、わたしは、このような理由で、林にいても、木の根元にいても、人気のない土地にいても、『ああ、楽しい』『ああ、実に楽しい』と、喜びの言葉を唱えていたのです」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
心の中に怒りが生じていない
こうである、こうでないが消えた人であり
もし恐怖がない、安楽で、憂いなく、悲しくない、状態になるなら
たとえ神々でさえそういう人々にアクセスできない(24)
以上が第十の経となる。
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Bhaddiya 尊者は在家の時、王子でした。 厳しい警備の中で生活していて、常に不安と怯えを感じていた暮らしでした。
今は、出家して、独りで森に住んでいて、どこにいても、「安らぎだ、安らぎだ」と歓声の言葉を言うのです。
長老が、元の贅沢な生き方に未練を感じ、還俗(げんぞく)する意があるみたいと他のビク達に疑われる。
ビク達はお釈迦様に報告し、お釈迦様が Bhaddiya 尊者を呼んで、理由を聞きます。
Bhaddiya 尊者は以前は王であった時は不安で、恐れ、疑い深い日々でしたが、今は、不安も、恐れもなく、安心して暮らしています
師よ、私はこういう理由で 森へ行っても樹の根方へ行っても、人気のない土地へ行っても、常に『楽しい、実に楽しい』とウダーナを発しているのです」
一般的な解説と仏教の見地からの二種類の解説を記載します、2.8スッパヴァーサーの経の解説も兼ねています。
仏教の中心部の解説です、何度でもお読みください。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yassantarato na santi kopā,
怒りが内側から静まれば
Itibhavābhavatañca vītivatto;
これが有る、これが無いを超え
Tam vigatabhayaṃ sukhiṃ asokaṃ,
恐れを離れ、安楽で、憂いがない
Devā nānubhavanti dassanāyā”ti.
神々さえも見ることはできない
一般的な解説です
Yassantarato na santi kopā,
心の中に怒りが生じていない
*怒りというのは嫌な気持ち、不安も怒りです。おそらくバッディヤ王子がライバル達に
対して怒りを持っていたでしょう。釈迦族では王であることを決定してないので、みんな
兄弟で親戚だから争いをしなかったのです。しかし、他の者が人気を得たら自分の立場が
下がるという恐れがあったでしょう。バッディヤ王子は不安なのです。
*このような怒りが、今は静まれば
Itibhavābhavatañca vītivatto;
こうである、こうでないが消えた人であり
*バッディヤ王子の在家のときの気持ちは、バッディヤさんは怒りがなかったら王として
の仕事が務まらないのです。ライバルを倒さなくてはいけないのです。自分が殺される恐
れがあるからです。
*このような問題をどう解決すればいいのかという不安・心配・迷いがあるのです。
*今は、このような気持ちは消えている
Tam vigatabhayaṃ sukhiṃ asokaṃ,
もし恐怖がない、つぎ安楽になって、憂いなく、悲しくない、状態になるならば、
Devā nānubhavanti dassanāyā
たとえ神々でさえそういう人々にアクセスできません。
*もう超えています。
*もし、心が憂いなく、悲しみなく、そういう状態になったならば、もう神々にさえアク
セス不可能。
仏教の見地からの解説です
(1行目の詩)
Yassantarato na santi kopā,
自分の心に怒りがなく静まれば
*antaraというのは自分の心(の働き)です。心はどんな情報にも対立的に反応しない。
もの(認識対象の情報)が眼耳鼻舌身に触れて流れて消えていく、放っておけば流れるの
みになり。
*心が放っておける境地に達していればkopā(怒り)がないと悟りを表現しています。
*悟った人に私はいませんから、私は消えたのです。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れ
ては流れるだけです。
色声香味触法に対して眼耳鼻舌身意が何か考えを持って、策動を持って、固定概念を持って当てようとはしないのです。固定概念を持っていると、好きになるか、嫌いになるかどちらかになるのです。
悟ってない人はいつでもそこで苦しんでいるのです。悟りに達したら、心は空気のように流れるし、眼耳鼻舌身があって、色声香味触法が流れていく、眼耳鼻舌身の方で期待はないのです。
だから、私は捏造して、この味だったら食べたい、この味だったら食べたくないとか、前もって捏造して(固定概念を)つくっているのだから、その自分の型に合うならば楽しい、型に合わなかったら楽しくない、こうして、心は激しく汚れるのです。
つまりYassantarato na santi kopāというのは単純に「怒りがない」っていうことではないのです。
Antaratoはエネルギーチェーンなのです。
心だけではなくて、眼耳鼻舌身意の6つの流れの間で何も対立が起きないということは、言葉にすれば、(「怒りがない」ではなくて)「放っておく境地になりました」となります。
なんで私たちにものごとを放って置けないのかと言うと「私がいる」からです
(2行目の詩)
Itibhavābhavatañca vītivatto;
こうである、こうでないを超え
*Itibhavābhava というのは、こうではないか、ああではないかという心の状態です。
*vītivatto;は超越する、消える
人々は何にしたっても決定的には言えないのです。何故ならば、皆、自分の主観を持っているからです。
一人一人の生命が自分の貪瞋痴でできた型を持っているから、この型で判断するのです。
何事にしても人生も曖昧なのです。
生命はみな、輪廻転生する生命には、これは決定っていうことはないのです。人々は偉そうに決定して生きているようなふりをするのだけども、すべて曖昧で生きているのです。だから、1秒でも人々は「こうですよというふうに決めて落ち着くことはできない」のです。
人々は大まかな事で不安を感じていますが、本当は、瞬間瞬間に不安を感じているのです。ですから、無常を発見しないならば不安は消えません
感じ方が、(情報処理の仕方が)悪い人はすぐ結論に飛びつく、危険です。が何も決定しないで、曖昧、中途半端では、生きられません。生きるためには判断しなくてはいけない、決定しなければいけない。決定しても、それが不安です。正解ではないのです。
悟れば(不安)が心から消えます、瞬間の不安も生まれません。
理由はいたって簡単です。私が消えたからです。これは私がいるからで、自我があるからです。自我がなかったら瞬間の不安は生まれません。
何かについて意見が2つあったら、どちらでも知らないということです。
例えばこういう質問を出しましょう。「人には死後がありますか、ないですか」と質問すると、意見が2つに分かれるのですが、どちらも(正解については)答えられません。
そしてもう一人が「分かりません」と言ったら役に立たない。「分かりません」では決定できません。
そういうふうに科学でも一つも決定していない。どうなるかは分からないのです。だから、一般人には瞬間たりとも安らぎがないのです。自我の錯覚でつくっているのだから、悟ったとは「私はいない」と発見することです。いなかったのですから。発見したら、そこで安らぎが生まれる。
そこで「こうではない、ああではない」が消える。
(3行目の訳)
Tam vigatabhayaṃ sukhiṃ asokaṃ,
恐れを離れ去った安楽で憂いなき人を
*Tamそれ、vigatabhayaṃ恐れがない、sukhiṃ安楽、 asokaṃ憂いがない
*vigatabhayaṃというのは恐怖感がなくなったということです。
悟った人のことで、「存在欲」が消えたという意味です、「存在」がない、ということは自分がないだから。六つの流れが流れているだけなのです。存在欲というのは自分がいるという錯覚があるから生まれるのです。
生きて行きたい、死にたくないと言うためには自分が今いなくてはだめです。
人々の恐怖感というのは存在欲から出てくるのです。これはもう避けられない、私が勝手に生きて行きたいと思っても、瞬間、瞬間、死んでいるのです。瞬間、瞬間、壊れているのです。壊れているのだから恐怖ですよ。嫌だ、怖いと生きていかなくちゃいけないのです、何故ならばすべて無常だからです。
悟ったら恐怖は消えます、それで楽になって、憂いがなくなる。憂は期待から生まれるのです。
フォーマットがあって、型があって、型に合わなかったら憂いが生まれる。憂い悲しみと言うのは、我々がどれぐらい強い型を持っているのかというところから生まれるのです。それで型が消えるから憂いはなく、それで存在もないから、
(4行目の訳)
Devā nānubhavanti dassanāyā
神の領域も超えている。
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伝 記
カーリーゴーダーの子のバッディヤ尊者は、「テーラガーター」というお釈迦様のお弟子さんの言葉を集めた経典に、貴重なことばを残しています、ウダーナ副読本に紹介していますので、ご覧ください。
ウダーナ第二章1から10を通して読めば、
起承転結という形に構成されています。
真に理解できたら悟りまで導かれます。