ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章10バーヒヤの経の副読本③

ウダーナ副読本


ウダーナ(自説経)1.10 バーヒヤの経の解説に代えて


Suttanipātapāḷi スッタニパーター
4.11 Kalahavivādasutta 4八なるものの章 11争 闘



 十二縁起がこのように開示されています


863
愛しいもの → 紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高慢、悪口
865 
欲 → 愛しいもの、世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と叶うこと


 十二縁起では下記に相当する
渇愛→執着→有→生→老死愁悲苦憂悩(一般的な苦しみや悲しみなど)


 縁起というのは関係性の表現方法で、862を例に取ると。
 紛争と論争→悲しみ。悲しみ→憂い。悲しみや憂い→物惜しみ。紛争と論争→くらべる心。紛争と論争→高慢。くらべる心→高慢。くらべる心と高慢→悪口。などなど
 口を動かす→悪口。悪口を考える→悪口。相手が気に入らない→悪口を考える。などなど
 相手がここにいる→相手は歩いてここに来る。相手はここに来ようと思う→歩いてくる。歩こうと思う→歩いてくる。何か食べる→歩こうと思う。などなど
 上記の様に862を見ても、無数の縁起でものごとは成り立っています。十二縁起とはお釈迦様が十二の項目を選び出して並べた教えです、その目的は、悟りをえるためです、それでは、どうしたらよいか、それは欲(無明・渇愛)を滅ぼすということだ、というのを一目で解るように、多くのお弟子さん達が解るように説いた教えです。
 お釈迦様を訪ねてきた対話者も真理を求めるバラモンです、目的は同じですから、同じ教えを説いています、ただ相手が理解しやすいように、無数の縁起の中から相手が学んできた言葉で、相手のレベルに合わせて、相手の質問に答えるという形で説いています。
 縁起の法は、解説でも触れましたが、身近な切実なところから始まる教えです。お釈迦様の教えは四聖諦でも一番身近な苦諦から始まり、悟りへの修行方法でも、身近な生活を整える戒律から始まり、瞑想でもまずは自分自身の体から始めていく、縁起の教えを理解するのなら身近なところから始めていけばよいです。



867・868
世間での快と不快 → 世間での欲、怒り・偽りの言葉・疑惑
離れることと生存 → 決めつけ


 十二縁起では下記に相当する
受→渇愛→執着


ここでは、世間的な視点で欲(渇愛)(煩悩)がどのように生じるかを説いています。


870
接触 → 快と不快
接触 ← 快と不快
接触 → 離れることと生存


 十二縁起では下記に相当する
触→受
触←受


 二項対立の原因は接触という教えです、二項対立とはどちらかを選ぶという図式ですが、これは生物としての人間は、いま目の前にあるものを食べるか、食べないか、道が右と左に分かれていれば、どちらに行くかなど、二項対立という図式は、まよいの図式であると同時に、生きる(生存)ための図式でもある為に根深いしくみです。
 お釈迦様は、接触→受という言で二項対立というしくみは感覚のことであり、この仕組みは生命が生きるためのしくみであるのだから、どこからどのように出来たのかを問うても、このしくみはアートマンによってなされているのか問うても、悟りには役に立たないと説いています。


 ここで縁起の型式つまりは、お釈迦様が智慧を使う方法を開示します。
   ①これがあるからあれがある、②これが生ずるからあれが生ずる
   ③これがないからあれがない、④これが滅するからあれが滅する
 ①は常に支え合っている因果関係、②は原因によって原因と異なる果が生まれるという連続性を示す因果関係   
 世の中の現象は、二つの側面があり、ここにある現象を、それはどうゆうことかと説明すること(例えば引力という原因が絶えずあるので、人は地面に付いている)が必要なのと、その現象が変化して違う現象になる(百年前の世界と今の世界が、だいぶ変わっているように)その、現象が違う現象になる仕組みも説明しなくてはなりません。その両方を説明するための、厳密に見るための方法です。
 ③④は①②の反対です、これは正しいと確かめるための方法です。「AがあるときBがある」、これが正しいと確かめるには、「AがないときBもない」と発見し、Bという現象の存在にAという現象が欠かせないと、確かめる、こうして、すべてのものごとを観察したお釈迦様は、一切の現象は無常であり、消えてゆくものだと発見したのです。
このようにお釈迦様が因果関係を使って、ご自分の教説を説明したのが十二縁起です。


  無明→行→識→名色→六処→触→受→渇愛→執着→有→生→老死愁悲苦憂悩
  無明←行←識←名色←六処←触←受→渇愛←執着←有←生←老死愁悲苦憂悩
 上記の十二縁起には、お釈迦様の教説のすべてがまとめて入っています、この経典の対話者にもバーヒヤにも、同じことがらを相手に合わせて、言を変えて説いています。


872
名称と形態 → 接触 → 欲求 → 私のもの → 私(我)
形   態 ← 接触 ← 欲求 ← 私のもの ← 私(我) 


 十二縁起では下記に相当する
名色→六処→触→受→渇愛→執着→有
名色←六処←触←受←渇愛←執着←有


 ここでは、生命が生じて(名色)渇愛の再生産をへて執着を作りまた生じる(生存・有)しくみを説いています。
触→受で渇愛が生じ執着が生じ業(行)が生じ生存する、輪廻のしくみです
触の原因は名色(生命が生じる)で、生存する原動力は欲・煩悩(欲求)である
生命が誕生して死んでまた生まれるサイクルを開示しています、用語は異なりますが同じことです。


874
想 → 苦と楽・形態
想 ← 苦と楽・形態


 十二縁起では下記に相当する
識→名色
識←名色


 想 (S. saṃjñā P. saññā) は、共存や完成を意味するsamと知るを意味するjñāから作られ、
識(S.Vijñāna P. Viññāna)は、分離を意味するviと知るを意味するjñāから作られた言、対になる語形で、両方とも分けて知ることを意味し、二項対立の原因であることは同じです、想は名ずける、つまり言語で知ることも意味します、最初の対話862・863が紛争と論争から悪口が起こるということを説いて、それをふまえて名色の原因は名ずけるという意味を含む想という答えを説かれたと思います。
 ウパニシャット以前からの言である名色の原因(根底)に想を求めるように説いていますが、スッタニパータ1037には、識が滅することにより、名称と形態が残りなく滅する、とあります、状況や相手により、お釈迦様は言をお使いになったということです。


 無明→行→識→名色、について、生命はどこからどのように出来たかという話です、哲学で言う存在論に当たります、毒矢の例えという教えでも解るように、言にしていないだけで、実際には865(渇愛→執着→有→生→老死愁悲苦憂悩)で語っています。
 無明というのは、お釈迦様は知らない、つまりは名づけるということにより二項対立をつくることを知らないということです、後の時代になると四聖諦を知らないなどと説明されます。
 行と識は個別化(個人となる)まえの、何らかの、ながれ、のことで、お釈迦様は毒矢の例でもわかるように言葉で直接答えていません、行と識の二つとしたのは説明のために当時の用語を使ってアートマンのような存在はなくても認識はできるということ(無我)を説明するために、なんらかの、ながれ、を二つにして説明したと思われます
 名色は、なんらかの、ながれから、分離して個人がはじまったということを当時の用語で説明したようにおもいます。



バーヒヤ経との関連


 スッタニパーターの争闘経では、接触を原因として、快と不快・離れると生存が生じると説かれています、これはアートマンは認識には必ずしも必要ないという事を意味します、接触という感覚・認識作用である二項対立から、欲求か生じ、私(我)が生じると説かれ、虚構の名称というしくみが説かれ対話は進みます、バーヒヤ経ではこの接触を原因とした虚構の名称というしくみをお釈迦様は


バーヒヤさん、それでは、このように、あなたは学ぶがよい。
見られたものの中には、見られたものしかない
聞かれたものの中には、聞かれたものしかない
思われたものの中には、思われたものしかない
識られたものの中には、識られたものしかない


このことを、あなたは学びなさい。
バーヒヤさん、あなたにとって、
見られたものの中には、見られたものしかない
聞かれたものの中には、聞かれたものしかない
思われたものの中には、思われたものしかない
識られたものの中には、識られたものしかない


バーヒヤさん、それですから、


あなたは、それと(見られ・聞かれ・思われ・識られた)ともにはいないのです
バーヒヤさん、
あなたは、それと(見られ・聞かれ・思われ・識られた)ともにいないのですから、
バーヒヤさん、あなたは、そこに(対象の世界)いないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこに(対象の世界)いないのですから、
あなたは、ここにもいない、向こうにもいない、あるいはそのあいだにもいないのです。
これこそは、苦の終わりです


という説法で解き明かしています、争闘経では862~873の対話にあたります。


 見られ・聞かれ・思われ・認識した、というのは五蘊と同じことというのはバーヒヤ経で説明しています、五蘊は十二処と詳細は省きますが同じことを説明する言です、五蘊での説明はバーヒヤ経でしていますので十二処で説明します。


 バラモンであるバーヒヤさんの学んだウパニシャットでは、お釈迦様が解き明かしたような眼・耳・鼻・舌・身・意(感覚器官・あなたの中の世界)とその対象としての色・声・香・味・触・法(外の世界)が接触して感覚が起こるという教えでなく、アートマンが魂のようなものに宿り感覚を司るとされ、アートマンとブラフマンが同一と理解することが悟り、というのが常識でした、お釈迦様の説法というのは最初は大まかに説いて順々に詳細に説いていきます、
では「感覚しかない」つぎに、
では「あなたの中も感覚しかない」と説きます、仏教の言葉では十二処となります、一切と表現し、六処→触→受 とも表現します、
では「あなたの中の感覚を司るものなど認識できない」なぜなら、あなたは「あなたの中(中の世界・眼・耳・鼻・舌・身・意)」にもいないから、
では「あなたの外の世界に対する感覚を司るものなど認識できない」なぜなら、あなたは「外の世界(色・声・香・味・触・法)」にもいないのだから、
と説きます
①~④は、十二処という二項対立のしくみ・苦の生じるしくみの説明です、その原動力が欲・煩悩であることや、真理への道筋は、バーヒヤさんには説明不要とお釈迦様は見て取ったように思います。認識できないアートマンとブラフマンはなくても生存できるという「しくみ」もここでは開示しています。


では、無我と悟りを解き明かしています。
(詳しくは次のページをご覧ください)


争闘経では
 想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない
このように行えば形態は、生存から離れます
上記のように無常・苦と悟りを解き明かしています。


すでに説明したように、無常・苦・無我は同じことを言葉で三方面から表現したにすぎません、


バーヒヤ経では、簡潔にお釈迦様は説いているので、争闘経での対話で、そしてウダーナ1・1~1・3で説かれた縁起の法(しくみ)をどのように説いたかの具体例として紛争と論争経を解説してみました。





ウダーナ 1章10 バーヒヤの経の中心部分を図式化した表です


バーヒヤさん、あなたは、そこにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないのですから、
バーヒヤさん、あなたは、ここにもいない、向こうにもいない、あるいはそのあいだにもいないのです


①<あなたは、ここにも>いない
②<あなたは、向こうにも>いない
③<あなたは、ここにも>いない<あなたは、向こうにも>いないということはない
④<あなたは、ここにも>いない<あなたは、向こうにも>いない


あなたというものはどこにもいない
どこにもいないということは苦しみの終了です


 これは中道の答え方です
あなたというも のは、見られ・聞かれ・思われ・識られたものの中にはいないのです


 この言葉をみれば、あなた(私)というものが本当はない、見られ・聞かれ・思われ・識られたものが、私を生み、その私が私をさらに生んでいく、「私を私が生む」という構造が本当はない、と言っているのが解ると思います


「私を私がさらに生んでいく」という構造は、「想いはそれを原因としてさらに思いを生んでいく」という構造と同じです


①は、「私」はいない
②は、「私が生む」はいない
③は、「私」はいないと「私が生む」はいないが両方いる
④は、「私」はいないと「私が生む」はいないの両方いない


①②は「私」も「私が生む」もいない  
③は「私」も「私が生む」も両方いるという意味で、間違いなので言葉にはしません
④は「私」も「私が生む」両方いない


私はどこにもいない、無我を見て取ることが、苦しみの終了これが、涅槃だとお釈迦様は答えています




スッタニパーター 4 八なるものの章11 


想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、
想いがないことでなく、想いを離れた者でもない


<想いは>ない
<想うことは>ない
<想いは>ないと<想うことは>ないのではない
<想いは>ないと<想うことは>ない
このように行えば、形態などは、離れます
虚構の名称(papañcasaṅkhā)は、想いより、生ずるからです


「想いを想うこと」を「私を私が生む」と読み替れば解りやすいです


①「想い」がない
②「想うこと」がない
③「想い」と「想うこと」両方がないことではない
④「想い」と「想うこと」両方がない


 お釈迦様はサンニャー(想)を識(心)と同義語、つまり、<心のはたらき>の意味でつかう場合があり、対話相手により<心のはたらき>、現代の言葉では感覚を意味する言葉としてつかう、スッタニパータの対話者の質問での「苦と楽」は<心のはたらき>の意味と考えてよい
 「形態・苦と楽」この言葉は「名色」と同義語と考えていい、つまり「人間(あなた)」と同義語と思われます
 虚構の名称を離れるには想(サンニャー)から虚構が発生するのを行う(理解する)こと
「実体を離れる」この言葉は解脱つまり「苦しみの終了」と同義です


「想(サンニャー)から虚構の名称が発生するのを行う」ことは
「あなたというものはどこにもいなのを理解する」と同義です




1章10 バーヒヤの経の現代語版


見たら、見ただけ、で止まりなさい
聞いたら、聞いた、ところで止まりなさい
嗅いだら、味わったら、そこで止まりなさい
なにか思考が生まれたら、すぐに止まりなさい
そうするとあなたは、こちらにもいませんし、そちらにもいませんし、真ん中にもいませせん
あなたというものはどこにもいないのです
どこにもいないということは苦しみの終了です



 スッタニパータ 4.11 紛争と論争の現代語版
想う人でなく、想いを離れて想う人でなく、想わない人でなく、想いを超越した人でない
想うことを止め(実体を離れる)たら、あなたはどこにもいない
なぜなら、想いから、あなた(虚構)は生じるから
あなたが、どこにもいないということは苦しみの終了です




 バーヒヤ経 解脱への道の直訳
Tasmātiha  te,    bāhiya,   evaṃ   sikkhitabbaṃ
それでは  あなたは  バーヒヤ このように 学ぶべきです
diṭṭhe      diṭṭhamattaṃ    bhavissati,
見えたものには  見えたもののみが  あるであろう
Sute        sutamattaṃ     bhavissati,
聞いたものには  聞いたもののみが  あるであろう
Mute        mutamattaṃ     bhavissati,
思われたものには 思われたもののみが あるであろう
viññāte       viññātamattaṃ    bhavissatī’ti.
識られたものには、識られたもののみが  あるであろう
Evañhi    te,    bāhiya,   sikkhitabbaṃ.
そのように あなたは  バーヒヤ  学ぶべきです
Yato kho    te,       bāhiya,      
なぜなら あなたにとって バーヒヤ
diṭṭhe           diṭṭhamattaṃ       bhavissati,
見えたものには  見えたもののみが   あるであろう
Sute        sutamattaṃ     bhavissati,
聞いたものには  聞いたもののみが   あるであろう
Mute        mutamattaṃ     bhavissati,
思われたものには 思われたもののみが  あるであろう
viññāte       viññātamattaṃ    bhavissatī’ti.
識られたものには、識られたもののみが  あるであろう
tato     tvaṃ,  
それゆえに あなたは
bāhiya,     na tena       yato   tvaṃ,
バーヒヤ  それとともにはいない なぜなら  あなたは
bāhiya,    na tena      tato     tvaṃ,
バーヒヤ  それとともにはいない それゆえに   あなたは
bāhiya,    na tattha       yato     tvaṃ,
バーヒヤ  そこにはいない    なぜなら   あなたは
bāhiya,     na tattha,      tato     tvaṃ,
バーヒヤ  そこにはいない    それゆえに  あなたは
bāhiya,    nevidha     na huraṃ    na ubhayamantarena.
バーヒヤ  この世になく  あの世になく   二つの中間になく。
Esevanto   dukkhassā
これが    苦の終わり

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