ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について(3)


7-3第一の執着する者たち と 1 欲 望
7-4第二の執着する者たち と、1 欲 望
      
物語では
 ウダーナ7-3と7-4では、お釈迦様がkāma(欲望)に捉われた、多くの人々、世間の人々や修行者達の姿を見ての言葉です。
 アッタカ・ヴァッカは、欲望(kāma)をかなえたいと願う多くの人々に向けた言葉です。
 ウダーナ、アッタカ・ヴァッカともに、世間一般、修行者など広く人々を対象にした物語で、お釈迦様の教え在家向けです。


詩では
 ウダーナ7-3では、欲望(kāma)に執着する人々は激流を渡れないと説き。7-4では欲望(kāma)の網に捉えられた人々は、老死に向かうと説かれます。
 アッタカ・ヴァッカでは、768教では、足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着(欲)を乗り越える。とあり、きづき(sati)をもって欲望を乗り越えるやり方が説かれます。
欲望を、salla・矢に喩えたり。船にたまった水を汲みだすように欲望を捨て、激流を渡るように彼岸に到達せよ。とあり、すべての解決方法が説かれます。


 上記は、ほんの一例で、アッタカ・ヴァッカのあちらこちらで欲が、微妙に言葉をかえて説かれています。欲の別名をあげておきます。
kāma 欲望 望んでいること、広い欲です。
taṇhā 渇愛 強い貪り、執着の原因です。
Icchā 欲求 根源的、潜在的な心的作用的な欲。
chanda 欲・貪欲 動物が生き残るのに最低限の食料で満足するのと好対照な際限のない人間の欲、知性の入った欲でもあり、わがもの、わがものでない、という知性が作り出す観念にとらわれた欲でもあります。
 ウダーナを入口にして、上記の言葉を鍵にして、アッタカ・ヴァッカというお釈迦様の教えの扉を開け、お釈迦様の教えが詳しく説かれた経典への道を歩んでいけます。


 言葉にすれば容易いことなのですが、実践するには、もっとも難しいことがらを説いています。


 アッタカ・ヴァッカの第一経は、一般的な欲を説き、第五教まで進むに伴い、詳細に微妙に説いていき、その後の経でも、くり返し説いていくテーマです。欲に関する言葉を追っていくのは有効な方法です。



経典を見ていきます


ウダーナ7-3
Kāmesu sattā kāmasaṅgasattā,
欲(kāma)に愛着している人々は五欲に束縛されている
Saṃyojane vajjamapassamānā;
この束縛を危険なことであると知らない
Na hi jātu saṃyojanasaṅgasattā,
そういう煩悩に愛着している人々は
Oghaṃ tareyyuṃ vipulaṃ mahantan”ti.
けして広く大きな水の流れを渡ることはできなであろう
ウダーナ7-4
Kāmandhā jālasañchannā,
欲(kāma)の盲者達は網に覆われ
Taṇhāchadanachāditā;
渇愛(taṇhā)という覆いに閉じ込められている
Pamattabandhunā baddhā,
なまけやなおざりに縛られた者らは
Macchāva kuminām ukhe;
網に向かう魚のように
Jarāmaraṇamanventi,
人は老死に向かう
Vaccho khīrapakova mātaran”ti.
乳を飲もうとする子牛が母牛を求めるように
アッタカ・ヴァッカ・1 欲 望
766 Kāmaṃ kāmayamānassa,
欲望(kāma)をかなえたいと望んでいる人が
tassa ce taṃ samijjhati;
もしもうまくゆくならば
Addhā pītimano hoti,
心に喜びが起こる
 *欲しいものが得られたなら、喜ぶ
laddhā macco yadicchati.
死すべきもの(macca・人)が欲するものを得たので
 *死すべきものが、生きているうちに欲望を叶えたから喜ぶ。
 *得られた喜びも、時間か経てば消えていき、次が欲しくなります
767 Tassa ce kāmayānassa,
欲望(kāma)を叶えたいと望み


chandajātassa jantuno;
欲の生じた人が
Te kāmā parihāyanti,
もしも欲望(kāma)をはたすことができなくなれば
 *欲望を叶えようとする、人の内面が描かれます
sallaviddhova ruppati.
矢(salla)に射られたかのように悩み壊れる。
 *欲望が叶えられなければ、矢に射られたように苦しむ
768 Yo kāme parivajjeti,
もろもろの欲望(kāma)を回避する人は
 *苦しみを解決する道が語られます
sappasseva padā siro;
足で蛇の頭を踏まない様に
 *よくきづいて(sati)、足で蛇の頭を踏まない様に、というたとえ
Somaṃ visattikaṃ loke,
その人は、この世で執著(visattika)を
sato samativattati.
よくきをつけて(sati)のり超える
 *苦しみを解決するお釈迦様の道が教えられます
 *言うのは簡単ですが行うは難しい道です
 *人間とは欲に溺れるものですが、どうしょうもないとは、お釈迦様は、言いません
769 Khettaṃ vatthuṃ hiraññaṃ vā,
人が、田畑・宅地・黄金
gavāssaṃ dāsaporisaṃ;
牛馬・奴婢
Thiyo bandhū puthu kāme,
傭人・婦女・親類
 *お釈迦様の時代の財産が上げられています、現代とは異なりますが、財産と読んでくだ
  さい
yo naro anugijjhati.
その他いろいろの欲望(kāma)を貪り求めると
770 Abalā naṃ balīyanti,
ちからないものが、かれを征服し
 *ちからないものとは、768教の執著と思います、この世でのり超えられるものですから
maddantenaṃ parissayā;
もろもろの危い災難がかれを踏みにじる
Tato naṃ dukkhamanveti,
それから、苦しみがかれにつき従う


nāvaṃ bhinnamivodakaṃ.
あたかも壊れた舟に水が侵入するように
 *穴のあいた船に水が入ってくるように、苦しみが入ってくる、切羽詰まった状態が伝わ
  ってきます
 *アッタカ・ヴァッカは響き合うように、相互に関連し合う経典です。ウダーナとも強い関連があります
771 Tasmā jantu sadā sato,
それ故に、人は常によくきづいて(sati)いて
Kāmāni parivajjaye;
もろもろの欲望(kāma)を避けよ
 *よくきづいて(sati)、欲望(kāma)を避け
Te pahāya tare oghaṃ,
それらの欲望(kāma)を捨てて、激しい流れを渡り
Nāvaṃ sitvāva pāragūti.
船の水を汲み出すように、彼岸に到達せよ
 *船の水を汲み出すように、欲望を捨てて、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ
 *すべての解決がとかれています


アッタカ・ヴァッカ・2洞窟についての八つの詩句
773 欲求(Icchā)に、もとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他によって解脱させてくれるのではないからである。未来をも過去をも予想しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。


アッタカ・ヴァッカ・3悪意についての八つの詩句
781 欲(chanda)に導かれて、好みにとらわれているなら、どうして自分の見解を超えることができるだろうか。自分で完全であると思いつつ、知るにまかせて語るであろう。


アッタカ・ヴァッカ・7ティッサ・メッティヤ 
823 聖者はもろもろの欲望(kāma)を求めることはなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、もろもろの欲望(kāma)に縛られている人々はかれを羨むのです。


欲望はkāma、Icchā、chandaと名前を変えて繰り返し登場します。ここでひとつひとつ取り上げることはしませんが、世間一般の人々も、真理を求める修行者にも、お釈迦様は、煩悩に愛着している人々は、広く大きな水の流れを渡ることはできなであろうと説き、欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。と説いています。


 上記に引用した経典は、欲に関するほんの一部です、アッタカ・ヴァッカ全編に、くり返し説かれる最大の鍵です、この欲のポイントを語っているのが、ウダーナ7-3、7-4です。

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