ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章6ピリンダヴァッチャの経(現代語訳・解説)


 3.6 ピリンダヴァッチャの経(26)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられた。
ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)で、尊者ピリンダヴァッチャが修行者たちのことを「下民」という言葉で呼びかけた、大勢の修行者はお釈迦様のおられるところに行きお釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。
かたわらに坐った、修行者たちは、お釈迦様に、こう申し上げた。
 「尊き方よ、尊者ピリンダヴァッチャがビクのことを、『下民』という言葉で呼びかけま
  す」
お釈迦様は、修行者に語りかけました。
 「ビクよ、ピリンダヴァッチャビクに、『友よ、ピリンダヴァッチャよ、教師があなたを
 呼んでいます』と伝えてください」
 「尊き方よ、わかりました」
その修行者は、お釈迦様に従って、尊者ピリンダヴァッチャのいるところに、行き尊者ピリンダヴァッチャに、こう伝えたのです。
「友よ、ピリンダヴァッチャよ、教師があなたを呼んでいます」
「友よ、わかりました」
 尊者ピリンダヴァッチャは、その修行者に答えて、お釈迦様のおられるところに行き、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。
かたわらに坐った、尊者ピリンダヴァッチャに、お釈迦様は、こう語りかけました。
 「ヴァッチャよ、あなたはビクのことを、「下民」という言葉で呼びかけたのですか」
 「尊き方よ、そのとおりです」
お釈迦様は、尊者ピリンダヴァッチャの前世を観察し修行者たちに語りかけました。
 「ビクちよ、ヴァッチャビクに腹を立ててはいけません、ビクたちよ、ヴァッチャは、怒
  りをもってビクたちのことを『下民』という言葉で呼びかけているのではありません。
  ビクたちよ、ヴァッチャビクの五百の生が、途切れることなくバラモンの家系に生まれ
  たのです。「下民」という言葉は、長夜にわたり呼びかけたものです。それで、このヴ
  ァッチャはビクのことを「下民」という言葉で呼びかけたのです」
  そのときお釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


偽り住みつかず、くらべる心なく
貪りなく、私のものなく、欲なく
怒りをこえて、解脱に達している
その形態なら、バラモンでありサマナでありビクである
(30)
       以上が第六の経となる。


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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Yamhi na māyā vasatī na māno,
偽り住みつかず、くらべる心なく
Yo vītalobho amamo nirāso;
貪りなく、私のものなく、欲なく
Paṇunnakodho abhinibbutatto,
怒りをこえて、解脱に達している
So brāhmaṇo so samaṇo sa bhikkhū”ti.
その形態なら、バラモンでありサマナでありビクである



解 説


Yamhi na māyā vasatī na māno,
偽り住みつかず、くらべる心なく
 *Yamhī na māyā 偽(いつは)りある所なく、
 *vasatī na māno 慢(くらべる感情)を着ない、
Yo vītalobho amamo nirāso;
貪りなく、私のものなく、欲なく
 *vītalobho 貪りがない、
 *amamo 「私、私のもの」という気持ちがない、
 *nirāso 何にも執着しない、
Paṇunnakodho abhinibbutatto,
怒りをこえて、解脱に達している
 *Panuṇṇakodho 怒りをこえている、
 *abhinibbutatto 解脱に達している。
So brāhmaṇo so samaṇo sa bhikkhū
その形態なら、バラモンでありサマナでありビクである
 *その状態だったら、その人こそ比丘であり、バラモンであり、聖者である。



言葉と感情
 事実を伝えるときでも、人の言葉に自我意識(私)が隠れていて、結局、感情を言葉にして表現することが多く、感想とは、自分の主観を述べることです。しかし、聖者の言葉には感情が入っていないので、世間が決めている感情を組み込んだ意味で理解することはできません。
 知識を与える講義も、研究レポートの発表も、情報を伝える時も、話す自分(自我)がいるので、異論を立てられたら機嫌が悪くなります。ですから感想・意見を言う、噂をする、日常会話を行う時には、「私」が表に出ます。自分の存在をアピールするのです。
自我の言葉の衝動は、無明、怒り、慢、恨み、憎しみ、嫉妬、欲などなどです。話す度に自我の煩悩が掻き回され増えます。
 聖者の心に煩悩がないから、聖者の言葉に在るのは本来の意味だけです。しかし、聖者が語る言葉に一般人が決めた共通的な意味もあります。(感情も含む)。従って、このストーリーの様に、聖者の言葉が誤解されることもあります。



言葉について
 なぜ私は名づけるのでしょうか、ラベルを貼るのでしょうか。物に、感情にラベルを貼るのは、これは花、これは樹などと述べるため、感情を伝えるため、あるいは自分自身をその感情と同一化、(例えば「私は怒っている」と言う)するためです
 例えば、私はバラと名をつけて「それはバラ」と言い、理解したと思い込み、分類して、その花の全体と内容と美しさを理解したと思い込むのです。
しかし私が名づけなければ、初めて触れるように注意深い意識で近づき、以前には全く見たことがなかったかのように見るのです。
ラベルを貼らなければ、物であれ。人であれ感情であれ出来事であれ、それぞれを見なければならないなら、私はそれとの関係を、それに引き続く行為との関係を考慮します
そこで私が名づけるときの中心はなんでしょうか、選択し、ラベルを貼り、用語化し、判断している中心は、明らかに記憶です、それは同一視され、囲まれた感情の連続で、それは現在に生きている過去です。その中心が名をつけ、ラベルを貼り、記憶することを通して、現代に生きています。
この中心である記憶は名前やラベル、同一化を与えられてきた様々な経験の記憶です、その中心から名づけられた、ラベルを貼られた経験とともに、経験した記憶の快楽や苦痛などの感情に従って、受容と拒絶、肯定や否定の判断があります。つまりこの中心とは言葉です。
この中心に名づけがないなら、中心があるでしょうか、すなわち言葉を使わないなら考えることはできるでしょうか、思考は言語化を通して生まれます、あるいは言語化が考えることに反応しはじめます、中心は言語化された快楽と苦痛の無数の経験の記憶です。
私にとっては、言葉や言葉が表す感情が重要になり、「怒り」という言葉を発するとき、私は感情を表す言葉そのものになり、その感情がなんであるかを知りません。その言葉がなにを意味するのか、その言葉の背後の意味は調べません。ラベルと同一化し、それを押し付けられているなら、前に進むことは出来ませんが。もしラベルが問題ではなく、問題がラベルの背後にあるものなら尋ねることができます
言葉やラベルがなければ中心はありません、私が感情や考えにラベルを与えるのを理解すれば、ラベルはなくなり、私はありません、なんでもないものとしての存在感があるだけです。
ラベルを貼らないなら、あらゆる感情が生じるとき注視しなければなりません、ラベルを貼るとき感情はラベルと異なるでしょうか、それともがラベルが感情を呼び起こすのでしょうか? ラベルを貼るとき多くは感情を強めます。感情と名づけは瞬間です、もしも感情と名づけの間に間隙があるなら、そのとき感情と名づけが異なっているか見出すことが出来ますし、そのときは名づけることなしに、感情を取り扱うことができます
私は「怒り」という言葉が感情そのものよりも、重要になっていることを見出さなければなりません、そのためには、感情と名づけの間に間隙がなければなりません。
私が感情に名づけないなら、心は静かではないでしょうか、心が静かなら生じる感情を即座に処理できます、感情が継続するのは、私が感情に名づけてそれによって強化するときのみです、それらは中心に蓄えられ、私はそこから、それらを強化したり伝えたりするためにラベルを貼ります。
 心が、言葉や過去の経験で構成されていないとき静かです、この静かな状態に達するためには、いままで説明したすべてを経なければならないのです。それは膨大な仕事です。それはすべてを経験すること、心がどのように働くかをみること、それによって、名づけていないその点に到達すること、この全体の過程が本当の瞑想です。
 心が本当に静かであるとき、測ることのできないものが生じることが可能です。どのような他の過程も、真の実在を求める探求も、単に自己投影で自家製に過ぎず、実態がありません。しかしこの過程は骨が折れ、心が内面で起こっている、あらゆるものに、絶えず気づいていなければならないことを意味しています、どのような判断や正当性もありえません。実験し、より深く、自分自身を詳しく調べる、その結果、中心の多くの層が解消されます。心がどのように言葉に依存するか、言葉がどのように記憶を刺激したり、過去の死んだ経験を生き返らせてそれに命を与えるのか見守ることができます。この見守る過程の中では、心は未来や過去の中に生きています、それゆえ心理学的にも神経学的にも、言葉が並外れた重要性をもちます。
 このことは言葉からは学べません、他の人からも学べません、それは真実ではないからです、しかし、それを、自分自身で体験できます、行為の中の自分自身を見守ることや、自分自身が考えるのを見守ることや、どのように自分自身がかんがえるのか、感情が起きるたびにどのように素早く名づけているのか見ることができます、そして全体の過程を見守ることが、心をその中心から解放します。そのとき心は静かになり解放されます。


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伝 記


 ピリンダヴァッチャ尊者は、テーラガーターにこのような言を残しています。
 仏の教え、尊い教示をただ「それ」とだけ呼んでいたことが伝えられています。


九 それは来たり、それは去らなかった。それはわたしにとっては悪しき忠告ではなかった。人々がわかち持っていることがらのうちで長上のものが、やってきた。

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