ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第3章1行為の報いから生じるものの経(現代語訳・解説)
3 ナンダの章
3.1 行為の報いから生じるものの経(21)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられた。ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園(祇園精舎)で、ある修行者が、お釈迦様から遠く離れていないところで瞑想姿を組んで身体を真っすぐに立てて前世の業から生じる強くて荒々しく辛い苦痛を耐え忍びながら、きづきと正しく知ることで、打ちのめされることなく坐っていたのです。
お釈迦様は、その修行者が遠く離れていないところで、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて、前世の業から生じる、強くて荒々しく辛い苦痛を耐え忍びながら、きづきと正しく知ることで、打ちのめされることなく坐っているのを見ました。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
すべての行為(業)を捨てたビクにとって
かつて作ったちりを払い落としている人にとって
私なく心が揺らがない人にとって
他人を呼び寄せる必要はない(25)
以上が第一の経となる。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Sabbakammajahassa bhikkhuno,
全ての業を捨てたビクにとって
Dhunamānassa pure kataṃ rajaṃ;
つくられた塵を払い落とし
Amamassa ṭhitassa tādino,
我執なく安立した人とって、
Attho natthi janaṃ lapetave”ti.
人と話す必要はない
解 説
Sabbakammajahassa bhikkhuno,
すべての行為(業)を捨てたビクにとって
*Sabbakammajahassa すべての業を捨てた
*bhikkhuno, ビクにとっては
Dhunamānassa pure kataṃ rajaṃ;
かつて作ったちりを払い落としている人にとって
*Dhunamānassa
*攻撃を受けている、揺れる、激震するという意味です。激しく揺れている。
*pure kataṃ かつて、どこかで
*rajaṃ; 塵(ちり)・煩悩・悪行為の結果、
*今の肉体は過去世の業の果報です。覚りに達しても、現在の身体で涅槃に入るまでなく
てはならないのです。命をつかさどる業が身体の管理と死を管理します。
Amamassa ṭhitassa tādino,
私なく心が揺らがない人にとって
*Amamassa
*私、私の、私になどの一人称の気持ちはなくなっているのです。
(mama 私の、私のもの、我所)
*覚者には「私」という錯覚がありません。常に「私」はいないのです
*ṭhitassa 止まっている。(ṭhita止住の、停住の)
*輪廻転生という激流を渡っている。こころは安穏に達している。(私たちは止まって
いない。ずーっと流れて、走っている)
*tādino,
*揺らがないという意味です。
*世界は、損・得、名誉・不名誉、批難・褒め、苦・楽という八種類の状況が回転する
のです。俗人のこころはこれらに触れて激しく揺らぐ、悩む。(私たちの心はいつで
も荒波が揺らいでいる)
*「自分がいない」と発見している人には関係ないことです。
Attho natthi janaṃ lapetave
他人を呼び寄せる必要はない
*人と話す必要はない。⇒ 他人を呼び寄せる必要はない。
*業の果報で病気になったら、(それは)普通の治療では治らない。一般人は(病気が)
一番悩む問題です。
*業の働きを知っている覚者は、激しい痛みを落ち着いて耐えるのです。
*俗人は新たな業(善行為)でいくらか置き換えますが、聖者の行為は業にならないので
す。ですから、(聖者は)「治療を頼む」と他人に言う必要はない(人を呼び寄せる意
味がない)のです。