ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第8章1一の涅槃のこと経(解説・2)

ウダーナ最後の章をこれからお伝えしていきます。テーマは涅槃(さとり)です。


 ウダーナ第8章の中でも1~4は、ブッダが涅槃を語った極めて稀な経典です
最後の章に相応しい経典に思います。


8.1 一の涅槃のこと経(71)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園(祇園精舎)で、お釈迦様は修行者たちに、涅槃に関する法(真理)の法話によって、教えられ、観(すす)められ、励まし、喜ばせます。
 修行者たちは、それを目的として、その全てに心を集中して、耳を傾け、その法(教え)を聞いた。
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


ビクたちよ、涅槃という境地がある
そちらにも、地水火風はない
虚空無辺などもない
識知無辺などもない
無所有などもない
非想非非想などもない:
この世でも、あの世でもなく、月と太陽もない
ビクたちよ、そこに
来るとも、そこに行くとも言えず
そこにいるとも、そこに死すとも、そこに生まれるとも言えず
それは何によっているのでなく、何から生み出されたのでもなく
こころの認識対象にならない
これこそは、苦の終極である

              以上が第一の経となる。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


*仏陀は輪廻の苦、その原因、苦の滅とその方法を語ります。
*苦の滅は涅槃ですが、この場合は渇愛を根絶することが苦の滅だと説くので、聞いてい
 る者は、推測できます。
*涅槃という概念を使って、テーマにして。お釈迦さまは語らないのですが、何かの理由が
 あって、「涅槃」をテーマにして語らなくてはいけなかったことだと思います。
*新たな説法なので、比丘たちも集中して聞いていたのです。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



なにが書いてあるか
(直訳詩)
Atthi, bhikkhave, tadāyatanaṃ, yattha neva pathavī,
比丘たちよ、その処は存在する そこは、地なく
na āpo, na tejo, na vāyo,
水なく、火なく、風なく、
na ākāsānañcāyatanaṃ,
空無辺処なく
na viññāṇañcāyatanaṃ,
識無辺処なく
na ākiñcaññāyatanaṃ,
無所有処なく
na nevasaññānāsaññāyatanaṃ,
非想非非想処なく
nāyaṃ loko, na paraloko, na ubho candimasūriyā.
この世なく、あの世なく、月と日の二つともない。
Tatrāpāhaṃ, bhikkhave,
ビクたちよ、そこでは
neva āgatiṃ vadāmi,
来るところも、帰るところも、言わない、
na gatiṃ, na ṭhitiṃ, na cutiṃ, na upapattiṃ;
行かず、住せず、死せず、再生せず、
appatiṭṭhaṃ, appavattaṃ,
依って立つところなく、転起されることもな
anārammaṇamevetaṃ.
対象でないもの
Esevanto dukkhassā”ti.
これこそは、苦しみの終りである


解 説
Atthi, bhikkhave, tadāyatanaṃ, yattha neva pathavī,
ビクたちよ、涅槃という境地がある
 *涅槃は只の観念、虚無状態、無、空などではないかと思われることに対する肯定的な言
  葉です。
 *ここで大事なことはAtthi・「あります」という、この肯定することなんです。
 *涅槃は人間に一切理解できない概念であることから否定形を使って説明します。
  *仏教、インドのウパニシャッド哲学も否定形で肯定を言うのです。だから、お釈迦さ
   まにも否定形を使うしかよい方法がなかったのかも知れません
na āpo, na tejo, na vāyo,
そちらにも、地水火風はない
 *如何なる物質的なエネルギーはない、成り立たない。
 *宇宙の根本エネルギーのことなのです。土・水・火とか一般人が思ったっても別にかま
  いません。どこでもあるものだから。
 *空間的な次元ではないのです
na ākāsānañcāyatanaṃ,
空無辺①などもない
na viññāṇañcāyatanaṃ,
識無辺②などもない
na ākiñcaññāyatanaṃ,
無所有③などもない
na nevasaññānāsaññāyatanaṃ,
非想非非想④などもない
 *瞑想で、こころは物質に依存する次元を越えてサマーディに達することも出来ます。
 *身体の支えがなく認識のみ働く状態です。
 *無色界禅定とも言います。(色=物質=身体)
 *➀から➂まで禅定に達する方法で名付けています。
 *➃は最高位の認識状態で名付けています。
 *涅槃とは認識が流れる境地でもないのです。
 *涅槃では認識の流れすらないと言うことです。
nāyaṃ loko, na paraloko,
この世でも、あの世でもなく、
 *宗教世界で一般的に使う単語です。
 *この世といえる状態でもなく、あの世といえる状態でもないのです。
 *しかし、涅槃は今-この世で達する境地でもあります。
na ubho candimasūriyā.
月と太陽もない
 *時間が流れる境地でもないのです。
 *時空の次元は関係がないと言っています。
 *永遠という語を使わない。
Tatrāpāhaṃ, bhikkhave,
ビクたちよ、そこに
neva āgatiṃ vadāmi,
来るとも、そこに行くとも言えず
na gatiṃ, na ṭhitiṃ, na cutiṃ, na upapattiṃ;
そこにいるとも、そこに死すとも、そこに生まれるとも言えず
appatiṭṭhaṃ, appavattaṃ,
それは何によっているのでなく、何から生み出されたのでもなく
 *来る、行く、いる、死、生という概念も成り立たないのです。
 *すべて時空関係の単語なのです。
anārammaṇamevetaṃ.
こころの認識対象にならない
 *認識対象にならないならば、認識することも、体験することも不可能である。涅槃はあ
  るとも言えないでしょうと言うのです。
 *一部の仏教学者が矛盾を見出すとこです。
 *しかし、一般仏教徒は涅槃を目指して修行しているのです。
 *知識で理解不可能と言っているから、余計な思考妄想をしないのです。
 *お釈迦さまは、面倒くさいから、ありますと。それで終わっちゃったのです。涅槃とい
  う境地ありますよと。どんな境地、認識がよく分からない境地あるのですと。
 *お釈迦さま、涅槃っていうことは、時空関係と関係ないものだから、覚者が言おうが、 
  言わなかろうが、それ関係ない。涅槃は涅槃です。それでお釈迦さまはそれ見つけてガ
  イドブックを書いたのです。その案内本の通りに進んでみればいいと、ことばにはなら
  ない、認識にもならないと。だから、貪瞋痴なくそうと。無明破ろうと。そうすれば、
  頑張って覚りに達しますと。
 *概念持たなかったら楽でしょうにと。余計な概念なにか自分で紹介して、これに合わせ
  て成り立たない、成り立たないと。概念捨てちゃえと言いたいのです。
Esevanto dukkhassā”ti.
これこそは、苦の終極である
 *苦は人に経験できます。
 *実践者は生老病死の苦も、一切は無常・苦・無我なので何一つも頼りにならないと、執
  着に値しないと客観的に経験します。
 *こころが何かを対象にすることは拒否することになります。
 *そこで、修行者は涅槃を経験します。
 *しかし、その事実を知るのはその時ではなく、こころが認識過程を始めるときです。
  *涅槃に達する瞬間はなにもないのです。本人ないのです。修行者いないのです。
   修行が終わったら普通に戻る。戻ったら、あ、覚りましたと分かるのです。覚ると煩
   悩は、生まれません。
 *ガイドブック通りに行かないと出来ないのです。こころにはいろんなものを認識させ
  て、最後に本物の無常を認識させたのです。ものごとは変化するのだと認識させるので
  すが、一般的なこころでは認識できない。修行が必要です。
 *認識しちゃうと、認識したいっていう気持ちならないのです。認識したっても意味がな
  いのだから。すぐ消えるのだから、瞬間で解脱に達するのです。

×

非ログインユーザーとして返信する