ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について

 


 
7-2第二のラクンダカ・バッディヤ と
  14迅 速(後半921~934)16サーリプッタ


 物語は、ウダーナ7-1とほぼ同じ


詩では
 ウダーナでは、輪廻より離脱したひと、悟りを開いたひとを説く、これは理想の修行者
の姿です。アッタカ・ヴァッカでは、理想の修行者の姿が具体的に説かれています。
ウダーナでは理想の修行者、アッタカ・ヴァッカ14迅 速、では、さらに具体的に修行者とは、という内容を説いています。以下に記載したウダーナ7-2とアッタカ・ヴァッカ・14・16は一続きの経典としても違和読感なく読めます。


  ウダーナ 7-2 1・2行目
Acchecchi vaṭṭaṃ byagā nirāsaṃ,
輪廻を断ち切った、無執着という境地に達した
Visukkhā saritā na sandati;
干上がった川は流れない
 *無執着という境地を、干上がった川に喩えています。
アッタカ・ヴァッカ・14迅 速
922Cakkhūhi neva lolassa,
眼で見ることを貪らないようにせよ
Gāmakathāya āvaraye sotaṃ;
うわさ話から耳を遠ざけよ
Rase ca nānugijjheyya,
味に溺れてはならない
Na ca mamāyetha kiñci lokasmiṃ.
世間のいかなるものもわがものと執着しないように
932 Sutvā rusito bahuṃ vācaṃ,
出家修行者達や、あれこれ言う人の
Samaṇānaṃ vā puthujanānaṃ;
多くの言葉を聞いて不機嫌になっても
Pharusena ne na paṭivajjā,
あらあらしい言葉で答えてはならない
Na hi santo paṭisenikaronti.
聖なるひとびとは敵対する言葉で返してはならない


ウダーナで描かれている解脱者の姿がアッタカ・ヴァッカでは、より詳しく具体的に、その心得まで含め説かれています。ここでもウダーナとアッタカ・ヴァッカの関係がよく現れています。
  ウダーナ 7-2 3.4行目
Chinnaṃ vaṭṭaṃ na vattati,
断ち切られ廻輪しない
Esevanto dukkhassā”ti.
これで苦しみは終わります
アッタカ・ヴァッカ・14迅 速
933Etañca dhammamaññāya,
修行者はこの法を知って、よく弁えて、
Vicinaṃ bhikkhu sadā sato sikkhe;
つねにきづきをもって学べ。
 *satiきづき:マインドフルネスという訳語で知られています。
Santīti nibbutiṃ ñatvā,
もろもろの(煩悩)消滅した状態が「安らぎ」であると知って、
 *nibbutiṃ安らぎ、火が消えて消滅した状態を表す言葉で、アッタカ・ヴァッカには、煩
  悩(kiliesa)という言葉はまだ出て来ませんが、欲望や迷いなどまとめて、火が消え
  る、としています
Sāsane gotamassa na pamajjeyya.
ゴータマ(ブッタ)の教えの中で怠らないようにすること。
934 Abhibhū hi so anabhibhūto,
かれは、みずから勝ち、(他に)うち勝たれることがない。
 *Abhibhūみずから勝つ、修行者の理想像です
Sakkhi dhammam anītiham adassī;
他人から)伝え聞いたのではなくて、みずから直証した法を見た。
 *anītiham adassī
  *他のものの見方(見解)などによることはなく、ものの見方一切を捨てている
 *Sakkhi dhammam
  *みずからが直証した法を見る者は、お釈迦様自身が歩んだように、みずから道を歩
   めよという勧めです。
Tasmā hi tassa bhagavato sāsane,
それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、
 *自ら確かめたひととは、お釈迦様(ゴーダマ・ブッダ)です
Appamatto sadā namassamanusikkhe”ti.
怠ることなく、つねに尊敬して、従い学んでいくように。


ウダーナでは苦しみの終わりが説かれ、アッタカ・ヴァッカでは、みずから勝つ、という修行者の理想像が説かれ、そのためには、具体的に、他に頼らずきづき(sati)をもって学び、煩悩を滅ぼせ、それが「安らぎ」であり「苦しみの終わり」と説いています。



 アッタカ・ヴァッカ・16サーリプッタ
具体的に尊者サーリプッタの姿を、お釈迦様が悟ったひととはこのようなひとであると具体的に語っています。ウダーナの「苦しみの終わり」への具体的なひとの姿です。


969 智慧を重んじて、善いことを喜び、それらの危難を消すように。辺境の土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。
970 わたしは何を食べようか、わたしはどこで食べようか、(昨夜は)わたしは眠りづらかった、今夜わたしはどこで寝ようか、──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ
971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで満足するために、(衣食の)量を知れ。衣食に関して守って、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。
973ことばで叱責されたときは、きづき(sati)をそなえて感謝せよ、ともに修行する人々に対する荒んだ心を破壊なさい、善いことばを発しなさい、その場にふさわしくないことばを発してはならない、人々をそしることばを思わないように
974 Athāparaṃ pañca rajāni loke,
さて、世間には五つの塵がある。
Yesaṃ satīmā vinayāya sikkhe;
きづき(sati)をもって、それらを制するためにつとめよ。
Rūpesu saddesu atho rasesu,
すなわち色かたちと音声と味と
Gandhesu phassesu sahetha rāgaṃ.
香りと触れられるものに対する貪欲に打ち勝て
 *五つの塵垢(色かたち・音声・味・香り・触れられるもの)から生ずる貪欲に、自ら
  打ち克つのが、お釈迦様の教の特徴です
 *触れることが主題であることに、きづいてください
975Etesu dhammesu vineyya chandaṃ,
これらのものに対する欲望を抑制せよ
Bhikkhu satimā suvimuttacitto;
修行僧は、よくきをつけて(sati)、解脱した心で
 *お釈迦様は、きずき(sati)を説いています
Kālena so sammā dhammaṃ parivīmaṃsamāno,
かれは適当な時に法をよく考察し
Ekodibhūto vihane tamaṃ so”ti.
心を統一して、闇を滅ぼせ。


 修行者の戒や修行(瞑想や行い)などのこともありますし、誰にでも当てはまる日常の生活の仕方でもあります。それでありながら触れることに絞って説かれています。きずき(sati)という実践を重視しながら、解脱へと歩む理想の聖者(解脱者)の姿を説き、同時に一人では孤立して生きられない姿をも説いています。

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