ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について(10)


              7-10 ウダーナの捕捉


 お釈迦様の時代にはすでに、バランモンの間では常識になっていた、ウパニシャットから、有名な教えを紹介します
 ヤージュニャヴァルクヤというウパニシャットの哲人と、妻との会話の一部です


 じつに、夫を愛するがゆえに、夫が愛しいのではない、アートマンを愛するがゆえに、夫が愛しいのだ
 じつに、妻を愛するがゆえに、妻が愛しいのではない、アートマンを愛するがゆえに、夫が愛しいのだ
 じつに、一切を愛するがゆえに、一切が愛しいのではない、アートマンを愛するがゆえに、夫が愛しいのだ
 じつに、アートマンは、見られ、聞かれ、考えられ、瞑想されるべきであり
 マイトレーヤよ、じつに、アートマンは、見られ、聞かれ、考えられ、認識されたときに、知られることになる
            (ブルハット・アーラヌヤカ・ウパニシャット 第五節 六)
 アートマンという、永久不滅の普遍的自我についての教です。


 ここでウダーナ5-1を見てください、夫婦のあいだの会話で交わされているのは、じつは、永久不滅の普遍的自我など、ないということです。ウダーナ5-1は、ウパニシャットのパロディーなのです。


ウダーナ7-1と関係するアッタカ・ヴァッカ797と798を記載します


797かれ(Yada)(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思ったことについて、自分の奉じていることのうちのみ利益を見、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
798 人が或ものを拠り所にして「その他を劣っている」と見なすならば、それは実に縛りである、と語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思ったこと、または戒律や道徳に拠ってはならない。
 (アッタカ・ヴァッカ・5最上についての八つの詩句)


ここで、お釈迦様が言っている、かれ(Yada)とは、ヤージュニャヴァルクヤが説く、永久不滅の普遍的自我、アートマンのことです。この教えを、拠り所、と言っています。このアートマンがあるという説を、ウダーナ7-8で4種類にわけて、ウダーナ6-4,6-5,6-6では詳しく説明しています。



ウダーナ7-10
Mohasambandhano loko,
愚かさに支配されている人々には世の中は
bhabbarūpova dissati;
素晴らしいと見える
 *Moha愚かさは、tamasā闇・avijjā無明と同義語です。ウダーナ1-1,1-2,1-3に記され
  ているように、無明の闇に覆われて、結局は苦にいきつき、世の中の人々は、苦なのに
  楽に見える、その原因は、ウダーナ7-7にあるPapañca虚構というはたらきです。
 *Papañca虚構を原因にして、闇に取り囲まれ、お釈迦様の教である、苦が見えないとい
  うことです
Upadhibandhano bālo,
あらゆる拠り所に引っ張られて、束縛され
 *Upadhi拠り所
  *アートマンはあるという、当時のインドの主流の教えであるウパニシャットに対す
   る、お釈迦様の答えです
tamasā parivārito;
闇に取り囲まれて
Sassatoriva khāyati,
常恒であるかのように思えてしまう
 *無常が見えていない
 *Papañca虚構を原因にして、闇に取り囲まれ、お釈迦様の教である、無常が見えな  
  いということです
passato natthi kiñcanan”ti.
なにもないと見ている人は、なにも存在しない
 *正しく見えている人は、アートマンも存在しないということ
 *Papañca虚構を原因にして、闇に取り囲まれず、お釈迦様の教である、無我を見ている
  ということ
ウダーナ7-10の詩は、世の人は、Papañca虚構を原因にして、闇に取り囲まれ、お釈迦様の教である、無常・苦、が見えないが、無我を見ている人は、正しく見ている人である。という詩で、当時のインドの主流であった、ウパニシャットの教をそれとなく批判しながら、ご自分の教えを伝えている、お釈迦様の争わない語りがよくでている、詩です。


 そして、アッタカ・ヴァッカ 11争 闘では、縁起の法をつかい、Papañca虚構はsaññā想から生じるから、ウダーナ7-7にあるPapañca-saññā-saṅkhā-pahānaṃ虚構の想いと名称を捨てる、これは、アートマン(「わたし」)は存在しないと正しく見ている。とおなじ意味ということ。ウダーナ7-10は、無常・無我・苦を正しく見ているのが悟った人ということです。
 ウダーナ1-10バーヒヤでは、短い説法で、お釈迦様は、悟りまで導いています。



           ナーガとヤッカについて
 インドに侵入して定住した、白人系のアーリア人といわれる人々と、古くから定住しているアジア系の人々との混血が現在のインド人の多数です。お釈迦様の時代の文化・宗教・哲学などは、バラモンといわれる人々が担い、このバラモン文化はアーリア人と呼ばれる現在のヨーロッパから、イランなどを通ってインドに侵入してきた人々の文化の影響を多分に受けています。
 お釈迦様は、キラータと呼ばれる山岳民族のひとつである(キラータというのはマハーバーラタにも登場する勇猛果敢な山岳民族を指す)ナーガ族という、インドに古くから定住している人々の出身だという説が有力で、仏教を広めるときの初期に働いた人々が ナーガ族であったと言われています。ナーガ族は非アーリヤ人であり、アーリヤ人とナーガ族とは激しく敵対していました。アーリヤ人と非アーリヤ人との間に、数多くの戦いがあり、アーリヤ人はナーガ族の絶滅を望み。プラーナ文献には、このことに関連した伝説が多く見出されます。アーリヤ人はナーガ族を焼き殺し。聖仙アガスティヤが一人のナーガを救ったという物語もあります。
 お釈迦様の尊称(呼び名)にナーガというのもあります、お釈迦様の時代に世間では、ナーガ族の聖者とお釈迦様は認識されていたのかもしれません、ウダーナ4-4ヤッカの打撃では、サーリプッタ尊者、モッガッラーナ尊者をナーガと呼んでいます。ナーガという言は尊称として、お釈迦様、後の時代には、ミリンダ王の問に出てくるナーガセーナ長老、大乗仏教七宗の祖ナーガルジャナ(龍樹)、唯識学のディグナーガなど。ナーガ族の聖者である、お釈迦様の高名なお弟子さんの尊称になり、おそらくナーガ族の聖者、お釈迦様の弟子という意味もあるように思われます。
 お釈迦様が、ナーガ族の出身だとしたら、ウダーナ2-1で龍(ナーガ)がお釈迦様を守っている姿は、お釈迦様を守るナーガ族の姿が反映されているとおもいます。ウダーナ4-4のヤッカというのは、日本語では、悪鬼と訳し、ウダーナ4-4では、目に見えない霊的なものとして描かれています。しかし、アーリア人、つまりバラモンとその文化・宗教・哲学などを含め、ヤッカを一種の隠語として読み、二人のナーガを、お釈迦様の弟子の代表格として読めば超自然的な物語ではないのが解るとおもいます。スッタニパータ4章11争 闘875教のヤッカという言も、バラモンの説く見解と読めば理解できます。ウダーナ7-6でも、神々(Devā)をナーガ族の聖なる人々、ブラフマー神(brahmā)をバラモン(アーリア人の聖者達)と見て、お釈迦様と同じ釈迦族つまりナーガ族のアンニャーシ・コンダンニャ尊者として読めば、アンニャーシ・コンダンニャ尊者は、ナーガ族だけでなくアーリア人からも賞賛を受ける、誰も非難できない聖者(覚者)であり法の体現者であると読めるとおもいます。
 お釈迦様が悟りを開いた直後に、ご自分の悟りを人々に伝えるのは困難と思いめぐらし、教えを説くのをためらっていた時に、梵天(ブラフマー神)が、お釈迦様の目の前に現れて、教えを説くことを熱心に願い、お釈迦様は、教えを説くことを決意されたという、梵天勧請という物語があります。梵天(ブラフマー神)をアーリア人の聖者と読み、ナーガ族のお釈迦様のお姿を見て、願ったのが物語の元と見れば現実的な話に思えます。
 ナーガ族の出身である、お釈迦様が異文化のバラモン(アーリア人)に対して行った説法が現在伝えられている教えだとしたら、異文化の人々に、梵天勧請で、ご自分の教えを伝える困難さを意識して、教えを説くのをためらわれたのも、アーリア文化の言葉を大胆に言い換えて解りやすく伝えたり、アショーカ王やイスラム教の支配のもとでも、なくならないカーストもあっさり否定したりすることも、自然なことの様に思えます。
 お釈迦様の時代のナーガ族の文化がどの様なものかは、なにも伝わっていないので解りませんが、現在のインドでナグプール(ナーガの街)と呼ばれる場所を中心にして、一時期かなりの規模の勢力があったと定かではないにしても伝えられ、東ネパールを中心地とするキラータ族と釈迦族は地理的、歴史的に見てつながりがあり、釈迦族はアーリア文化の影響を受けながら、インド古来からの文化を色濃く引き継いだ人々と見てよいとすれば、アーリア文化的な、ことばは真理を表す、という文化ではなく、ことばは真理を表せない、という文化を、お釈迦様が引き継いでいるなら、経典にある、お釈迦様の悟り(涅槃)は、言葉では伝えられなという教えも、お釈迦様にとっては自然な、ことと思われます。
 この様に経典を見ていけば、お釈迦様は、理論・理屈で説明しながら論議はさけろと、詳しく理論・理屈で説き、時には毒矢の喩えで理論・理屈より先に行うことがあるでしょうと説いたこと。バラモンの教え(理論・理屈・戒律・伝統)だけでなく、ご自分の教えをも、捨てろ、それが最上の教だと説き、誰にでも解るように、筏の喩えで、教えは捨てて行けと説かれ。修行せよと説かれる。実践重視の姿がナーガ族の文化を引き継いだものなら、元々のお釈迦様の教えは、教えを説くことばは、シンプルなもので、実践、修行方法、瞑想方法もシンプルに説いていたと推察されます。
 ウダーナとアッタカ・ヴァッカを見てみると、ウダーナ7-7・虚構の(Papañca)想い(saññā)と名称(saṅkhā)を捨てる(pahānaṃ)アッタカ・ヴァッカ・779想(sañña)いを知りつくし、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることがなく、矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世もかの世も望まない。この教えが特徴的に、お釈迦様の教えを表しているように思います。五蘊(色・想・受・行・識)という形で、こころを分析して、お弟子さん達に、懇切丁寧に説明したのは、アーリア文化で育った人々に向けて、多くのお弟子さん達が増えて戒律なども定めなければならなくなったように、理論、理屈で説く方が伝わりやすくなってからのことで、瞑想についてもシンプルに説いていて、十二処・十八界などは同じ過程で説くようになっていったカリキュラムで、従来のバラモン文化で説明しながら、相手を観察しながら、お釈迦様はシンプルに指導されたと推察します。
お釈迦様が五蘊で説明された心の仕組みは、認識というこころの仕組みが問題だよという説明で、ウダーナやアッタカ・ヴァッカでは、五蘊を想い(saññā)という一言で、シンプルに説明されています。そして虚構(Papañca)というしくみで。名づける(saṅkhā)、つまり概念にする。そして、虚構の名称を、捨てる(pahānaṃ)と、これが悟りだよと。とてもシンプルに、十二支縁起・五蘊・十二処・十八界という型で説明されたことを説いています。ウダーナは悟りを開いた、ナーガ(覚者)であるお釈迦様が、誰に教えるのでもなく、口にされた、ことばを集めた経典です。


              ウダーナについて


 ウダーナがつくられた目的など、確かなことは解かりません、ですから、ここから記載することは、すべて私見です、ウダーナを読んでの感想を記載しただけと思って頂けるとよいとおもいます。
 ウダーナはパーリ語で記された経典の中の、教蔵・小部の三番目に位置している、お経です


   小部の一覧です
1. 小誦経(クッダカ・パータ)
2. 法句経(ダンマパダ)
3. 自説経(ウダーナ)
4. 如是語経(イティヴッタカ)
5. 経集(スッタニパータ)
6. 天宮事経(ヴィマーナヴァットゥ)
7. 餓鬼事経( ペータヴァットゥ)
8. 長老偈経(テーラガーター)
9. 長老尼偈経(テーリーガーター)
10. 譬喩経(アパダーナ)11. 仏種姓経(ブッダ・ヴァンサ)
12. 所行蔵経(チャリヤー・ピタカ)
13. 本生経(ジャータカ)14. 義釈( ニッデーサ)
14-1. 大義釈(マハー・ニッデーサ)
14-2. 小義釈(チューラ・ニッデーサ)
15. 無礙解道(パティサンビダー・マッガ)


1~5は、お釈迦様の言葉、いわゆるお経。6~7は天界・餓鬼などの物語。8~9は長老方(お釈迦様の直弟子)の言葉。10~13は説話集(物語り集)。14~15は注釈書。
小部がこのように15種類の経典としてまとめられたのは、お釈迦様が亡くなってから、数百年たったころで、すでに仏教は、一地方で知られた小さな新興宗教から、アシューカ王の後インドで主流を占めていた大宗教という状態の時に、15種類にまとめられたと思われます。
 1. 小誦経は、一般の人々が誦えるために編集され、仏教に入門(出家)する前に読んで(覚えて)おく経典という目的もあったように思えます。
 2. 法句経は、修行者と一般の人々(在家)は、この時代には多くの関わりがあり、いわば世間と会話するときに必要なお釈迦様の言葉として、また、お釈迦様はこのようなことを言ったというように世間に話す答弁集の役割という目的もあり、二番目に置かれたように思います。
 3. 自説経(ウダーナ)は、仏教に入門(出家)する前に、悟るまで覚えておくようにと、授けた言葉をあつめた経典のように思います。
 5. 経集(スッタニパータ)は、第1~3章と4章・5章は古くから別々に知られていました。スリランカで文字にした時に一つの経典に編集されたのかもしれません。ウダーナは各地区、僧院、師匠ごとに、悟るまで忘れるなと授けたもので、お釈迦様の言葉を、入門前の人にも解るように物語という説明をつけて授けていたものを集めて一つの経典として編集したように思います。
 お釈迦様がだれに教えるのでもない、心から口にされたことばを胸に刻み、支えにして、修行の日々をどのように過ごすか、瞑想修行の目標、修行が進んではじめて真意が解る簡潔な深い教えなど、修行が完成するまで一人一人の修行者が、ひとつひとつ心に留めておく教えをあつめた宝石箱のような経典に感じます。

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