ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第2章6妊婦の経 (現代語訳・解説)
2.6 妊婦の経(16)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園に、妊婦で臨月の若く幼い夫人の女性遊行者(妊婦)は、夫の遊行者に、こう言った。
「あなた、油を持ってきてくださいな、お産をするのに必要ですから」
このように言われたとき、その遊行者はその女性遊行者に、
「愛しい人よ、どこから油を持ってくるのだい」
「あなた、油を持ってきてくださいな、お産をするのに必要ですから」
二度また、その遊行者はその女性遊行者に、こう言ったのです。
「愛しい人よ、ではどこから油を持ってくるのだい」
三度また、その女性遊行者は、その遊行者に、こう言ったのです。
「あなた、油を持ってきてくださいな、お産をするのに必要ですから」
コーサラ国のパセーナディ王の貯蔵庫では、修行者やバラモンのために、バターや油を、運び出すことはできませんが、飲むことが許されています。
そこで、その遊行者は、
「コーサラ国のパセーナディ王の貯蔵庫では、修行者やバラモンのために、バターや油
を、運び出すことはできないが、飲むことが許されている。それなら、お産のために必
要だからコーサラ国のパセーナディ王の貯蔵庫に行って、油を飲んで家に帰って、吐き
出して与えよう」
その遊行者は、コーサラ国のパセーナディ王の貯蔵庫に行って油を、飲んで家に帰って、飲んだ油を吐き出すもできないし、下すこともできずに強く激しく辛い苦痛におそわれ、ころがり回り、のたうち回った。
お釈迦様は、朝早くに衣を着て鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに托鉢に入りました。お釈迦様は、その遊行者が強くて荒激しく辛い苦痛におそわれ、ころがり回りのたうち回っているのを見ました。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
生命には本来、所有物がないことを知っている人に、
所有物がないことは安楽です
所有物があると思う人の苦悩を見よう
人は人に束縛されているのです(19)
以上が第六の経となる。
(日本語訳は趣旨を明確にするために順番を変えています)
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Sukhino vata ye akiñcanā,
なにものも持たない人は、楽である
Vedaguno hi janā akiñcanā;
なにも持たない人は、真の知を得ている
Sakiñcanaṃ passa vihaññamānaṃ,
もの持つ人を見よ、害われている
Jano janasmiṃ paṭibandharūpo’’ti.
人は人の存在や関係に縛られている
解 説
Sukhino vata ye akiñcanā,
所有物がないことは安楽です
*akiñcanā
*2-5教のna hoti kiñci,は、なにものも(kiñci)存在(hoti)しない(na)、という意味で
す。
Vedaguno hi janā akiñcanā;
生命には本来所有物がないことを知っている人に
*akiñcanāは、なにものも(kiñci)ない(aとは否定詞)、ということで、akiñcanāは
、私はない、という意味になります。つまり無我です
Sakiñcanaṃ passa vihaññamānaṃ,
所有物があると思う人の苦悩を見よう
*Sakiñcanaṃ 所有物があると思う人とは、私を持つ人と、所有するものがある・自分
に色々用事あること・やるべきことがある・という二つの意味があります
Jano janasmiṃ paṭibandharūpo’’ti.
人は人に束縛されているのです
2-5教は在家が2-6は行者(出家者)の物語になっています。
二つのお経は、似たように見えますが、異なる内容です