ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ベスト・オブ・仏教 第1章7アジャカラーパカの経 (現代訳・解説)

 


 1.7 アジャカラーパカの経(7)   
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様はパーヴァーに住んでおられた。
アジャカラーパカ塔廟にあるアジャカラーパカ・ヤッカの居所で、お釈迦様は真っ黒な闇夜のなか野外に坐っておられたのです。天は、ぽつぽつと雨を降らせるなか、アジャカラーパカ・ヤッカはお釈迦様に、身の毛のよだつ恐怖と驚きを起こさせようとし、お釈迦様のすぐ近くで
 「アックロー、パックロー(騒がしい悪鬼がいる)。」
 「修行者よ、俺様が、おまえをとって食うぞ」と三回騒がしく雄叫びをあげた。
   お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


バラモン(聖者)が自分という
法を乗り越えているならば、
その人はピシャーチャや
パックラなどを乗り越えている。
(7)
    以上が第七の経となる。



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ストーリーの説明


お釈迦様が Pāvā と言う町にあった ajakalāpake cetiya と言う処に滞在していました。 cetiya とは、聖地、祈りをする、敬意を抱く場所です。
ajakalāpakassa yakkhassa bhavane. とは、アジャカラーパは夜叉・鬼が宿っているところです。
暗闇の中、お釈迦様が外(そこ)に座っていて、 雨もパラパラと降ってきました。
お釈迦様を脅して恐怖感を感じさせようと鬼が企む。
突然、ものすごい大きな音が聞こえる。 ‘‘akkulo pakkulo’’
‘‘eso te, samaṇa, pisāco’’(餓鬼・幽霊がいるよ)と叫ぶ。
その時、お釈迦様が歓喜の偈を詠う, 恐怖を感じるどころか、釈尊が喜びを感じる。



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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Yadā sakesu dhammesu
その時、自分という法を乗り越え
pāragū hoti brāhmaṇo;
バラモンが彼岸にいるなら
Atha etaṃ pisācañca,
その時に、魔物やら
pakkulañcātivattatī ”ti.
悪鬼やらを、乗り越える



解 説


Yadā sakesu dhammesu
バラモン(聖者)が自分という
pāragū hoti brāhmaṇo;
 *pāragū hoti 法を知り尽くしていること
Atha etaṃ pisācañca,
その人はピシャーチャや
pakkulañcātivattatī ”ti.
パックラなどを乗り越えている。
 *pisāca は迷信によると、ゴミ・汚物を棄てるところに現れる怖い霊です。
 *pakkula は不潔、不浄、醜いという意味なので、ここで、その感情を支配する霊です。
 この二つの言葉で人間が妄想する全ての恐怖の対象を示しているのです。 怖いと感じら
 れる概念はありませんという意味になります。



  恐怖について
 何が恐怖なのでしょうか?
死が第一です。それに関連して恐怖の対象は無数に現れます。自然災害、病気、仕事・家庭の不安など以外に、先祖、怨霊、死者、餓鬼、鬼門、呪いなどの迷信的なものもあります。
何でも人に恐怖を与えますが、その理由とは?
自分が可愛いのです。自分を守りたいのです。死にたくはないのです。その気持ちに逆らうものは全て怖いのです。
sakesu dhammesu pāragū
恐怖感を乗り越えるためにとは、自分という現象を知り尽くす。という意味です


  「自分」とは
「自分」とは、色・受・想・行・識という五取蘊のことです。五蘊は常に変化して流れる。人はその事実を知らないのです。 五つの全てを一束に纏めて「変わらない自分がいる」という錯覚、幻覚を作ります。それから、その(変わらない自分という)幻覚を守ろうと苦労します。



  自分を守るならば
五蘊を区別して、それぞれ(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の流れを管理することです。 色蘊は物理法則で動くのです。受・想・行・識はこころの流れです。
悪感情、悪思考、悪衝動が現れないように気をつけるべきですが、人間にその気持ちはありません。自我の錯覚があるから自分を守ることができないのです。自分を管理できないのです。


  五蘊を知り尽くす
無常である五蘊を知り尽くすと、「自我」という錯覚が消えます。
守るべき自分がいないので「自我」が成り立たなくなり、その人を脅すことはできません。 恐怖感が起こりませんから、恐怖感を感じるためには「自分」という幻覚が必要です。



 現代日本では、自然のわずかな物音の恐怖を感じる機会は、少なくなっていますが、お釈迦様の時代では、街灯もなく夜は暗闇に閉ざされ、見えない小さな石につまずく怪我も、戸のガタガタという、わずかな物音も、大きな自然災害も、はやり病も、同じ恐怖でした、その恐怖を夜叉・鬼ピシャーチャ・パックラなどと、表現し、昔の日本では妖怪として表現していました。
現代では迷信に感じますが、身近な恐怖であり、得体のしれない大きな不安・恐怖として、日々の暮らしのなかで感じていたことを想像して、経典を味わってください。

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