ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教   第3章10世とともにの経副読本⑦

 お釈迦様から直接、十二縁起説をお聞きした当時のお弟子さんが、どのように理解したかを思い描いてみました
 


十二縁起について
 縁起とは「原因によって生じる」や「依存生起」という意味で、因果関係を示した教えで、十二縁起とは、なぜ苦しみが生じるかを示したおしえです。
この十二縁起は実際には無数にある因果関係を、お釈迦様が選んで十二にまとめて説いたもので、人が生きていく過程では無数の縁起が有り、傾向性(性格など)は生まれる前からすでにあり、生まれてから無数のことを経験し、死んで、また生まれる、この過程(プロセス)が十二縁起です。


一つの例を上げます
 十二縁起に受から渇愛・渇愛から執着が生まれるとあります、ある人を見たり聞いたりして、ある人を欲しい(愛しい)と思うまでには多数の過程があります、まずある人を見た時に他の人とこの人を判別(認識)するのに多くの過程があります、(五蘊の説明を参考)そしてある人を欲しいと思うまでには恋愛ドラマのように、喜び・怒り・憎しみ・嫉妬・努力・動揺などの感情が無数に働き(原因となり結果となり)ある人を欲しいとなる、この無数の因果関係を、受から渇愛・渇愛から執着が生じるというように表現しています。このように人が生きていく(生存)過程を因果関係としてお釈迦様が選んで説いた教えです。


①無明avijjā→②行saṅkhāra→③識viññāṇa→④名色nāma-rūpa→⑤六処saḷāyatana→⑥触phassa→⑦受vedanā→⑧渇愛taṇhā→⑨執着upādāna→⑩有bhava→⑪生jāti→⑫老死愁悲苦憂悩jarā maraṇaṃ soka parideva dukkha domanassa upāyāsā


 無明・行・識・名色はインドの最も古いウェーダ文献(世界最古の文献とも言われている)の創造神話に由来する。
 最初にこのように始まります。そのとき、無もなく、有もない。これが「無明」です。
次に、意欲(kāma)があらわれます、この段階では混とんとした状態です、この意欲をお釈迦様は「行」(saṃkārā)と呼んでいます、この意欲とは、なにかを形作る力(形成力)です。
宇宙開闢の歌では順番は明確ではないのですが、思考(心・manasu)が生じます。これをお釈迦様は「識」(viññāṇa)と呼んでいます。
 「名色」はお釈迦様の時代のバラモンにとってはお馴染みの言葉で創造神話に由来しています、この世界がまだ混とんとした状態の時に名(nmaā)と形(色・rūpa)というものによって、個別の生命(個人)というものが出来たという神話をお釈迦様が説明に使ったことばです、つまり名色とは個人(意識を宿す有機体)がここで形成(生じた)したということです。
眼・耳・鼻・舌・身・意という「六処」という場所が出来ます、これは認識をする場所が生じたということです。
 六処という場所でそれぞれ、例えば耳と声が接触して認識が起こります、これが「触」
情報を受け取り、反応し、記憶とつけ合わせます。これが「受」です。
感情などが作用して「渇愛」が生じます
 渇愛を原因として「執着」が生じます、この執着が輪廻(生まれ変わり)の原因です
 「有」は生存ということです、bhava(生存・有る)というのは、「行」が生じて「識」が生じて「名色」生じる、と同じ過程を意味しています。
 「生」は生きる苦しみを意味しています。
生まれることを原因とした「老死愁悲苦憂悩」は死を含む苦しみです



もう少し詳しく説明します


 お釈迦様の生まれ育ったインドには、リグ・ヴェーダというお釈迦様の時代より古くからある文献に記されている「宇宙開闢の歌」というのがあります、お釈迦様が悟りを開いて直後から一定の期間は、お釈迦様の教えに触れたことのないバラモンと呼ばれる修行者に向かって説法しています、このバラモンはヴェーダと呼ばれる教えを学んで修行している人々ですから、ヴェーダの言葉をつかい、ときにはヴェーダにあることの応答という形で説法をしています、十二縁起のはじめの四支(無明→行→識→名色)は「どのように存在するのか」(存在論)をお釈迦様がヴェーダへの応答として説いた教えに思われるので解説していきます。先ずはここから


  そのとき無もなかった、有もなかった‥‥‥‥‥最初に意欲(カーマ・欲)はかの唯一物に現じた。これは意(マナス・心)の第一の種子(レータス)であった。
詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の連絡(起源)を無に発見した。

                   (リグ・ヴェーダ 宇宙開闢の歌 10・129)
順番は不明確ですが、無もなく、有もない(nāsad āstīi)状態から意欲(kāma)思考(心・manasu)熱(tapasu)が生じるとあります、これは混とんとした状態から、形作るちから・心・熱(生命)が生じたという物語りです。


この宇宙開闢の歌は現在でもインドの根源的な思想となっています


 人の根源的な問いは「どのように存在するのか」(存在論)「どのように知るのか」(認識論)ですが、宇宙開闢の歌では、心や欲が生まれた順番も理由も(認識論)、存在(有)はどのように生まれた(存在論)かも明確でなく、二つの問は明確に区別されずに絡み合っていた。お釈迦様は「どのように存在するか」は悟りには役に立たないので捨て置いて「どのように経験するか」に置き換えて、通常の経験にアクセス可能なもので、原因抜きにして存在するものはないので、宇宙の起源、第一の原因、神といったものは存在しえないとした。


①無明とは、宇宙開闢の歌では、無もなく、有もないという表現になります、存在も非存在を確かめることもできない、これらを区別することもできないため、存在も意識もない、原始の段階が無明です。
 お釈迦様の無明は
知らない、わからないという意味です。これは言葉にするときは、どこかから始めなければならないので、無明と表現しただけで、人間の経験では直接とらえられないものです。



 「どのように知るのか」とは経験とはなにかと同じことで、意識(識・心)の起源を見出そうとすることです。お釈迦様は、識の原因は行つまり業と意志(衝動)と説くことで、それまで絡み合っていた識(意・心)と業(業と意志)を五蘊に見られるように説明上分離した。
 同時に行(業と意志)を含む心は、ウパニシャットの時代と同様に生きている時は、善行為から善い結果、悪行為から悪い結果を生じさせ死後も残存する力(エネルギー)であるという教えは継承して、行が心の連続体を続けるエネルギーで、その行を含む心が変化を繰り返しながら続いていくと説いた、つまり心の連続体が変化を繰り返しながら続いていく、これが輪廻です。


②行とは、宇宙開闢の歌では、意欲(kāma・欲)にあたる、この意欲(kāma・欲)が創造を開始するとあり、この段階で、無意識の原基的な状態から発現するものを行(saṅkhāra)と言ってます。意欲(kāma)は渇愛(taṇhā)と同じ意味の言です。心の第一の種子(レータス)である、レータスとは精液も意味し、欲望の種子という意味もある。
 お釈迦様の行は
組み合わせること、構成すること、作り上げること、を意味する言で。意志、意欲、生きていきたい、考えたい、行動したいなどの感情(衝動)と、意志を原動力として発現した行為(業)です


 天土の初めはただ人間の形をしたアートマンだけがあった。彼が身の回りを見渡した時、アートマン以外のなにものも見えなかった。彼は初めて口を開いて、「これは我(アハム)である」といった。
              (ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット1・4・1)
真理(S.satya)は、同時に存在(S.sat)であり、存在することは本質に属し、その真理に、きづいていることも同じです。真に思考するなら、自らそう思うところのものとなる、つまり、主体と客体についてのきづきが展開し、今度はそれが個体化へ向かうということ、
ですから、存在とは、きづき(S.cit P.citta)であり意識(S.vijñāns P.viññāṇa)です


 意識とはウパニシャットでは火に例えられる場合が多く、アートマンに内在し、同時にブラフマンとアートマンは同じものなのでブラフマンにも内在する、これは主体でもあり客体でもある。そして意識が存在する前提条件であり、永久不滅の物であり身体から身体に乗り移る物質的なものであると考えられていて、真の存在と意識は絡み合っているので、存在論と認識諭は一体となっている。
 意識とはお釈迦様は燃焼経で説くように火を意識に例えて、燃料となる、薪により燃えて薪の火が生じる、草が燃えて草の火が生じる様に、燃料となる執着(貪・瞋・痴)により眼・色が触れて(燃えて)眼識が生じる、耳・声が触れて耳識が生じる様に、意識は何かについての意識でなければならないとし、主体と客体は互いに前提条件として、双方が揃わないと成立しない、意識は意識が存在する前提条件ではなく、永久不滅の物でなく、身体から身体に乗り移る物質的なものでもなく、因果的に条件付けられ変化をしていくものです。識は五蘊の一つであり、行(業・意志)と一つの心として働き経験を生み出すが、分類的には分離していて存在論と認識諭は分離され、お釈迦様の教えでは真の存在たるアートマンとブラフマンと意識(S.vijñāns P.viññāṇa)は絡み合ってない。


③識とは、宇宙開闢の歌では、意考(心・manasu)にあたる、この段階では、自らを認識するに止まり、唯一の実態しか存在しないが、ここから主体と客体についてのきづきが展開していく。
 お釈迦様の識は
分離と知る、を意味する言で、分けて知ることを原意とし、対象を識別すること、この分節作用を「認識」と言う。意識、認識するシステムです。


 ここで、お釈迦様は五蘊でも同じですが、行と識を分離しています、これはヴェーダでは意欲(kāma)(行にあたる)、思考(心・manasu)(識にあたる)は、存在論と認識諭、つまり「何が存在するか」「何をいかに知りえるか」は互いに絡み合っているが倫理とは関係ない、しかしお釈迦様の教えでは、根本的な衝動(駆動力)は、行となり、これは生きることと経験を善悪という論理から眺めることであり、心(識)の一例としての、思考の善悪を決めるなにかがどこで働くかを見出すだけでよいということになります。
 ここで論理とは根本的にはどこから来るのかわかりません、なにかとしか表現できないのですが、論理の中身は過去の記憶の蓄積で、社会的な生命としての人間の記憶やそれ以前の生命としての記憶の蓄積がことの善悪を論理として現出させます、お釈迦様はこの論理を業の中心にそえています。
お釈迦様の教えでは業のことは「善いことには善い結果、悪いことには悪い結果がある」このことを見出すこと、それ以上は捨て置けとなります。
 


 ウパニシャットの名色に関する詩を引用
 このとき、万物は未分化であった、ア-トマンは名と色の両者をもちいて、「これはこのような名、このような色(形)である」というように万物を個別化した、それで今でも、名と色を用いて「これはこのような名、このような色(形)である」と限定される
アートマンは爪の尖まで満ちわたっているが、例えば刀が鞘に収まっているように‥‥‥何人も彼見えない
アートマンは常に部分的である、息する時は気息(プラーナ)という名になり、語っている時は語、聴いている時には耳、思考している時には意という名になる。

                (ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット1・4・7)
この世界がまだ混とんとした状態の時に名(nmaā)と形(色・rūpa)というものによって、個別の生命(個人)というものが出来たというお話 つまり名色とは個人(意識を宿す有機体)がここで形成(生じた)したということで、これを個別化と呼ぶ、これはアートマンが形成されたことを示す。
 同時にアートマンは身を潜めてしまう、これは複数の異なる名と色(形)に分割されて、一つの全体として見られる能力を失う、これはアートマンが名と色(形)を与えることは、認識を困難なものとすることを意味する。このことが、お釈迦様が意識を宿す有機体を表すために名色という言葉を選んだ理由に思われる。このお話からアートマンを斥ければ、意識を名と色に分離することは、認識を困難にするということになる。
 なお名色とはインド最初の哲学者とされるウッダーラカ・アールニ(紀元前8世紀ころ)が、認識の対象となる事象も名と色(形)により捉えられるという意味で使った言葉で、お釈迦様の時代にはお馴染みの言葉でした。


④名色とは、意識を宿す有機体(個人)の出現ということ。
後の時代になる名色は五蘊として説明されます、個人の出現が五蘊で説明されるのは自然なことだと思いますが、お釈迦様が説法をしているのがヴェーダを学び修行していた人々で、ヴェーダの教えを当てはめながら理解していることを考えて、このように解釈してみました。


①~④が「どのように存在するのか」(存在論)で、ここまでは個人というものが生じるまでを語っています、ヴェーダの創造神話に対するお釈迦様の答えでもある
⑤から⑦は渇愛が生まれるまでの過程を具体的に語っている。


⑤六処とは、眼耳鼻舌身意という六つの認識の窓口のこと。認識が起こる場所です。
 外の世界とかかわりをもつということです


⑥触とは、情報を感じる場所である眼耳鼻舌身意と個人の外の情報である色声香味触法
 が触れるということ。


⑦受とは、触れることにより起こった情報を受け取ること。
 受から渇愛が生じるまでは無数の感情などが働き、想や行なども働き、つまり蓄積された過去の記憶とも付け合わせ、概念を作り、妄想も作ります。


⑧から⑫は渇愛から苦(dukkha)が生じるまでを語る


⑧渇愛とは、受け取った情報に対して、これ欲しいということです。


⑨執着とは、これ欲しいから、これは私のものとしてつかんで離さなくなり、囚われることです。
執着を原因にして意志や行為(業)つまり、行が生じます。
  この執着が輪廻の原因とお釈迦様は教えています。


⑩有とは、元々は生まれるための条件、環境が揃っている次元ということ、お釈迦の時代は常識とされていたが時代と共に忘れられて行きます。現代語では、生命の存在する空間という意味で、生存という言葉を使います。行動すること、この世に生きること、生きることとは、見る聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・考えることで、意志して行動すること(行為)と同じ、つまり行と同じですが行は個別化する前の段階の用語で有は個別化した後の用語です、個人の苦(dukkha)はどのように生まれるかの説明が十二縁起なので用語が変わります。
  お釈迦の時代は、⑩有で生命の生まれる条件が揃って⑪生は生まれるという簡単な理解で伝わったと思われます。


⑪生とは、誕生のこと、この世に個人として生まれること。


⑫老死愁悲苦憂悩とは、死を含む苦(dukkha)です




宇宙開闢の歌
一 そのとき無もなかった、有もなかった、その上の天もなかった。なにものか活動したのか、誰かの庇護の下(もと)に。深くして測るべからざる水は存在したのか。
二 そのとき、死もなかった、不死もなかった。夜と昼との標識(日月・星座)もなかった。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸した(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在しなかった。
三 太初において、暗黒は暗黒に蔽われていた。この一切は標識なき水波であった。空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生した(生命の開始)。
四 最初に意欲はかの唯一物に現じた。これは意(思考力)の第一の種子であった。詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の連絡(起源)を無に発見した。
五 彼ら(詩人たち)の紐は横に張られた。下方はあったのか、上方はあったのか。はらませるもの(男的な力)はあった、能力(女性的な力)あった。自存力(本能、女性力)は下に、衝動力(男性力)は上に。
六 だれか正しく知る者であるか、だれかここに宣言しうる者であるか。この創造(現象界の出現)はどこから生じ、どこに来たのか。神々はこの世界の創造より後である。しからば誰が創造がどこから起こった、だれが知る者であろうか。
七 この創造はどこより起こったか、かれは創造したのか、あるいは創造しなかったのか、── 最高天にあってこの世界を監視する者のみが実にこれを知る。あるいはかれもまた知らずない。


要約すれば
 一、太初はなにもない  
 二、かの唯一物以外はなにもない(ここでは男女は未分化)
 三、太初では宇宙は水から始まり熱により出生
 四、意欲(カーマ)・思考(マナス)・第一の種子(レータス)が起こったことをかたる
   カーマは愛欲・衝動 マナスは心・思考力 レータスは精液などを意味します
    水のようなかの唯一物からマナス・カーマとレータス(性的な衝動)により熱(生命)が生まれたとよめます
 五、唯一物が男女両性に分化して性交渉により、第二次的創造が始まったことを指す
 六、だれが、どこかで、いつ、おこったかはわからないと終わる



日本の創造神話
 天と地が分かれ、日本の創世は始まる。
天上界である高天原にアメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミ、カムビノカミ、といった三柱が現れては姿を消した。國推いころまだ水に浮く油のように、海月のように漂っている時に、葦の芽のようにすくすくと生まれたのがウマシアシカビヒコジノカミ(成長力の神)、天上をとこしえに支えるように生まれたのがアメノトコタニノカミら二柱の神が現れた。ここまでが男女に分かれる前の独神(ひとりがみ)で姿を現さず、コトアマツカミと呼ばれた。国土の根源神クニノトコタチノカミとトヨクモノノカミこの二神も独神(ひとりがみ)で姿を現さなかった。次に泥や砂の神ウヒジニノカミ、イモスジニノカミ、次に杙などの神ツノグヒノカミ、イモイクグヒノカミ、次に居場所の神オホトノジノカミ、イモオトノベノカミ、次に人体の完備と意識の神オモダルノカミ、イモアヤカコネノカミ、次にイザナキノカミとイモイザナミノカミという男女対に五組の神々が現れた。
この最後に現れた二柱は他の神々から国土を創るように命じられ。二柱は天地の間にかかる天浮橋の上に立ち、矛でおぼろな地をかき混ぜ、そして矛を引き上げた時、滴り落ちた雫が積み重なって、オノゴロ島ができ。二柱はこの島に降り立ち、社を建てる。
ここでイザナキがイザナミにどんな身体をしているか、尋ねます。イザナミは一箇所できていない所があると答えました。イザナキは「私は一箇所できすぎています。これであなたのできていない所をふさいで、国土を産みたい」と、持ちかけます。イザナミもそれを承諾します。
二柱は早速それぞれ反対側から柱を廻り、出会った所でイザナミが先に声をかけ、契りを結びます。そして生まれたのは骨のないヒルコ。先に女神であるイザナミが声をかけたのがまずかったみたいで、他の神の助言を得ながら二柱はやり直します。
そして無事に、日本列島にあたる八つの島々が生み出されました。
最初に生み出されたヒルコは流され、どこかに辿りついたそうです。


 成長力は植物で表現されていますが、動物で表現すれば意欲です


一、要約すれば太初はなにもない、
二、独神(ひとりがみ)は、姿を現さず
三、國推(おさない)いころ地上は水で満たされていた
四、水から葦の芽のようにすくすくと生まれ(成長力・意欲)、国土の根源神クニノトコタチノカミとトヨクモノノカミ(島の誕生を語る神話なので生命の元とよんでいいと思いま)、人体の完備と意識の神オモダルノカミ、イモアヤカコネノカミ、が生まれた
五、イザナキノカミとイモイザナミノカミが矛でおぼろな地をかき混ぜ(性行為)、そして矛を引き上げた時、滴り落ちた雫が積み重なって、オノゴロ島ができ。二柱はこの島に降り立ち、社を建てる。(第二次的創造)
六、独神(ひとりがみ)は姿を現さないです。


 宇宙開闢の歌と日本の創造神話は、概ねよく似た神話です、創造神話は世界各地でよく似た物語が数多くあります、地理的に離れた場所でも共通の物語があるのは人類に共通のイメージが反映されているという説が現在広く支持されています、そしてこのイメージは人類が、どこからきて、どこへいくのか、という哲学で言えば存在論になります、お釈迦様はこのことを無明→行→識→名色と表現したと思われます。

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