ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第2章3棒の経 (現代語訳・解説)
2.3 棒の経(13)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にて、大勢の少年がサーヴァッティーとジェータ林とのあいだの道で、棒で蛇をいじめていたのです。お釈迦様は、朝早くに衣を着て鉢と衣料を手にとってサーヴァッティーに托鉢のために入り、大勢の少年が、サーヴァッティーとジェータ林との中途で、棒で蛇をいじめているのを見て
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナ唱えました
幸福を求める生きものを
棒で傷めつけて
自分の幸福を願う者が
この世を去ってのち、来世で幸福を得ることはない
幸福を求める生きものを
棒で傷めつけることなく
自分の幸福を願う者は
この世を去ってのち、来世で幸福を得る(16)
以上が第三の経となる。
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子供達の行為を見たお釈迦様は解脱の安穏を思い出したので、歓喜の偈、二つを歌ったのです。一つ目の偈で幸福から後退する道と、二つ目の偈は正道を語ります。
二つの詩が対になってつづられています
業(カルマ)のことを詩っているのですが、同時に因と果、つまり縁起の詩です
二つの偈は、意味は単純なようにみえますが、一般的な道徳と同時に真理を示す言葉でもあるので、ウダーナにお釈迦様の言葉として入れてあります。
日常のできごとを、あたりまえの道理で語っているように思えますが、ここで語ろうとしていることは、深遠な業と縁起の道理です
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Sukhakāmāni bhūtāni,
楽しみを欲する生物を
yo daṇḍena vihiṃsati;
棒で害するなら
Attano sukhamesāno,
自己の安楽を求めつつ
pecca so na labhate sukhaṃ”ti.
死後の彼は、安楽を得られない
Sukhakāmāni bhūtāni,
楽しみを欲する生物を
yo daṇḍena na hiṃsati;
棒で害さないなら
Attano sukhamesāno,
自己の安楽を求めつつ
pecca so labhate sukhaṃ”ti.
死後の彼は、安楽を得る
解 説
Sukhakāmāni bhūtāni,
幸福を求める生きものを
yo daṇḍena vihiṃsati;
棒で傷めつけて
*蛇は怖い。殺した方が良いと思い、蛇を虐めることは子供達の幸福・安全対策で、これは一つの生命の幸福のために、別な生命が不幸になるべき、という理論です
Attano sukhamesāno,
自分の幸福を願う者が
*一方的に自分の安楽を求める人のこと
*一時的な安全(生存欲・渇愛)に目が眩んでいるのです。
pecca so na labhate sukhaṃ”ti.
この世を去ってのち、来世で幸福を得ることはない。
*しかし、「与えたものを獲得する」という業の法則によって、これは「後に不幸を招
く」行為です
Sukhakāmāni bhūtāni,
幸福を求める生きものを
*生命は幸福・楽しみ・安らぎを目指して努力し、苦しみを無くす努力をしている
*しかし、幸福になったことも、安らぎに達したことも、苦を無くしたこともないので
す。
*逆に自分の努力の結果、苦が増して行くのです
*方法・道は間違っているに違いありませんが、歩む道が間違っていることに気づきませ
ん
yo daṇḍena na hiṃsati;
棒で傷めつけることなく
Attano sukhamesāno,
自分の幸福を願う者は
*慈悲により、すべての生命の幸福を願う人
pecca so labhate sukhaṃ”ti.
この世を去ってのち、来世で幸福を得る
*苦しみを乗り越えるために、お釈迦様は正道を示したのです
*しかし、理性のある人でないと理解できません。仮に理解しても、実行してみる気には
なりません。