ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章10世とともに経の副読本⑥


ウダーナ副読本 テーマ別


3・10 世とともに経に関連して


漏(Āsava)ついて
 漏とは、煩悩が「漏れ出す」という意味で、経典では「心はāsavaより解脱した」とあります、「根源的な欲」と訳しましたが、重要で微妙な言葉ですので解説しておきます。
お釈迦様はāsavaについては、kāma(意欲・欲望)・bhava(生存への欲・業)・avijjā(無明)時としてdiṭṭhi (ものの見方)だと述べ、khīṇāsava(無漏)という言は、あらゆる解脱者を表す枕詞となっている。サンスクリット語ではāsrava(アースラヴァ)というのが対応する言で流入という意味で、煩悩が「漏れ入る」という意味になります。
 お釈迦様と同じ時代にジャイナ教と現代呼ばれる一団があり、この一団とお釈迦様とは直接交流があり、お釈迦様がジャイナ教の人々を改宗させたという経典も伝わっています。このジャイナ教の教えでは、カルマ(業)という物質的な汚れが、本来天に昇る性質のジーヴァ(生命・魂)にへばりつき輪廻に繋ぎとめるという教えを説いていた。同じころカルマは、湿ってへばりつく物にまとわりつく塵、という例えがインドでは用いられていた。いずれも「汚れが流入」するというのがアースラヴァの意味になります。そしてこの汚れとはカルマ(業)や苦悩ということを指しています。
お釈迦様はāsavaという言葉をジャイナ教やお釈迦様の教えを知らない人々にも伝えるのにつかいました。ご自分の教えをお弟子さんに詳しく伝えるときには、「汚れの作用がはたらいていて、それが現れて(漏れ出して)いる様子そのもの」を言い表しています、
汚れ(kāma・bhava・avijjā)そのものを言うのではなく、嫉妬などの具体的な感情を直接捉えた言でもありません。お釈迦様の教では、そもそも魂はありませんから、魂に汚れ(煩悩)が「漏れ入る」というのはありえないことがらです。しかし、ジャイナ教の人たちなどに「汚れ(煩悩)の作用がはたらいる」と説明するときに、お釈迦様は「魂に流入(āsrava)してくる汚れのようなものがはたらいている」と語っていたのを、そんままお弟子さんにもāsavaということばを、煩悩(汚れ)が「漏れ出す」という意味に、言い換えて使っていました。お釈迦様がジャイナ教の言に新たな意味を吹き込んだ例です。
お釈迦様の教えでは、kāmaとは根源的な生存欲・意欲・衝動、bhavaとは生存これは業と生きる欲、avijjāとは無明これは根源的な欲の原因を言います、いずれも直接知覚できないもので、そのはたらきを知ることが出来るだけのものです、この直接知る(知覚)することの出来ない汚れのはたらきをāsavaと言い換えています。
そして直接知覚することの出来ないものは悟りには役に立たないので捨て置けと説いて、そのはたらきを知ればよいと説きます。
私(attan・我・自己)サンスクリット語でアートマン(ātman)は、直接知覚できない、あるかないかわからないが、汚れと同じように、自分と実感があるというはたらきを知ればよい、この教えを無我(anattan)と言います。
お釈迦様はこのように説法の相手が理解出来るような言を使い、お釈迦様の教えを、お弟子さんに説くときには、言に新たな意味を吹き込んで語ります、これを対機説法といいます。時代が下りお釈迦様の説法を当時のバラモンがどの様に理解していたかは知る必要がなくなりこのような事情は忘れられて行きます。
āsavaは直接知覚できない「ことがら」をお釈迦様がどの様に語ったかを知る例です、お釈迦様がお弟子さんに向けた説法で根本的な欲(煩悩)を直接語る言葉はありません、
 日本語の漏(煩悩が漏れ出す)という翻訳は、直接知る(知覚)することの出来ない汚れのはたらきを表す言としては適切と思いますが、漏という言から本意を汲み取るのは難しいと思われます。



業(S.karman P.kamman)について
 「作る」、「する」を意味するkṛから作られた言で、パーリ語では「作用」「行為」「振る舞い」を意味する。
 ウパニシャットという、お釈迦様以前の時代からインドに伝えられている古い文献に出てくるヤージュニャヴェルキヤが、人間の死後の運命について尋ねられたときに、「人は善業によって善い者となり、悪業によって悪い者となる」(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット3・2・13)という考えを秘密の教えとして示したと伝えられるのが業という言が出てくる最初です、輪廻という考えがどの様に出てきたのかは歴史的に不明確なのですが、ここで業は「死後にも残存する潜在的な力」と考えられていたことは明らかです。
別のところでヤージュニャヴェルキヤは続けます、人間の臨終のときの様子を語ります
 「彼の心臓の先端は輝き、その輝きとともに、‥‥‥‥認識する能力と業と、そして前世
  を洞察する理智とは、彼(アートマン)にしがみついて出ていきます」
               (ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・2)
 「あたかも草の葉につく蛭が葉の先端に達し、他の草の葉にとりついて、その身を縮めて
  その葉にうつろうとするように、まさしくこのアートマンはこの肉身を捨て、認識する
  力のない状態を離れて、別のものにとりついて、その身を収縮して、それに乗り移るの
  であります」
               (ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・3)
このようにアートマンが臨終のときに魂のように身体から身体に移り生まれ変わるとあります 
 さらにヤージュニャヴェルキヤは続けます
 「執着ある人は、業とともに、彼の性向と意とがしがみつく処に赴く、この世において彼
  がいかなることを作しても、その業の極限に到達したとき、彼は再び、新たに業を積む
  ために、かの世界よりこの世界に帰りくる」
               (ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・5)
この詩は欲望がある人は業とともに、新たにこの世で業を積むために生まれ変るという詩


 「彼の心に拠る欲望がすべて除き去られたとき、死すべき人は不死となり、この世におい
  て人間はブラフマンに達する」
               (ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・5)
この詩は欲望がない人はブラフマンと一体となり永遠の命(不死)を得るいう詩


 お釈迦様以前の業について記載しました、このように、「善行為から善い結果、悪行為から悪結果が得られる」と「業は死後にも残存する潜在的な力」など業の本質的な要素はすでにそなえていると考えていいと思います


 お釈迦様以前の時代には、祭式(密教の護摩を想像してください)により願いが叶えられ神々さえも動かせるというのが主要な考えで、この祭式を行うのが「行為」(業)であり、
  善行為(善業)とは主に正しい祭式を行う(行為)ことであり、
  悪行為(悪業)とは主に正しくない祭式を行う(行為)ことである
とされていた。


ここでお釈迦様の言葉である経典から
 私は、意志を業と説く、意志してから、身体・言葉・思考によって業(行為)をなす
                            (増支部6.63 洞察経)
意志という行い(行為)が原動力となり、身体を動かし・言葉を動かし・思考を動かし業(行為)が起こるという意味です。


 お釈迦様は、意志(S.P.cetanā)を業と説くと明確に述べています、これはウパニシャットなどのお釈迦様以前の時代の言に新しい意味を吹き込んで使用し、当時のインドの人々にも馴染みの言で語りかけた例です。
 インドのウパニシャットなどからは、「善行為から善い結果、悪行為から悪結果が得られる」と「業は死後にも残存する潜在的な力」いうことは引き継ぎながら祭式ではなく、善い意志が善い結果を、悪い意志が悪い結果をもたらすとお釈迦様は言い換えることで、
  善行為(善業)とは倫理的に正しい意志で行うことであり
  悪行為(悪業)とは倫理的に正しくない意志で行うことである
この様に説き、祭式から業を切り離し倫理(道徳)を中心に据えた。
 アージーヴァッカ教という一団がお釈迦様の時代にインドにいて、現在も未来も運命によってすべて決まっていると説いていたが、それに対してお釈迦様は未来は現在の行い(行為)によって変わると説く。
 さらにジャイナ経では業とは外から流入してくる物質だと説き、真の自己であるジーヴァはこの業のせいで輪廻を繰り返すので苦行によって業を振り落とすと考えた。
 お釈迦様は業とは意志にもとづく行い(行為)なのだから苦行は必要ないと説く。
この他にも全ては主宰神により創造を原因とする考えや、すべては原因もなく条件もな
く偶然に起こるという考えも認めていない
 すべて運命として予め決まっている、すべて主宰神が決める、すべては偶然ということでは、行為の善悪は成り立たず、倫理も成り立たない、すべては一人一人の意志が行為(行ない)が決める、これは意志という行為の原動力が善行為をすれば善なる結果、悪行為をすれば悪い結果を生むということです。お釈迦様の教えは、意志を業とすることで自業自得を基礎づけて、一人一人の心を正しくすることで、論理的な向上を目指していく教えです。
 何が善行為、悪行為については現代の基準と大きな差異はないと思いますのでここでは省略します。


 今までの説明で業というのは祭式を行う(行為)ことで、これらは主に物質的な行いを指しているのを、お釈迦様は意志(cetanā)と主に精神的な行いを指すことばに言い換えているのがお解りと思います、この意志という言はウパニシャットなどお釈迦様の時代の文献には殆ど出てこない言で、お釈迦様は新しい考えということでウパニシャットなどとは関係のない意志という言を使用したと思われます、しかしお釈迦様と出会う前にウパニシャットなどを学んできた人々には、馴染みのある業と同じような意味を持つ、行(S. saṃkhārā P.saṅkhāra)という言で説法していますので行を説明していきます。



行(S. saṃskhārā P.saṃkhāra)について
 saṃskhārāは、「行う」「作る」「する」を意味するkṛに由来し、samは「ともに」を意味する、もともとは「組み合わせる」「構築する」という意味だと思われる。一般的にはバラモン階級の社会的・宗教的な、日本で言えば七五三・結婚式・葬式などに当たる儀式を指している。この儀式・祭式の目的は天界への再生であるのはヴェーダ文献で明らかなことです、ヴェーダのブラーフマナ文献という古い文献に、天界への再生(生まれ変わり)は祭式をとおし、「天界に自己(ātman)を作り上げる」ことにより実現すると述べられています、「天界に自己を作り上げること」は、この世で「自己を作り上げること」を必要とします。この「自己を作り上げる」という意味の、作り上げる(S.saṃskṛti)は、行(S. saṃskhārā)と同じ sam とkṛから作られた言で、天界とこの世を行き来する自己の再生つまり輪廻を前提としていて、業(S.karman P.kamman)も同じくkṛから作られた言です、そして祭式を行う為には社会的、伝統的な責務を果たすこと、つまり倫理的に正しい行い(行為)をするという意味です。
 諸々の行為の原動力である意志(S.P.cetanā)と、意志の発現である行為(業)(S.karman P.kamman)が、行(S. saṃskhārā P.saṃkhāra)です。
 意志を原因・過程、行為(業)を結果という意味もありまが、実際にはある言葉が原因で、その原因は意志であり結果があるなど、複雑に重なり合ってものごとは起こります、
行は文脈により原因・過程と結果の両方を表していき、必ず複数形で使われます、お釈迦様は業のことは悟りの為には考えるなと戒めています。ほどほどに考える事柄です。



五蘊について
 五蘊は生命を構成する五つの要素と通常説明されますが、あらゆる経験を構成する五つの要素でもあります。


 1、色(S.P. rūpa)は、五感(眼・耳・鼻・舌・身)とその対象(色・音声・香・味・触)を含む物理的な働き、身体と感覚の対象。
 2、受(S.P. vedanā)は、「見る」「知る」を意味するvidから作られた言葉で「感じる能力」を意味する、認識器官と認識対象が接触して生じる感受であり、苦・楽・苦でも楽でもないなどの感覚。
 3、想 (S. saṃjñā P. saññā) は、共存や完成を意味するsamと知るを意味するjñāから作られた言葉で「表象」を意味する。もともとは名称を意味する。受け取った情報を分ける、例えば視覚なら受け取っただけでは同じに感じているものを、赤と青、〇と△の様に分けて情報を現象(概念)に変えるシステム。識と対をなす語形でもある。
 4、行(S. Saṃskhār P. Saṅkhāra)は、想と同じく共存や完成を意味するsamと作る、行うを意味するkṛから作られた言葉で、「組み合わせること」「構成すること」「作り上げること」を意味する。意志(S.P.cetanā)、意欲、生きていきたい、考えたい、行動したいなどの感情(衝動)と、意志を原動力として発現した行為(業)(S.karman P.kamman)です
 5、識(S.Vijñāna P. Viññāna)は、分離を意味するviと知るを意味するjñāから作られた言葉で、分けて知ることを原意とし、対象を識別すること、この分節作用を「認識」と言います。意識、認識するシステムです。


 五蘊とは一人の人間を解りやすく説明するために、機能別に分けて説明したものです、身体と心を二つに分けて、さらに心を四つに分けて、観察すれば解りやすいというお釈迦様の教え、つまり瞑想で心を観察するときこのように分ければ観察しやすいという教えです。心は六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)という場所で、対象(色・声・香・味・触・法)が触れて、感じて、判断する、この機能が心だということです
 例えで説明します、あなたが、ある人を採用する時、面接をします、その会場を思い浮かべてください、ある人がドアを開けて入ってきます、その時にその人を見たり、声を聞いたり、します(受)この時に第一印象で、好ましい・好ましくない・どちらでもないか感じる。年齢や名前などを確認して(想)。会話をして、その人がどんな人か確認して行く、(行)、そして次の面接に呼ぶかどうか判断(識)する。この人がどのような人で、採用するかどうかは、二次、三次と何度も面接を繰り返して決める。
 もう少し細かく説明します、面接では四人の面接官がそれぞれ、ある人を確認します、第一印象を見る係は、ドアを開けて入ってきた(触)人が、
(受)好ましいか・好ましくないか・どちらでもないか漠然と受け止める。
(想)次の係は、日々の過去の記憶(年齢や名前)と照合して印象を鮮明にして確認する。(行)その次の係は印象だけではなく過去の深い記憶や行いなども参考に善い人か・悪い人かなどを判断して次の係に誘導する、
 この深い記憶や行い(業)と誘導するエネルギー(意志・衝動)は人の深い心にあり、生きようとする根本的な生存欲(意志・衝動)と意志を原動力とした発現である業です。
 五蘊の色・受・想・識はものごとの、倫理的な善い・悪いとは関係しないで中立的な働きです。
(識)その次の係は、次の面接に呼ぶかどうか判断する。
最終的に採用するかどうかは五人で判断します


 五蘊という分け方は現代でいう潜在意識と表層意識という分け方ではないです、身体と心をもつ一つの有機体(人)の仕組みを説明するのに五つに分けて説明しているだけで、五人の面接官が面接を何度も繰り返し一人を採用するかどうか決めるように、入ってきた情報を何度も繰り返し一つの身体と心がそれぞれの機能で何度も繰り返し分析して、これは、男だ女だ、赤だ青だ、善いか悪いかなどを判断していく過程を説明しています、初めの方の面接が潜在意識で後からの方の過程が表層意識となります。
 この対象を識別すること、分節作用つまり感じることが心です。


五取蘊(S.pañcopādānaskaandha, P.pañcopādānakkhandha)について
 この五取蘊とは五蘊に執着が伴っていることに力点を置いた呼称です。
お釈迦様が悟りを開かれた直後に十二縁起という形で悟りを確かめられて、このように最後に確かめられたと伝わっている
 Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hotī
 このように 全ての 苦の集まり(蘊) が起こる
                         (ウダーナ1・1)
 このようにとは、十二縁起を確かめたということで、そのあとに苦の集まり(蘊)が起こるとお釈迦様は確かめている。


 saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.
 要するに  五つの集まり(蘊)に執着することも 苦しい
                         (転法輪転教)
 お釈迦様の最初の説法で、四聖諦の苦(dukkha)の説明で、要するに苦とは、五つの執着の集まり(五取蘊pañcopādānakkhandha)であると説く。


 二つの経典を見比べてみれば、共通しているのが解ると思います、十二縁起で「苦の集まり(蘊)」の「集まり(khandha)」は、四聖諦で「五つの執着の集まり(五取蘊)」と同じ言で、四聖諦ではこの「五つの執着の集まり」が苦だと定義されている、したがって縁起の「苦の集まり(蘊)」は「五つの執着の集まり(五取蘊)」を指していると考えてよいと思います。



無我について
 無我(P.anattā)とは、自己(S.ātman P.sttā)はないという意味で、私心がない、夢中になるということではないです。
魂は永久不変で死んでも身体から離れて、生まれ変わるというのが一般的な考えです、無我というのは、この魂がないという考えだと誤解されているので、順番に説明していきます。
 お釈迦様の生まれ育ったインドには、リグ・ヴェーダというお釈迦様の時代より古くからあるヴェーダ文献があり、プルシャという記載があり、その意味は「人・人我・本体」という言で、プルシャの真の性質は意識を有することであるとされる。リグ・ヴェーダの後の時代のシャタハラ・ブラーフマナという文献では「死すべきものはアートマンをもたない」とあり、その本質は不死なる実在つまり永久不変の存在と発展し、ウパニシャットではプルシャとアートマン(真の自我)は同じとみなされていく。さらにリグ・ヴェーダにブラフマン(宇宙の根本原理)という言が頻繁に出で来る、その元々の意味や語源などは明確には解らないがウパニシャットの時代にはブラフマンが宇宙の根本原理であるのは自明のこととされ、やがてアートマンはブラフマンであるとなり、真の自我であるアートマンは人が死ねば身体から別の身体に移り生まれ変わると考えがお釈迦様の時代には主流となっていた、そして現代的に言えばアートマンという小宇宙がブラフマンという大宇宙は同じだと覚ることこそ真理だという考えが常識となっていました。


お釈迦様の時代の無我についてもう少し説明


  ああ、実に妻への愛情があるために、妻が愛しいのではない。そうではなくて、
 アートマンを愛するが故に、妻が愛しいのである。
  ああ、一切に対して愛情があるために、一切が愛しいのではない。そうではなくて、
 アートマンを愛するが故に、一切が愛しいのである。
アートマンに執着するから一切が愛しい、一切に執着するから一切が愛しいのではない。
これはアートマンでないものをアートマンだと執着するのが迷いであり、この迷い(執着・自我意識)を捨てるのが肝心なことだという意味。


  ああ、アートマンは見られるべきであり、聞かれるべきであり、思われるべきであり、
 瞑想されるべきである。実に、ああ、アートマンが見られ、聞かれ、思われ、瞑想された
 とき、この一切は識られたのである
                (ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット4・5・6)
 アートマン(自我)は見られ。聞かれ、思われ、瞑想されるべき存在である、なぜなら、この世の一切のものの本体であり根源であるから、簡単には理解できないという意味。


  この偉大で不生のアートマンは、実に諸機能の中において識別から成るものでありま
 す。‥‥‥心臓中にある空処、そこに横たわっています。‥‥‥
 アートマンは不生で、認識作用からなり、心臓中にある空処にある


  彼はこれらの諸世界が分裂しないように、それらを繋ぐ橋であります。‥‥‥
 認識対象である情報(諸世界)を統合(識別)する、それらを成り立たせる(繋ぐ)もの、つまりアートマン(彼は)は認識主体であるという意味。


  これさえ知れば、彼は聖者となります。‥‥‥
 このアートマンを知れば聖者になれる


  このアートマンは、ただ「あらず、あらず」と説かれて理解されます。すなわち、彼は
 実に捕捉されえないものです。何故ならば、彼は捕捉されないからです。
                (ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット4・4・22)
アートマンは「あらず、あらず」というように肯定的に表現できず、否定的に表現しなければ理解できない、そして、捕捉されえないものです。何故ならば、彼は捕捉されないからとは、「認識主体は認識対象でないので認識できない」という意味。


 これは実に偉大で不生のアートマンで、不老・不滅・不死であり、恐れのないブラフマンである。ブラフマンは実に恐れがない。何故ならばこのように知る者は実に恐れのないブラフマンとなるからである。
                (ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット4・4・25)
アートマンはブラフマンであるという言明


 「認識主体は認識対象でないので認識できない」とは後の時代には、「包丁は自らを切れない」という例えがあります、これはアートマン(自我)というのは認識対象つまり認識できる世界の外にあるものであり、アートマンを認識(知ったり・捉えたり)することは原理的にできないということで、このことを人類で初めて言ったのはウパニシャットにでてくるヤージャヴァルキヤです。
 アートマン(我)は認識できる世界の外にある存在であり、認識対象にある世界のどれもアートマンでなく、身体も心もアートマンではない、そして世界のなにかをアートマンだと見るのは錯誤だということです。
 お釈迦様はこの説を前提に五蘊一つ一つを観察するようにと無我相経で説いています、そして、この我(アートマン)は自分の身体でも心でもないのに、自分の本体であり愛しいものと錯覚する、この錯覚を執着と呼んでいます。そしてこの執着を離れるのが悟りと説いています、この教えが無我です。


 お釈迦様は遍歴行者ヴァッチャコッタに「自己(sttā)は存在するのか」と問われて沈黙し「自己(sttā)は存在しないのか」と問われて沈黙しヴァッチャコッタが去った後、アーナンダ尊者がなぜ答えなかったのかと質問したときのお釈迦様の答えです。


 アーナンダよ、私が遍歴行者ヴァッチャコッタに「自己(sttā)は存在するのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在する」と答えたならば、アーナンダよ、これは、かの、永遠を説く行者・祭官らの側になってしまう。また、アーナンダよ遍歴行者ヴァッチャコッタに「自己(sttā)は存在しないのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在しない」と答えたならば、アーナンダよ、これは、かの断滅を説く行者・祭官らの側になってしまう
                        (相応部44・10 アーナンダ経)
「自己は存在する」と答えないのは、認識主体としての自己の存在を認めていないからであり「自己が存在しない」と答えないのは、死後はなにも無く自己もなくなるということを認めないということです。


 十二縁起支は、存在すると存在しないの両方を認めない教えです、一切が存在する(常住諭)と一切が存在しない(断滅諭)の両方を斥けます。両方とも極端であり、その両方を斥けるのが中道であり、お釈迦様の教えであり、十二縁起です。
さらに、行為者(因)と行為の結果(果)の受け手が同一だという、ものの見方を永久不滅の自己があると考える誤り(常住諭)に陥るとして斥け、行為者(因)と行為の結果(果)の受け手が異なるという、ものの見方を行為者と行為の結果の相続を否定する誤り(断滅諭)に陥るとして斥ける、その両方を斥けるのが中道であり、お釈迦様の教えであり、十二縁起です。
                      (相応部12・17 裸形カッサバ経)より

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