ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章10世とともに経の副読本⑤

 


 お釈迦様の二番目の説法である経典です、その内容は転法輪転教を別の角度から詳しく説いた内容で、五蘊と無我という仏教の最も重要な教えが開示されています、詳しい内容は解説をご覧ください、燃焼経同様にけして省略して読む経典ではないです。


Anattalakkhaṇasuttaṃ
無我相経


Ekaṃ samayaṃ bhagavā bārāṇasiyaṃ viharati isipatane migadāye
あるとき幸あるお方はバーラーナシーのイシパタナ鹿野苑に住しておられた。
Tatra kho bhagavā pañcavaggiye bhikkhū āmantesi
ときに幸あるお方は五比丘衆に呼びかけられた
‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhadante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ.
「ビクたちよ」と。「尊き者よ」と彼ら比丘たちは幸あるお方へ応えた。
Bhagavā etadavoca
幸あるお方はこう言われた。


‘Rūpaṃ, bhikkhave, anattā. rūpañca hidaṃ, bhikkhave, attā abhavissa,
「ビクたちよ、色は無我である。ビクたちよ、もし色が我であるならば、
nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca rūpe –
色は病にかかることはないし、また色に対して
‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti.
『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, rūpaṃ anattā, tasmā rūpaṃ ābādhāya saṃvattati, na ca
しかしビクたちよ、実に色は無我であるから色は病にかかり、
labbhati rūpe – ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’’’ti.
また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と


‘Vedanā, anattā. vedanā ca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「受は無我である。ビクたちよ、もし受が我であるならば、
nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca vedanāya –
受は病にかかることはないし、また受に対して
‘evaṃ me vedanā hotu, evaṃ me vedanā mā ahosī’ti.
『私の受はこのようになれ、私の受はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave,vedanā anattā, tasmā vedanā ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に受は無我であるから受は病にかかり、
na ca labbhati vedanāya – ‘evaṃ me vedan hotu, evaṃ me vedanā mā ahosī’’’ti.
また受に対して『私の受はこのようになれ、私の受はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と
‘Saññā, anattā. saññā ca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「想は無我である。ビクたちよ、もし想が我であるならば、
nayidaṃ saññā ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca saññāya –
想は病にかかることはないし、また想に対して
‘evaṃ me saññā hotu, ev aṃ me saññā mā ahosī’ti.
『私の想はこのようになれ、私の想はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, saññā anattā, tasmā saññā ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に想は無我であるから想は病にかかり、
na ca labbhati saññāya – ‘evaṃ me saññā hotu, evaṃ me saññā mā ahosī’’’ti.
また想に対して『私の想このようになれ、私の想はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と


‘Saṅkhārā, anattā. saṅkhārā ca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「行は無我である。ビクたちよ、もし行が我であるならば、
nayidaṃ saṅkhārā ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca saṅkhāresu –
行は病にかかることはないし、また行に対して
‘evaṃ me saṅkhārā hotu, evaṃ me saṅkhārā mā ahosī’ti.
『私の行はこのようになれ、私の行はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, saṅkhārā anattā, tasmā saṅkhārā ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に行は無我であるから行は病にかかり、
na ca labbhati saṅkhāresu – ‘evaṃ me saṅkhārā hotu, evaṃ me saṅkhārā mā ahosī’’’ti.
また行に対して『私の行はこのようになれ、私の行はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と


‘Viññāṇaṃ, anattā. viññāṇñca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「識は無我である。ビクたちよ、もし識が我であるならば、
nayidaṃ viññāṇe ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca viññāṇe –
識は病にかかることはないし、また識に対して
‘evaṃ me viññāṇaṃ hotu, evaṃ me viññāṇaṃ mā ahosī’ti.
『私の識はこのようになれ、私の識はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, viññāṇaṃ anattā, tasmā viññāṇaṃ ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に識は無我であるから識は病にかかり、
na ca labbhati viññāṇe – ‘evaṃ me viññāṇaṃ hotu, evaṃ me viññāṇaṃ mā ahosī’’’ti.
また識に対して『私の識このようになれ、私の識はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と


‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, rūpaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā’’ti?
「ビクたちよ、そなたらはどう思うか。色は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」


‘Vedanā niccā vā aniccā vā’’ti?
「受は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccā, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」


‘Saññā niccā vā aniccā vā’’ti?
「想は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccā, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、


‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」


‘Saṅkhārā niccā vā aniccā vā’’ti?
「行は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccā, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」


‘Viññāṇaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā’’ti?
「識は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」


‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」


‘‘Tasmātiha, bhikkhave, yaṃ kiñci rūpaṃ
「ビクたちよ、それゆえ、色であるものは何であれ、
atītānāgatapaccuppannaṃ
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbaṃ rūpaṃ –
そのすべての色を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである


yaṃ kāci vedanā
受であるものは何であれ、
Atītānāgatapaccuppannā 
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnā vā paṇītā yā dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbā vedanā –
そのすべての受を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na me so attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである


yaṃ kāci saññā
想であるものは何であれ、
Atītānāgatapaccuppannā 
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnā vā paṇītā yā dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbā saññā –
そのすべての想を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na me so attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである


aṃ kāci saṅkhārā
行であるものは何であれ、
Atītānāgatapaccuppannā 
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnā vā paṇītā yā dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbā saṅkhārā –
そのすべての行を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na me so attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである


yaṃ kiñci viññāṇaṃ
識であるものは何であれ、
atītānāgatapaccuppannaṃ
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、


sabbaṃ viññāṇaṃ –
そのすべての識を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである


‘‘Evaṃ passaṃ, bhikkhave, sutavā ariyasāvako
ビクたちよ、このように見ると、多聞の聖なる弟子は、
rūpasmimpi nibbindati, vedanāyapi nibbindati, saññāyapi nibbindati,
色をも厭い、受をも厭い、想をも厭い、
saṅkhāresupi nibbindati, viññāṇasmimpi nibbindati.
行をも厭いか識をも厭う。
Nibbindaṃ virajjati; virāgā vimuccati.
厭うゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。
Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ hoti.
解脱すれば、『解脱した』という智慧が生じる
‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ,
『生まれることは滅尽した。修業は完成した。
kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’
なすべきことはなした、もはや生まれることはな』
ti pajānātī’’ti.
と知るのである」と。 


Idamavoca bhagavā. Attamanā pañcavaggiyā bhikkhū
幸あるお方がこれを説かれると、五人のビクは
bhagavato bhāsitaṃ abhinanduṃ 2
幸ある方の教説を心から喜んで受け入れました。
Imasmiñca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne
この教説が説かれているうちに、
pañcavaggiyānaṃ bhikkhūnaṃ anupādāya
五人のビクは心に執着がなくなり、
āsavehi cittāni vimucciṃsūti. Sattamaṃ.
根源的な欲より解脱したのでした。




無我相経の解説
色は無我である、
色が我なら、病にかからないし、色は無我であるから色は病にかかる
色に対して、我であるならば「私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな」と命じることが出来るか
色に対して、無我であるから「私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな」と命じることが出来ないのである。


真に見るもの(アートマン)は死をみず、病を見ず、また苦境もみることなし。
真に見るものは一切をみる。彼(アートマン)はあらゆる処において、一切をえる
(チャーンドーグヤ・ウパニシャット7・1・26)
実に、この不滅のもの(ブラフマン)の指示に従って、太陽と月は分かれて存在す
(ブリハットアーラスヤカ・ウパニシャット2・8・9)


アートマンは病にかからない、すべてを見る、すべてをえる、ブラフマンは命じることが出来るとかたっている。


上記はお釈迦様の時代より古くからあるウパニシャットという文献からの言です、お釈迦様はアートマン・ブラフマンとは病にかからない、命じることが出来る、という説明に対して色受想行識という五蘊(人間)は、病にかかる、命じることは出来ない、とかたり、なぜなら無我であるからとかたっています。
読み比べてみればお解りだと思いますが、現代的に言えばアートマンという小宇宙がブラフマンという大宇宙は同じだと覚ることこそ真理だという考えが常識の時代のバラモンが相手ですので、アートマン・ブラフマンがあるなら、この様でないと教えるのが最も伝わりやすい方法とお釈迦様が判断してかたったものです。
この説法はお釈迦と共に修行してきた五人のビクが相手です、何を学んできたかはお釈迦様も五人のビクもお互いに熟知している筈です、上記のウパニシャットのことを五人のビクなら頭に浮かべながら聞いているのをお釈迦様は感じていると思われます、そこで下記のような教えを言外に含ませて話しています。
永久不滅のアートマンは、死なない、つまり変化しない、という無常とは反対の教え
永久不滅のアートマン・ブラフマンは、苦境もなく、一切をえる、思い通りになる、という苦とは反対の教え
上記のウパニシャットの教えを直接否定するのではなく、それとなく否定しています。続いて無常・苦・無我について聞いている人が、自分で考え、納得できるように導く説法が続きます。


 無常・苦・無我については燃焼経が参考になります、火の喩をもう一度参照して次のお釈迦様と五人のビクのやりとりを味わってください。


「色は常であるか、無常であるか」
『尊き師よ、無常であります』、
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」 
「尊き師よ、苦であります」
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを、
このように見るのは正しいか
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
「尊き師よ、それは正しくありません。」

無常とは、常ではないという意味で、永久不変(アートマン)ではないという意味です。
楽とは永久不変・完全・満足な世界でブラフマンの世界です。人間の経験する世界は無常であり、楽の反対、すなわち苦です。苦(S.duḥkha P.dukkha)は苦しいではなく、絶えず変化する・不完全・不満足という意味で人が経験することのできる世界という意味です、意欲(kāma)・欲・煩悩の世界といってもいいです。
変化を法とする(性質)(vipariṇāmadhamma)とは、無常であるから苦であり無我である、それが理法(ことわり)であるという意味。


 転法輪転経にあるコンダンニャ尊者が発した言です
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」


vipariṇāmadhamma
「変化を法(性質)とする」


上記二つの言は全く同じ意味で、無常を意味します


ブラフマンは後の時代には「存在・意識・至福」(S.sac‐cid‐ānanda)と定義されます。存在とは永久不滅であり、意識とは存在の中に宿るきづき、至福とは何も欠けることのないものです、これがブラフマンということです。
無我とは永久不滅の変化しないアートマンではない、という意味で実質的に無常と同じことで、苦とは永久不滅の変化しない世界は楽で、その反対という意味で、常に変化するを意味する、無常ゆえに無我であり苦であるということです。


これは私のもの、とは、永久不滅のものを私とみる
これは私である、とは、永久不滅のものは私であるとみて、至福をみる
これは私の我である、とは、永久不滅のものが私(アートマン)であるとみる
 上記のことは、正しくないという意味です


要約すれば、色受想行識(五蘊)は無常であり、常に変化してやまない、ゆえに、満足をもたらすものでない、ゆえに、それらはアートマンではないということです。


「色であるものは何であれ、
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
そのすべての色を
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである」


バラモン達が不滅のもの(ブラフマン)とよぶもの
「天より上に達し、大地より下に達し、この天地両界に達し、過去・現在・未来にわたる
と、とかれるもの」
「内もなければ、外もない、粗でなく、細かくなく、影(小さい・劣る)暗闇(大きい・
優れている)、短くも長くもなく」
(ブリハットアーラスヤカ・ウパニシャット2・8・7)


上記はお釈迦様の時代より古くからあるウパニシャットという文献からの言です、ブラフマンとは、すべての空間にあり、過去・現在・未来にあり、内部・外部もなく、粗く・細く・劣り・優れ・短く・長くもない、とかたっています。


お釈迦様は、色受想行識という五蘊(人間)は、過去・未来・現在のものでも、内部・外部のものでも、粗い、細かいものでも、劣った・優れた、遠い、近いものでもないと語る、これはブラフマンとは、すべての空間にあり、過去・現在・未来にあり、内部・外部もなく、粗く・細く・劣り・優れ・短く・長くもないとするウパニシャットに対するお釈迦様の答えです、つまり色受想行識という五蘊(人間)は永久不滅の変化しないブラフマンではないとかたり、


これは私のものではない
これは私ではない
これは私の我(アートマン)ではない
 あるがままに正しい智慧によって見るべきである


要約すれば、色受想行識(五蘊)は無常であり、常に変化してやまない、ゆえに、満足をもたらすものでない、ゆえに、それらはブラフマンではないということです。


 そして、あるがままに正しい智慧で見るべきであると続き、解脱をかたります。


「色をも厭離し、受をも厭離し、想をも厭離し、行をも厭離し、識をも厭離する。
厭離のゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。
解脱すれば、「解脱した」という智慧が生じる
『生存は尽きた。修業は完成した。なすべきことはなした、もはや生まれることはない』と知るのである」と


幸あるお方がこれを説かれると、五人のビクは、幸ある方の教説を心から喜んで受け入れました。この教説が説かれてるうちに、五人のビクは心に執着がなくなり、
根源的な欲(āsavehi cittāni)より解脱したのでした。


「彼の心に拠る欲望がすべて除き去られたとき、死すべき人は不死となり、この世において人間はブラフマンに達する」
(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・5)
同じくウパニシャットからの引用で、この詩は執着がない人はブラフマンと一体となり永遠の命(不死)を得るいう詩


下記は解脱について、お釈迦様の解脱の経験を語っている経典です。


お釈迦様は、「三つの明知(P. tisso vijjā)」を得ることで解脱したという経典(テーラガーター他)の記載があり、菩提樹の下で、初夜に「第一の明知」を、中夜に「第二の明知」を、後夜に「第三の明知」を得た、と説かれる(中部36 マハーサッチャカ経)
この「三つの明知」という言は、お釈迦様以前のインドでは「三ヴェーダ」を意味し、それは当時の主要な宗教の聖典、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジャル・ヴェーダを指していた。
仏教ではこの「三つの明知」を言い換えて、第一の明知を宿命知(過去世を見通す知)、第二の明知を死生知(来世を見極める知)、第三の明知を漏尽(āsava-kkhaya)知(煩悩を滅する知)であり「四聖諦」を悟ることと、されている。
「三つの明知」という言は、初夜(夜の初め)に第一の明知を現象は原因があると知る(縁起の順観を知る)、第二の明知を現象は消滅していくと知る(縁起の逆観を知る)、第三の明知を悪魔の軍勢を粉砕している、あたかも太陽が天空を輝かすように(縁起の順観・逆観を知り悟りをえる)ということでもある(ウダーナ1・1~3参照)つまり縁起を悟ることです。
城邑経(相応部12・65)というお経では、お釈迦様が十支縁起を悟ったことを回想し、森をさまよう人が古の人が歩んだ道を見つけ、その道を進んで古い街を見つけるように。過去仏たちが歩んだ古の道を自分も見つけ十支縁起を悟ったと説き、この古い道とは「八聖道」であると説く、さらに、それぞれの縁起支の原因(集)、停止(滅)、道を悟りと説き、縁起を四聖諦と組み合わせて説く。
正覚経(相応部35・13~14)では内六処・外六処の十二処から、味楽経(相応部35・13)では五蘊から、離れることを知って、苦が生じることを知り、悟ったとあります。
「四聖諦」の「苦しみの滅」は「涅槃」「解脱」「厭う」と同義語です。四聖諦が説かれている経典である転法輪転教を見てください


苦しみ(dukkhaṁ)というのは、それは、要するに五取蘊苦とかたり。


苦しみの出現(dukkhasamudayaṁ)というのは、渇愛(taṇhā)から起こるとかたる


苦しみの滅 (dukkhanirodhaṁ) というのは、渇愛(taṇhā)から離れることとかたり
ここで渇愛とは、欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛を意味している


苦しみの滅へと導く道 (dukkhanirodhagāminī)というのは、八聖道とかたる


ここで四聖諦の「苦しみの滅」は智慧により、実現されたということは見逃してはなりません、そして五人のお弟子さん達に四聖諦を説いた後に、お釈迦様ご自身が四聖諦を「三転十二行相」という具体的な方法で四聖諦を悟ることによって解脱に達したと語っています。


十二縁起の逆観
無明が滅するから行か滅する。行が滅するから識か滅する。識が滅するから名色か滅する。
名色が滅するから六処か滅する。六処が滅するから触か滅する。触が滅するから受か滅する。受が滅するから渇愛か滅する。渇愛が滅するから執着か滅する。執着が滅するから有か滅する。有が滅するから生か滅する。生が滅するから愁悲苦憂悩か滅する。
このように、一切の苦の集まりが、滅する


線を引いた所を見てください、渇愛(taṇhā)が滅するから、結果をたどると、一切の苦の集まりが(kevalassa dukkhakkhandhassa)が滅するとあり、渇愛の原因をたどっていくと無明があります、無明とは「知らない」つまり無知のことで、十二支縁起とは、「無知が滅する」から始まり「渇愛が滅する」を経て「苦しみの滅」に至る「道」を表し、その具体的な方法が此縁起と呼ばれる下記の教えです。
これがあるからあれがある、これが生ずるからあれが生ずる。
これがないからあれがない、これが滅するからあれが滅する。



四聖諦を悟ることで解脱をえるという構造は、無知を第一原因とする十二支縁起と同じ構造です、つまり、渇愛の滅は智慧により、悟りにより実現されるということです。
四聖諦を悟ることで解脱に達したお釈迦様は



「わたしの心の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は                     存在しない」と。(転法輪転教)


このように宣言されます、お釈迦様の「生」とは「さらなる再生は存在しない生」です


「さらなる再生は存在しない生」とはなにか、四聖諦で「苦しみの滅」の同義語「解脱」(S.mokṣa,vimukti,P.mokkha,vimutti)は、とらわれから解放されるという意味で、仏典では「生存のとらわれから全て滅した」(P.parikkhiṇabhavasaṃyojana)という言がよく出てきます。
 お釈迦様が「三つの明知」を得ることで解脱したとありますが、「第三の明知」では四聖諦を悟ることにより解放されると説く。


Tassa me evaṃ jānato evaṃ passato
私は、このように知り、このように見る
kāmāsavāpi cittaṃ vimuccittha, bhavāsavāpi cittaṃ vimuccittha, avijjāsavāpi cittaṃ vimuccittha.
快楽の影響からも心が解脱し、生存の影響からも心が解脱し、無知の影響からも心が解脱した。
Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ ahosi.
解脱すれば、「解脱した」という慧が生じる
‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ, kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’ti abbhaññāsiṃ.

「生存は尽きた。修業は完成した。なすべきことはなした、もはや生まれることはない」と知った
(中部36 マハーサッチャカ経)
上記の経典では、快楽、生存、無知から解脱したとあります、これは十二支縁起の無明、生存(有)、執着(快楽は執着の一つ)に含まれる、つまり解脱とは縁起を滅することです。


 お釈迦様以前のインドの主流の考えでは不死となる、言い換えれば、輪廻から主体たるアートマン(真の自己)を解放してブラフマンと一体となることが解脱と説いていたが、仏教では快楽、生存、無知からの心の解放が解脱と説いている。
 そして上記の経典では、「自己」ではなく、無常である「心」(citta)が解脱すると説くことで、真の自己が輪廻から解放されるという意味は消えて、自己が作られ続ける心というしくみからの解放という意味に解脱という言を、言い換えてヴェーダを学んだ人々に説いています。

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