ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第2章5在俗の信者の経 (現代語訳・解説)
2.5 在俗の信者の経(15)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にて、あるひとりのイッチャーナンガラ村の在俗の信者がサーヴァッティーに着いたのです。用事があってその在俗の信者は、サーヴァッティーでその用事を済ませて、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。その在俗の信者にお釈迦様は、こう話しかけた。
「あなたは長い時間かかって、ここにやってきたのですね。」
「尊き方よ、わたしは長いあいだかけて、世尊にお目にかかるため参りました。あれやこ
れやと用事があり、多忙でありまして、わたしは世尊にお目にかかることが出来ませんで
した
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
人々は人々に執着している
所有物がある人々は悩み苦しみに陥っている
真理をよく学んで見極めている人には
何一つの所有物からも楽しみは感じない(18)
以上が第五の経となる。
(日本語訳は趣旨を明確にするために順番を変えています)
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「長い時間かかって来たのですね」と声をかけた、お釈迦様
「用事があり、多忙であってお会いできませんでした」と話した、一般の信者さん
こんな会話は毎日どこかで交わされているでしょう、今日もあったかもしれませんし、
二千六百年前のお釈迦様の時代も同じというお話
次の2-6 とは対になっている内容です
世間の人々が、束縛、執着、義務、用事などで忙しいことがあることで充実感・喜びを感じるが、聖者には何一つも喜びの対象ではありません、このことを前提に読んでください。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Sukhaṃ vata tassa na hoti kiñci,
何であれ所有物から楽はない
Saṅkhātadhammassa bahussutassa;
法をよく学びよく聞く人には
Sakiñcanaṃ passa vihaññamānaṃ,
もの持つ人を見よ、害われている
Jano janasmiṃ paṭibandharūpo’’ti.
人は人の存在や関係に縛られている
解 説
Sukhaṃ vata tassa na hoti kiñci,
所有物がある人々は悩み苦しみに陥っている
Saṅkhātadhammassa bahussutassa;
真理をよく学んで見極めている人には
*Saṅkhātadhammassa
*Dhamma とは、法、真理、現象となります。
*Saṅkhāta とは、ありのままに観察して見極めていること。
*法、真理、現象を見極めていることです。
*bahussutassa
*学識があること。この場合は真理を学んでいることです。
Sakiñcanaṃ passa vihaññamānaṃ,
何一つの所有物からも楽しみは感じない
*Sakiñcanaṃ
*自分に色々用事あること。やるべきことがある。所有するものがあるという意味で使
います。
*vihaññamānaṃ
*悩んでいる、困っている、 苦しんでいる。特に精神的な悩みです。
Jano janasmiṃ paṭibandharūpo’’ti.
人々は人々に執着(愛着)している
*人は人に結ばれている。束縛されていること。
*人は無執着を嫌がり、関係を築く(世間とつながる)ことは成功だと思うという意味
この詩のポイントは、世間は結び、関係、束縛、執着などから楽しみ・幸福・成功を期待するが、それこそが悩み、苦しみの種であると知らない。気づいても無視する。ということです