ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章10バーヒヤの経の副読本②

 この副読本は、正田大観、石飛道子、佐々木奘堂、お三方の著作に多くを頼っています、深くお礼申し上げます。
 間違いがありましたら副読本製作者の理解力の不足によるものです。


ウダーナ副読本


ウダーナ(自説経)1.10 バーヒヤの経の解説に代えて


スッタニパータ 4.11争 闘  経典のまとめと解説


862
紛争と論争は、どこから起こるか
悲しみや憂い、とともにある、物惜しみ、
くらべる心と高慢、とともにある、悪口は、どこから起こるか
863
愛しいものから、紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高慢、悪口が起こる
物惜しみに結びついて、紛争と論争が起こる
論争が生じたとき、悪口が起こる


   要約すれば
→はある  ←はない の関係を表します


愛しいもの → 紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高慢、悪口
物惜しみ  → 紛争と論争
論  争  → 悪  口


 この時代のバラモンの生活は世間を離れて真理を求める求道者というのは少数で、世間に住み祭式の実行で富を求める知識階級として生きる世俗的なバラモンが多数だったようですが、対話者は、お釈迦様と対等に話ができる人格者で真摯に真理を求めるバラモンです。
 このような状況で対話者の眼に映るバラモンの日常はどのようだったか想像してみてください、富を巡る紛争や、理屈だけの互に対立する自分だけが正しいとする論争が日常になっていたと想像されます。まずは日常になっている醜い出来事である、紛争と論争は、どこから起こるかと問い、このような自己中心的な利己的な世俗の人々と同じ在り方が日常になっている心を代表して、物惜しみは、どこから起こるかと問い、ともにある、悲しみや憂いはどこから起こるかと問う、ここで通常、悲しみや憂いは同情を寄せる感情ですが、物惜しみは、同情を抱く感情ではないのに同列で問うているのは、論争に敗れて嘆き悲しんでいるバラモンの姿を問うているからです、お釈迦様が無駄な論争するなと戒めているのは、悲しみや憂いが生じて、人々を分断させるだけだからです、一般的な悲しみや憂いというより、バラモンの日常から生じた本当に身近な実感を問うています。
 お釈迦様はバラモンの日常からの身近な実感に丁寧に答えます
愛しいもの(Piya)は、解りやすい素朴な日常的な欲のこと、この愛しいものから、紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高慢、悪口などが起こる
紛争は一般的な争い、論争は言い争い、これは自己中心的な物惜しみから起こる
言い争いから悪口が起こる
 このようにバラモンである対話者の目の前の問に一つ一つ答えています


864
世間における愛しいものは、どこから生じるか
世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と叶うことは、どこから生じるか
865
欲から、愛しいもの、世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と叶うことが生ずる


 要約すれば


 欲 → 愛しいもの、世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と叶うこと


 次にバラモンの身近な、いわばバラモンの社会の枠から離れて、世間という一般的な人々の住まう社会に場所を移してお釈迦様に問うていきます。
世間における愛しいものは、ここでお釈迦様の答えた、愛しいものに、わざわざ世間という言葉を付け足して、問うています、即物的な欲ということです。
どこから起こるか、ではなく、どこから生じるかと、問うています、起こるは、物事が新しく生じるを意味し、生じるは、原因となっているという意味です(詳しくは言葉の説明参照)
 世間にはびこる貪欲は、際限なく貪る世間に一般的に見られる、現代でもお馴染みの欲のこと、物欲、名誉欲など、人間の欲という意味です
来世について人がいだく願望と叶うことは、この時代に人々の最大の願望は、よき来世に生まれることです、よき来世とは死んでから人間に生まれるというより天界に生まれ変わり永遠の命を得るということで、この生まれ変わりに対する願望と叶うこと、いわば、この時代の見果てぬ欲という意味で、現代では希望と達成、成功願望と言ってもいいものです、しかし、貪欲と同格で扱われていることに注意が必要です、現代世間では希望と達成はポジティブシンキングと名付けられて、その本質が見えにくくなっている状況は、この時代も同じです、対話者は争いを引き起こす愛しいものや、世間では本質が見えにくくなっている際限のない見果てぬ欲は、どこから生じるか、対話者は世間を見ながら問うています。
お釈迦様は一言、欲(chanda)から生ずると答えています、欲とは、動物が生き残るのに最低限の食料で満足するのと好対照な際限のない人間の欲のことで、知性の入った欲でもあり、わがもの、わがものでない、という知性が作り出す観念にとらわれた欲でもあります。


 ことばの説明
起こる(pahūta) 生ぜられたものを意味し、自然発生的なものでなく、人間自身によって生ぜられた作為の産物であることを表す
生じた(nidānā) 原因のこと、原因と結果は相互に依存しあう他律的なあり方で、仮に存在している(名づけられた)だけのこと 


866 
①世間での欲は、どこから生じるか
②決めつけは、どこから起こるか
③怒り・偽りの言葉・疑惑とは
④サマナによって説かれた法とは
867
①世間での快と不快に依って、欲が生ずる 
②もろもろの形態などに、離れることと生存を見て決めつける
868
③これらの法(怒り・偽りの言葉・疑惑)も、二つ(快と不快の)があるときにある
④疑惑あるなら智の道に学ぶのがよい、サマナ(お釈迦様)は知った後で説かれた


 要約すれば


世間での快と不快 → 世間での欲、怒り・偽りの言葉・疑惑
離れることと生存 → 決めつけ
   二項対立


 ここでは三つの偈にそれぞれ番号を振って四つに分けています、一見判り難いのですが、三つの質問で、①は前の偈に出てくる、欲に世間と付け足して、世間一般の欲とはと問い、②③④は、862・863偈の続きで、バラモン社会とは本来真理を語り合う筈なのですが論争で、自分の説が正しいと互いに言い張ること、つまりは決めつけることにより怒り・偽りの言葉・疑惑が対話者の目の前で飛び交っている様を、お釈迦様に、なぜこのようなことが有るのかと問い、サマナという修行者によって説かれた法とは、本来の教えとはなにかという問いです
 お釈迦様は一つ一つ丁寧に答えていますが、中身は二つの答えです、一つは五感からの刺激により、世間での快と不快から、欲、怒り・偽りの言葉・疑惑が生じる。もう一つは頭の中(心)からの刺激により、離れることと生存から、決めつけが起こると説きます。そして本来の教えとはお釈迦様の説いた教えと答えます。
詳しくは①~④に分けて解説しましたのでご覧ください


 ①、一般の人々の欲は、これ好き欲しいという感情と、これ嫌い要らないという感情から依存して起こるという意味です。快と不快という感情は生きるという欲、私を守り生きていく為の反応(感情)で、二項対立と同じ図式です
快と不快(sāta asāta) 快(aāta)とは世間での日常的な快楽、欲望の充足のことで、不快(asāta)とはその反対
世間での欲と言はお釈迦様の欲という言を受けて864・865の続きであるということを表し、依ってという言が④にかかってくることを表しています。


 ②、この偈では、世間の人々は、人間の体だけを見て、生きている、死んでいるのを
決めつけるという意味で、二項対立で、決めつける、という意味があります。
そして、お釈迦様の時代のバラモンは一般的に、生きているというのは身体に意識がありその意識にアートマン(自我)が宿っている、死んでいるとは身体に意識がなくアートマンが宿っていないというのが常識的なことがらであり、このアートマンという主体があるから感覚があり認識があるというのが常識でした。
形態(rūpa) 物質的な形態、かたち、という意味があり、この偈では身体を言う
離れる(Vibhava)  ない、天界(永遠の世界)をえるという意味がある。
生存(bhava) ある、天界を離れていない、つまり、この世で生きている・存在しているというという意味。なお、bhavaには、生きとし生けるもの、輪廻するもの、なども意味し、生きものの生存状態を指すこともある。
元々は生まれるための条件、環境が揃っている次元を意味し、生命が存在する条件や場所のことを表し、存在、生きている、生まれるなどを表すようになる。
 ③、「二つ」という言葉は、論争の中にある、正しいか・正しくない、つまりに二項対立の図式を表しています
 ここで867①の依って(ūpanissāya)は縁・喩えという意味で、相互に依存する、二項対立に依存するということです。
同じく867①の世間での快と不快に依って欲がある、は人間社会のありさまを表しています、
これは868③怒り・偽りの言葉・疑惑(これらの法)も、快と不快(二つ)があるときにある、につながる。
ここで862・863、864・865を見てください、(これらの法)(二つ)とは何を指すか
(これらの法)とは、欲
(二つ)とは、紛争と論争、悲しみや憂い、くらべる心と高慢、願望と叶うこと


   要約すれば
(二つ)二項対立 → (これらの法)欲、怒り・偽りの言葉・疑惑、決めつけ


ここから④につながります


 ④、依って(ūpanissāya)とは論証(推論)に使う言で、サマナとは修行者を指し、仏教のみでなく、他の考えをもつ修行者も含まれます、ここではサマナによって説かれた法とは、欲から脱していない教えを指すが、お釈迦様は他の教えを正面切って断罪するようなことはしないで言及せずに、お釈迦様が知った後説かれた、つまりは、世間のありさま(ことわり)を、よくよく観察してから、中道・縁起などやお釈迦様が説かれた(見つけた)正しい論証と修行が、智の道と説いています。
疑惑は、現代語では質問・迷いというニアンスです、智の道とは論争(二項対立)しない道です。


869
快と不快は、どこから生じるのか
何がないとき、快と不快は、ないのか
離れることと生存とは、どういうことか
それは、どこから生じるか
870
接触があるから、快と不快がある
接触がないから、快と不快がない
離れることと生存とは、どういうことか
それは、ここから(接触)から生じる


 要約すれば
接触 → 快 と 不 快
接触 ← 快 と 不 快
接触 → 離れることと生存


 対話者は問い続けます、快と不快はどこから生じるのか、離れることと生存はどこから生じるか、お釈迦様の答えは、接触です。二項対立という、まよいのメカニズムは接触から生じるという意味です。
 接触(Phassa) 感覚のこと、眼に触れる・耳に触れる・鼻に触れる・舌に触れる・身体に触れる、という五感と、頭の中の概念として触れるという六種類の触れる(感覚)があります、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると感覚が生まれるということです。
ここでの接触は、生きる行為そのものの接触ではなく、感覚を意味することには注意が必要です。


 生存(Bhava)とは条件や場所を指し示す言で、お釈迦様の時代はバラモンにとって生きているとは、魂のようなものが体に宿っているというのが前提で、これは永久不滅の実体であるアートマンが魂のようなものに宿り、アートマンがあるから(原因として)快と不快という認識ができるというのが常識の時代に、お釈迦様はアートマンと答えずに接触と答えます、次の871で対話者は、接触は、快と不快に依って生じた欲(私のもの)は、私(我)はどこから生じるか、アートマンではないのなら認識(接触・感覚)とはどのようなもので、接触という二項対立からどうすれば離れるのかと問うていきます。


 868の④で説かれた、お釈迦様の方法が開示されています
接触(触)があるから、快と不快(受)がある
接触(触)がないから、快と不快(受)がない
お釈迦様の縁起の法(形式)が上記の様に開示されています、ここで詳しくは記載しませんが、お釈迦様の重要な智の道です。


871
①世間での接触は、どこから生じるのか、
②私のものは、どこから生じるのか、
③何がないとき、私(我)はないのか、
④何が生存から離れたとき、接触は接触しないのか
872
①名称と形態を縁として、接触は起こる
②欲求が生じたとき、私のものがある、
③欲求がないとき、私(我)はない
④形態が生存から離れたとき、接触は接触しない


871と872は省略されて語られているので詳しく書きます
871①世間での接触は、どこから生じるか/  872①名称と形態を縁として接触は生じる
                     872①接触によって、 欲求がある
871②私のものは、どこから生じるのか /    872②欲求が生じたとき、私のものがある
                    872②私のものがあるから、私(我)がある
871③何がないとき、私(我)はないのか/ 872③欲求がないとき、私のものはない
872③私のものがないから、私(我)はない
871④何が生存から離れたとき、接触は接触しないのか / 
                    872④接触がないとき、欲求はない
872④形態が離れたとき、接触は接触しない


872①接触によって、 欲求があるという関係は省略されていますが、772洞窟(身体)にとらわれ迷わせるものの中に沈没している人とあり、その具体例が773で欲求によって生じた生存の快にとらわれているとあり、これは身体で行われている接触を原因として欲求がある、と推し量られます。


要約すれば
①名称と形態 → 接触 → 欲求
④形   態 ← 接触 ← 欲求
②欲求 → 私のもの → 私(我)
③欲求 ← 私のもの ← 私(我)
①④は五感で生じる心の流れを、②④は心で生じる心の流れを表しています
 五感で外の世界と接触して欲求が生じて、この欲求から生じた欲求を仏教では「欲」と呼びます
 心は外からの刺激と心にある過去の記憶(行)からも欲求を生じさせ、この欲求が私のもの(執着)を生じ、私(我)を生じさせる、この心で生じる欲を仏教では「煩悩」(kilesa汚れ)と呼びます。
 接触が生じる原因は名称と形態であり、接触によって欲求があり、欲求が、私のもの、を生じさせ、私(我)があるとなりこの私(我)があることが、煩悩があるということです。
 ここで確認します
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつ
sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである
上記の二つの文は、あるがままの姿とは無常という、ひとつつづきの流れであり、変化をつづけていく流れであるということです、このひとつづきの流れを、概念(言葉)で断片化(切り刻み)し、固定化し、静的化(流れを止めて)し、静的な断片とし、実態化し対象化したのが名称と形態です。わたしたちは、ないかあるの、どちらかでしか、ものごとを見ようとしない、そうした断片的で固定的な、ものの見方できめつける、この認識のあり方が、名称と形態という世界のあり方を立ち上げる、そして二項対立(ないかあるか)という世界のあり方は接触が原因であり、接触があるときには欲求があります、これは、名称と形態はすでに、実態化、対象化という汚れを受けているということを表します、同時に汚れを受けた形態と名称を縁として立ち上がる接触(感覚作用)は、いわば純粋(汚れていない・清浄)感覚ではなく、二項対立という対象認識の上に虚構された汚れ(煩悩)たものであることを意味しています。
ここで注意が必要なのは、汚れた名称と形態の裏側にある純粋な清浄世界があるという、純粋世界を対象とする神秘的な直感があるという事ではなく、いまここにある、あるがままをあるがままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ・如実知見)ということです。つまり、「あるがままをあるがままに知り見ている」と素朴に信じている私たちの「あるがままの姿をあるがままに知り見る」という意味です。
接触は静的に分断化され断片化されたものとなり、接触する方(眼耳鼻舌身意)もされる方(色声香味触法)もともに静的に断片化された、するものとされるものという二項対立という図式である、あり方が接触から出現する。一方、私(我)の原因は、私のもの(執着)であるという、あり方が説かれ、私のものの原因が欲求と説かれ、欲求という心的作用が煩悩のそもそもの発端だと説かれ、欲求の原因は生命活動の一環である接触(感覚・感じること)であるということです。ここで欲求というものが存在するのでない、自己と切り離された他者や他の物としての対象化され断片化されたものとして実態化してはなりません、実態としてのものではなく単なる、あり方であり、相互に依存し合うというあり方で虚構されたものでしかなく、それを実態としてものと錯覚しているだけということは注意が必要です。
 欲求(Icchā) 根源的、潜在的な心的作用的な欲
 私のもの(pariggaha) 捉えられる、つかむ、から派生した抽象名詞、心的作用としての執着と作用の対象(=執着されたもの)も意味します
 私(我)(mamatta) mama(わがもの)から派生した抽象名詞


873
どのように行った者の形態は、生存から離れるのか
楽は、苦は、どのようにして、生存から離れるのか


 対話者は形態から離れるにはどうすればいいか、接触という二項対立から離れるにはどうすればいいか、と問います。
 形態とは断片化され実態化された認識の型枠という意味でこの形態は、どう行えば離れるのかという問で、この行いというのは、形態と同じように断片化され実態化された言葉を使う論争と紛争から起こった知識である悩み苦しみではない、今このときに悩み苦しむこの私のその悩み苦しみも、接触を原因とする二項対立が原因と説かれ、ここで、はじめて現実の行いだと認識され、その悩み苦しみの、あり方は、どうすれば離れるかという問です。離れるとは完全に消滅するという意味ではなく、質的に変容されること、つまり名と形(形態)を与えられた、言葉を換えれば断片化された実態という、あり方を離れることを意味します。
 苦と楽は、感覚的な楽と感覚的な苦を指し、まよいの生存を立ち上げる二項対立の図式のひとつで、苦を嫌い楽を願う心のあり方を虚構します、これは快と不快という二項対立が感覚器官の接触から生じると言う教えを受けての問です


 日本語では解りにくいのでパーリ語を解説します
苦(dukha)通常は(S.duḥkha P. dukkha)と表記するがサンスクリットでは (dukha)も
表記する
楽(Sukha)サンスクリット、パーリ同じ
 dukhaはduとkhaという言葉を組み合わせ、sukhaはsuとkhaを組み合わせた言葉
duは悪い、難 khaは感覚器官という意味  suはよい、しやすいkhaは感覚器官 
楽と苦は明確に感覚器官の二項対立を指している。


 869では、快と不快(sāta asāta)と問うている、これは世間での日常的な二項対立を指している、楽は、苦はという問いは871・872の問答を対話者がお釈迦様の教えを十分理解した上での問です。


 いずれも錯覚しているだけのことなのです、そしてこの実態(もの)という、あり方から離れるにはどうすればいいかと問うています。


 断片化され実態化された、他者や他の者は存在しないが、すべては無常という、ひとつづきの流れなので、断片化されず実態化されない、あり方としては存在する、これが二項対立という図式でない中道というあり方であり、正見(Sammā diṭṭhi)です。




874
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない
このように行えば形態は、生存から離れます、それはなぜか
虚構の名称(概念)は、想いにもとづいて、生ずるからです


 虚構の名称は想いから生ずるから、このように行えば形態は生存から離れる、それは、
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない、と説きます。
お釈迦様は輪廻を引き起こすのは認知器官の働きで経験は入力されるデータに意味を与える、つまり、名づけるということでこれは、ひとつづきの流れであるものを、ことばで断片化し固定し静的化し実態化し対象化することで、この過程の根底にある概念を司るのが想と説いています
 バラモンである対話者の学んできたウェーダの智慧では、あるものを知ることと、その名称を知ることは同じことで、サンスクリット語の名称は、その本性に与えられた固有の名で例えば、サンスクリット語の牛と現実の牛は不可分である、これはサンスクリット語は現実の写真であるという考えです。アートマンやブラフマンなどの永久不滅の実体などは確認できず真理は無常という、たえまなく流れるひとつづきの流れなら、断片化し固定し静的化し実態化し対象化する言語は、現実の写真となるのか。お釈迦様の根本的な問いかけです。
sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである
Saññā, anattā.
想は無我である。
上記は無我相経からの引用で、詳しくは無我相応経の説明を参照してください


 想は、絶えず変化し(無常)、不満足であり(苦)、永久不滅の本質ではない(無我)、これは同じことわりを三方向から表現していて相伴うと説いています。ここで注意するのは。外部にある概念化されたものと、実際に外部にあるものの双方に当てはまり、外部にあるものは、まったく何もないとは言ってないことです。これは、本来いかなる言語も現実を十分には把握(表現)することはできないという事を表しています、私達は認識する時は言語によって分節化(断片化し固定し静的化し実態化し対象化)して、あらゆる感覚入力データを言語によって分節化(二項対立化)を得ない限り、知られ得るものとはならない、そして言語を介してしか認識を表現できないにもかかわらず、言語は固定化し、くり返すだけの知識であり、実態を表示する言語としての名詞に人を誤りに導く特質があると説く、私達の知りえることは言語活動の一部分ではあるが言語の本性によって確実な知識はえられないので概念化というそのものが不正確さをともなう、このことを虚構と呼んでいる、虚構によって名づけられたものを、虚構の名称と呼ぶ、これは概念のことです。


 想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない、とは、想の正しいあり方を表した言で、これは真の意味(そのもの・写真)を表さない言を重ねるという行いによって無常という、ひとつづきの流れであり、変化をつづけるものであり、あるがままの正しい想は存在すると、想のあり方を表す。
同時に
 ①「想い」と「想うこと」両方がある
 ②「想うこと」がない
 ③「想い」がない
 ④「想い」と「想うこと」両方がない
 構造的には、この四通りのことが起こらないという意味で、想いを操作することで、身体が生存から離れるということです。想いはそれを原因としてさらに思いを生んでいくので「想いを想う」という構造になります。
この構造は、すべてを否定して、言葉では表現できないということがらを表現しています。
 身体の中(形態・物質など)で起こる接触が欲求(渇愛)をつくり、私(我)をつくると、お釈迦様は教えています、この欲求をつくるのも、私(我)をつくるのも、虚構の名称で、それは想(saññā)が原因です、だから想を理解すればいい、これが、悟りということです


 言語では表現できないという事は、ある経験を一度もしたことがない人に、その経験を明確には出来ないということですが、喩えを使えば伝わる部分もあります、目覚めること、自らをともに燃え続けてきた貪・瞋・痴の火が消え去った感覚など、また、悟りを経験した後に、どのように感じたかを振り返って言うことは可能です、例えばマラソンで優勝した瞬間にその感覚を表現するのは難しいとしても振り返って言葉にするのは可能です、至福と言ったり、インドの気候では涼しく快適と言ってみたりなど、もう一つ伝統がそのことを完全ではなくても語っている場合がある、人が経験したことを客観的な内容があると感じた場合に表現することは可能になる、お釈迦様は悟りを表現するのに、あるがままをあるがままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ・如実知見)という言を用います、この言を用いて通常の経験・真実の姿を語り、私達に示してくれます、その上でお釈迦様は、悟りの世界は対極にあると語っています、具体的には、悟りとは、彼岸に渡る、つまり通常の世界の対極にあると表現し、現れるのではなくある、とも表現しています。
 874の偈では、想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない、という言で無常(無常・苦・無我)という私たちの世界を表現して、二項対立というあり方(生存)から離れる(彼岸に渡る)、なぜなら虚構の名称は想から生ずると、あるがままをあるがままに知り見れば、その対極に渡れるから、これがお釈迦様の答えです。




875
わたしたちが、尋ねたことを、あなたは語ってくれました
他のものについて、お尋ねます、それを説いてください。
賢者たちは、ここにヤッカ(魂)の清浄があると説きます
なぜこれだけが、最上の清浄と説くのですか(常住論)
あるいはまだ、他のものもあると説くのですか


 バラモンである対話者は、魂は永久不滅であるという考えが(常住論)最上であると説いている人々がいるがと問い続けて、他のものもあるかと問います
 ここでの魂とはお釈迦様の時代では、永久不滅のアートマンが相当すると思われます、他のもの(añña)とは、他者・他の物・他の教えのことですが、他のものによっては悟りには到達できなという意味もある重要な言です。


876
賢者たちは、ここにヤッカ(魂)の清浄があると説きます
これだけが、最高の清浄と説いています
ある人たちは、ある説を説く
生存の依り所という残りがないのをよいと説きます(断滅論)


 お釈迦様は、死んだらすべて終わりとする考えもある(断滅論)と答えます



877 
これらを、依存ある者と知って
聖者は依存あることを知って、観察者として知って、論争をしない
賢者は、もろもろの生存を行うことがありません


 これらとは、常住論・断滅論者
依存ある者とは、他者・他の物・他の教えに依存している者
観察者(vimaṃsī)とは、あるがままの姿をあるがままに観察する者であること、観察者であることが理想の境地で、有(常住論)でもなく、無(断滅論)でもない、中道というあり方である
もろもろの生存とは、輪廻する生存(生命)



虚構の名称(papañcasaṅkhā)について


 ここでは、虚構の名称(papañcasaṅkhā)という言をキーワードにして、角度を変えて説明してみます。
 通常ではpapañcaは戯諭(けろん)と訳され、原義としては、拡大、拡散する、そこから分化、多様化という意味があり、本来は分別されないものを境界づけて、そこに多様性を持ち込み、拡散、複雑化させるはたらきを意味する、そこからも妄想、幻想、迷執という含みをもつ、戯れの無益な論争、という意味も含まれます、つまりは、断片化、固定化、静的化して、実態化する、しくみ、のことです。


 862~868とは、論争は世間(loka)での快・不快、離れることと生存、という「二項対立」が原因という問答です。
 お釈迦様の世間(loka)とは、六の感覚器官である、眼・耳・鼻・舌・身・意と、六の感覚器官に入る対象である、色・声・香・味・触・法のことです。「認知されうるもの全て」、ということです、十二処、十八界、五蘊、一切、世界、全て同じことを指しています、五蘊、十二処、十八界は認識の内容そのもので、分類の仕方が異なるだけです。
この時点では質問者は、世界というのは「認知されうるもの全て」ではなく一般的に言われている、世界・神羅万象・宇宙という意味で問答している。


869~870では、快・不快、離れることと生存、という「二項対立」は接触が原因と説いています。


871~872では、接触という「二項対立」は欲求の原因であり、この欲求から私(我)が生じると説いています。
つまりは、接触という「二項対立」(快・不快、離れることと生存)が欲求を生み、私(我)を生み、「二項対立」は「認知されうるもの全て」の原因であり、名称と形態という「二項対立」が接触の原因であり、形態(身体)が接触の原因であると説いています。
この時点では質問者は、世間(世界)というのは「認知されうるもの全て」であると理解しています。


873では、「認知されうるもの全て」(苦と楽、離れることと生存)という「二項対立」から作られた世界から、離れるにはどうしたらよいか、と質問者が問います。
生存から離れるとは、今生きているこの場で悟れるかということです。


874では、感覚の入力によって生じる認知は「ありのままに」しておくなら、ひとつづきの流れとして継続しているだけのことである、つまり無常という現象を、「想いを想うことなく、想いを離れて思うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない」という言で語り、そこには虚構の名称(papañcasaṅkhā)という実態化する、しくみ、が機能していないときは、つまりは認知が機能しているときのみ「ある・ない」という「二項対立」が機能しているのであり「二項対立」が機能していないなら、イメージを形成し、世間(loka)は立ち上がらない、このことを見て取るのが、あるがままをあるがままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ・如実知見)ということです。


「ある・ない」という「二項対立」がなければ、離れることと生存、決めつけ、論争もない。
「ある・ない」という「二項対立」がなければ、苦と楽、世間での快と不快、世間での欲もなくなり
「二項対立」が機能しているのは接触があるときであり、この接触が欲求を立ち上げる。そして欲求が、私のものという煩悩を立ち上げ、私(我)を立ち上げると説きます。
ではなぜ、あるがままでないイメージを形成し、世間を立ち上げるのか、それは、十二処、十八界、五蘊という要素に、例えば、眼に接触した、美しい色(美しい異性など)に、欲望を抱き、執着して、実態化するからです。


世間の人々は864~865の問答でも解るように、欲chando(渇愛taṇhāと同義)から、外の世界のものを、好んだり(貪loba)嫌ったり(瞋dosa)という二項対立もついてまわり、なにより、そのことは自覚しない(痴moha)(無明avijjā)のです。
そして871~872では、欲求Icchā(渇愛taṇhāと同義)によって、世間という像(イメージ)(形態と名称)を結ぶレンズとして機能するのが、私(我)mamatta(我attāと同義)という仮像で、五蘊、十二処、十八界、もそれらが「私の」認知だと捕らえられたときにはじめて統合の中心を得て世間を形成する要素として機能します。
眼・耳・鼻・舌・身・意と色・声・香・味・触・法が触れて生ずる、個々の認知を、それは私のものである、それは私であり、それは私(我)であると捕らえられることがなければそれらは、レンズの機能をする私(我)という統合の中心を失って、ただ、ひとつづきの流れある、ただの現象がそこには、あるがままにあるだけです。
このように渇愛・煩悩・我執によってイメージを形成し、現象を実態化し対象化する、はたらきのことを虚構の名称(papañcasaṅkhā)といいます。


873~874は、欲望によって、様々なイメージが私(我)という像を結んだのが世間であり、それは虚構の名称というはたらきが機能しているときに限り存在するが、その、はたらき(形態をつくるはたらき)がなくなれば、生存から離れると説いています。


873の問は、生存から離れる(vibhoti)とは、離れることと生存(Vibhavaṃ bhava存在・非存在)から離れるという意味で、生存とは生きること、すなわち、苦(dukkha)のこと。
苦・楽とは、「認知されうるもの全て」であり、世間で生きること、すなわち、苦(dukkha)のことを二項対立の図式を含む言で表現した言です。
つまりは、苦(dukkha)という二項対立により虚構の名称というしくみによって仮像された(汚れた)像を離れるには、どのように、行なえば(sametassa)よいかという問です。
874は、世間というのは実際には虚構の名称によって作り出された仮の象に過ぎないのであるから、それが欲望する私(我)の認知とは独立に事実として「ある・ない」「苦・楽」「存在・非存在」などは見当違いのものごとである、862~868の問答は当時のバラモンが論争していた「常恒・常恒でない」「有限・無限」というような二項対立(ウダーナ6-4~6-6参照)も同様でそんなものは答えようがないというのがお釈迦様の答えで、二項対立というのは虚構の名称が作っているのだから、認知が我執を伴っている限り、世間(世界)は生成され続けるのだから、二項対立から我執から離れて虚構の名称が働かなくなる、別な言い方では、はたらく場所である身体(形態)から離れる、これがお釈迦様の答えです。


875~877は、常駐諭・断滅諭、という二項対立では、依存ある、つまり渇愛・煩悩・我執があるのだから、悟ってはいないということです。


866・868の④の問答の内容についても触れておきます。サマナによって説かれた法とは、智の道という、お釈迦様の説かれた法のこととあります、これは二項対立しない道である、中道のことです、つまりは八正道のこと、要するに悟りへの実践の道です。
(八正道については仏教副読本で、お釈迦様ご自身の説明を記載してありますので参照してください)

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