ウダーナ ~ ベスチ・オブ・仏教 第1章9結髪者たちの経 (現代語訳・解説)
1.9 結髪者たちの経(9)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はガヤーに住んでおられた。
ガヤーシーサの大岩で、大勢の結髪者が寒い冬の夜な夜な、雪の降る時分のアンタラッタカ(月の第八日の前後)のガヤー川に、
「これによって、清らかにあれ」と、
身を清めるために浮んだり、沈んだり浮かんでまた沈んだりして、水をかぶったり祭火を捧げたりしていた。
お釈迦様は、大勢の結髪者が寒い冬の夜な夜な、雪の降る時分のアンタラッタカのガヤー川に、
「これによって、清らかにあれ」と、
身を清めるために、浮かんだり沈んだり浮んだり沈んだりして、水をかぶったり祭火を捧げているのを見ました。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
ここで多くの人々が沐浴するが
人は水によって清らかとなるのではない
誰かに真理があり、法(真理)が備わっているなら
その人は清らであり、真のバラモンとなる(9)
以上が第九の経となる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Na udakena sucī hotī,
水で清らかにはならない
bahvettha nhāyatī jano;
多くの人々が沐浴をしても
Yamhi saccañca dhammo ca,
なぜなら、真理や法があれば
so sucī so ca brāhmaṇo’”ti.
彼は清らかであり、彼はバラモンである
解 説
Na udakena sucī hotī,
ここで多くの人々が沐浴するが
*現代のインドでも、沐浴で罪が洗い流されるという、信仰があるますが、この時代も同様です
bahvettha nhāyatī jano;
人は水によって清らかとなるのではない
*沐浴で罪が洗い流されるというのは、迷信として、お釈迦様は取り合いません
Yamhi saccañca dhammo ca,
誰かに真理があり、法(真理)が備わっているなら
*sacca は真理、dhammo は法、sacca と dhammo は同義語ですが、真理を発見してい
ることと体感していること(解脱)を意味します
so sucī so ca brāhmaṇo’”ti.
その人は清らであり、真のバラモンとなる
Saccaの真理というのは、梵我一如のような、お釈迦様の時代に広く信じられていた真理というニュアンスで、dhammoの真理は、お釈迦様の説く真理と言うニアンスがあります、つまり、Saccaとはdhammoのことであるというニアンスがあり、ストーリー部分はこの微妙な部分を語っています。
Saccaが間違っているとは、お釈迦様は語っていません、この争わない、お釈迦様の語り口を味わってください。
浮かんだり沈んだりと記載されているのは、当時のインドでは浮かぶときに、浄められ、沈むときは浄められないので、浮かぶときのみ記載すればいいのですが、沈まなければ、浮かばないのが道理なので、浮かんだり沈んだりと記載されています。
このように道理に合うようにと経典は記載されるので、現代の感覚では、まどろっこしい表現もありますが、読み進めていけば道理に合うように記載されているのもわかりますし、もともと経典は、文字にして読むものではなく、耳から聞いて、覚えるように編集してあります。くり返しは、聞いて印象に残り、暗記しやすい表現なので、多用します。文字にするときも伝えられたそのままを、記載していますので読みにくいとは思いますが、想像力を働かせて読んでみてください。