ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章10 バーヒヤの経の副読本①(バーヒヤの経の解説に代えて)

 この副読本は、正田大観、石飛道子、佐々木奘堂、お三方の著作に多くを頼っています、深くお礼申し上げます。
なお、間違いがありましたら副読本製作者の理解力の不足によるものです。




ウダーナ副読本


ウダーナ(自説経)1.10 バーヒヤの経の解説に代えて


Suttanipātapāḷi スッタニパーター
4.11 Kalahavivādasutta 4八なるものの章 11争 闘



 バーヒヤ経では、簡潔にお釈迦様は説いているので、争闘経での対話で、そしてウダーナ1-1~1-3で説かれた縁起の法(しくみ)をどのように説いたかの具体例として争闘経を解説してみました。
 争闘というお経は、物語のように対話が進んでいきます、この副読本も物語を読むようにして読み進めていただければ幸いです。


はじめに、
①争闘経の原語であるパーリ語と日本語訳で経典を記載し、


②次に解説と続く、経典には、それぞれの詩に番号が振ってあります、これは中村元博士の翻訳したスッタニパータの番号です、解説ではこの番号ごとに詩を解り易くまとめてから、要点を取り出し、次に解説文を記載しました。


③最後に十二縁起との関連、バーヒヤ経との関連を記載しました、ウダーナ(自説経)1-10 バーヒヤを理解する、なにかのヒントになれば幸いです。


今回は①~③に分けて公開していきます



Suttanipātapāḷi スッタニパーター
4.11 Kalahavivādasutta 4八なるものの章 11争 闘


862〔対話者が尋ねた〕
“Kutopahūtā kalahā vivādā,
紛争と論争は、どこから起こるのですか、
Paridevasokā sahamaccharā ca;
悲しみや憂いとともにある物惜しみなどは、
Mānātimānā sahapesuṇā ca,
くらべる心と高慢とともにある悪口などは、
Kutopahūtā te tadiṅgha brūhi” (1)
これらは、どこから起こるのか、説いてください(1)


863〔お釈迦様は答えた〕
“Piyappahūtā kalahā vivādā,
愛しいものから、紛争と論争は、
Paridevasokā sahamaccharā ca;
悲しみや憂いとともにある物惜しみなどは、
Mānātimānā sahapesuṇā ca,
くらべる心と高慢、悪口などは、起こります
Maccherayuttā kalahā vivādā;
物惜しみに結びついて、紛争と論争は起こります
Vivādajātesu ca pesuṇāni”.(2)
論争が生まれたとき、そこには悪口が起こるのです(2)
 
 
864〔対話者が尋ねた〕
“Piyā su lokasmiṃ kutonidānā,
世間における愛しいものは、どこから生じるのですか
Ye cāpi lobhā vicaranti loke;
さらには、世間にはびこる貪欲は
Āsā ca niṭṭhā ca kutonidānā,
来世ついて人がいだく、願望と叶うことは、
Ye samparāyāya narassa honti” (3)
どこから生じるのですか(3)


865〔お釈迦様は答えた〕
“Chandānidānāni piyāni loke,
欲から、世間での愛しいものや
Ye cāpi lobhā vicaranti loke;
世間にはびこる貪欲は、生じます
Āsā ca niṭṭhā ca itonidānā,
来世ついて人がいだく願望と叶うことも
Ye samparāyāya narassa honti”.(4)
これ(欲)から、生じます(4)


866〔対話者が尋ねた〕
“Chando nu lokasmiṃ kutonidāno,
世間での欲は、どこから生じるのですか
Vinicchayā cāpi kutopahūtā;
決めつけは、どこから起こるのですか
Kodho mosavajjañca kathaṃkathā ca,
怒り、偽りの言葉と、疑惑、それと
Ye vāpi dhammā samaṇena vuttā” (5)
サマナによって説かれた法(ことがら)とは(5)


867〔お釈迦様は答えた〕
Sātaṃ asātanti yamāhu loke,
世間で人々が言うところの
Tam ūpanissāya pahoti chando;
快と不快に依って、欲は生じます
Rūpesu disvā vibhavaṃ bhavañca,
もろもろの形態などに、離れることと生存を見て
Vinicchayaṃ kubbati jantu loke. (6)
世間の人は決めつける(6)


868 Kodho mosavajjañca kathaṃkathā ca,
怒り、偽りの言葉と、疑惑も、
Etepi dhammā dvayameva sante;
これらの法も、二つがあるときにあります
Kathaṃkathī ñāṇapathāya sikkhe,
疑惑あるなら、智の道に学ぶのがよい
Ñatvā pavuttā samaṇena dhammā” (7)
これらの法は、サマナによって知って説かれた(7)



869〔対話者が尋ねた〕
“Sātaṃ asātañca kutonidānā,
快と不快は、どこから生じるのですか
Kismiṃ asante na bhavanti hete;
何がないとき、これらのものは、ないのですか
Vibhavaṃ bhavañcāpi yametamatthaṃ,
離れることと生存の意味するところは、
Etaṃ me pabrūhi yatonidānaṃ” (8)
それはどこから生じるのかを、わたしに説いてください(8)


 870〔お釈迦様は答えた〕。
“Phassanidānaṃ sātaṃ asātaṃ,
接触から、快と不快があります
Phasse asante na bhavanti hete;
接触がないとき、これらはないのです
Vibhavaṃ bhavañcāpi yametamatthaṃ,
離れることと生存の意味するところとは、
Etaṃ te pabrūmi itonidānaṃ” (9)
それは、ここから生じると、あなたに説きます(9)



871〔対話者が尋ねた〕
“Phasso nu lokasmi kutonidāno,
世間での接触は、どこから生じたのですか。
Pariggahā cāpi kutopahūtā;
私のものは、どこから起こるのですか
Kismiṃ asante na mamattamatthi,
何がないとき、私(我)はないのですか
Kismiṃ vibhūte na phusanti phassā” (10)
何が生存から離れるとき、接触は、接触しないのですか(10) 


872〔お釈迦様は答えた〕
“Nāmañca rūpañca paṭicca phasso,
名称(名)と形態(色)を、縁として接触がある
Icchānidānāni pariggahāni;
欲求が生じたとき、私のものがある、
Icchāyasantyā na mamattamatthi,
欲求がないとき、私(我)はありません
Rūpe vibhūte na phusanti phassā” (11)
形態が、生存から離れたとき、接触は、接触しません(11)



873〔対話者が尋ねた〕
Kathaṃ sametassa vibhoti rūpaṃ,
どのように行えば形態は、生存から離れるのですか。
Sukhaṃ dukhañcāpi kathaṃ vibhoti;
楽は、苦は、どのようにして、生存から離れるのですか。
Etaṃ me pabrūhi yathā vibhoti,
このことを、離れること、そのさまを、わたしに説いてください
Taṃ jāniyāmāti me mano ahu” (12)
それを、知りたいと、わたしは思っていました(12)


874〔お釈迦様は答えた〕
“Na saññasaññī na visaññasaññī,
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく
Nopi asaññī na vibhūtasaññī;
想いがないことでなく、想いを離れた者でもない
Evaṃ sametassa vibhoti rūpaṃ,
このように行えば、形態は生存から離れます
Saññānidānā hi papañcasaṅkhā”.(13)
虚構の名称(概念)は、想いから、生ずるからです(13)



875〔対話者が尋ねた〕
“Yaṃ taṃ apucchimha akittayī no,
わたしたちが、尋ねたことを、あなたは語ってくれました
Aññaṃ taṃ pucchāma tadiṅgha brūhi;
他のものについて、お尋ねます、それを説いてください。
Ettāvataggaṃ nu vadanti heke,
なぜこれだけが、最上の清浄と説くのですか
Yakkhassa suddhiṃ idha paṇḍitāse;
賢者たちが、ここにヤッカ(魂)の清浄があると
Udāhu aññampi vadanti etto” (14)
あるいはまだ、他にあると説くのですか(14)


 876〔お釈迦様は答えた〕
“Ettāvataggampi vadanti heke,
これだけが、最高の清浄と説いています
Yakkhassa suddhiṃ idha paṇḍitāse;
賢者たちが、ここにヤッカ(魂)の清浄があると
Tesaṃ paneke samayaṃ vadanti,
ある人たちは、ある説を説く
Anupādisese kusalā vadānā. (15)
生存の依り所という残りがないのをよいと説きます(15)


 877
Ete ca ñatvā upanissitāti,
これらを依存ある者と知って、
Ñatvā munī nissaye so vimaṃsī
聖者は依存あることを知って、観察者として知って
Ñatvā vimutto na vivādameti,
論争をすることはない
Bhavābhavāya na sameti dhīro”ti. (16)
賢者は、もろもろの生存を行うことがありません(16)

×

非ログインユーザーとして返信する