ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第2章3棒の経 (現代語訳・解説)

 


2.3 棒の経(13)  
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にて、大勢の少年がサーヴァッティーとジェータ林とのあいだの道で、棒で蛇をいじめていたのです。お釈迦様は、朝早くに衣を着て鉢と衣料を手にとってサーヴァッティーに托鉢のために入り、大勢の少年が、サーヴァッティーとジェータ林との中途で、棒で蛇をいじめているのを見て
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナ唱えました


幸福を求める生きものを
棒で傷めつけて
自分の幸福を願う者が
この世を去ってのち、来世で幸福を得ることはない



幸福を求める生きものを
棒で傷めつけることなく
自分の幸福を願う者は
この世を去ってのち、来世で幸福を得る
(16)
     以上が第三の経となる。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 子供達の行為を見たお釈迦様は解脱の安穏を思い出したので、歓喜の偈、二つを歌ったのです。一つ目の偈で幸福から後退する道と、二つ目の偈は正道を語ります。


 二つの詩が対になってつづられています
業(カルマ)のことを詩っているのですが、同時に因と果、つまり縁起の詩です


 二つの偈は、意味は単純なようにみえますが、一般的な道徳と同時に真理を示す言葉でもあるので、ウダーナにお釈迦様の言葉として入れてあります。


 日常のできごとを、あたりまえの道理で語っているように思えますが、ここで語ろうとしていることは、深遠な業と縁起の道理です



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 


なにが書いてあるか


(直訳詩)
Sukhakāmāni bhūtāni,
楽しみを欲する生物を
yo daṇḍena vihiṃsati;
棒で害するなら
Attano sukhamesāno,
自己の安楽を求めつつ
pecca so na labhate sukhaṃ”ti.
死後の彼は、安楽を得られない


Sukhakāmāni bhūtāni,
楽しみを欲する生物を
yo daṇḍena na hiṃsati;
棒で害さないなら
Attano sukhamesāno,
自己の安楽を求めつつ
pecca so labhate sukhaṃ”ti.
死後の彼は、安楽を得る



解 説


Sukhakāmāni bhūtāni,
幸福を求める生きものを
yo daṇḍena vihiṃsati;
棒で傷めつけて
 *蛇は怖い。殺した方が良いと思い、蛇を虐めることは子供達の幸福・安全対策で、これは一つの生命の幸福のために、別な生命が不幸になるべき、という理論です
Attano sukhamesāno,
自分の幸福を願う者が
 *一方的に自分の安楽を求める人のこと
 *一時的な安全(生存欲・渇愛)に目が眩んでいるのです。
pecca so na labhate sukhaṃ”ti.
この世を去ってのち、来世で幸福を得ることはない。
 *しかし、「与えたものを獲得する」という業の法則によって、これは「後に不幸を招
  く」行為です



Sukhakāmāni bhūtāni,
幸福を求める生きものを
 *生命は幸福・楽しみ・安らぎを目指して努力し、苦しみを無くす努力をしている
 *しかし、幸福になったことも、安らぎに達したことも、苦を無くしたこともないので
  す。
 *逆に自分の努力の結果、苦が増して行くのです
 *方法・道は間違っているに違いありませんが、歩む道が間違っていることに気づきませ
  ん
yo daṇḍena na hiṃsati;
棒で傷めつけることなく
Attano sukhamesāno,
自分の幸福を願う者は
 *慈悲により、すべての生命の幸福を願う人
pecca so labhate sukhaṃ”ti.
この世を去ってのち、来世で幸福を得る
 *苦しみを乗り越えるために、お釈迦様は正道を示したのです
 *しかし、理性のある人でないと理解できません。仮に理解しても、実行してみる気には
  なりません。

×

非ログインユーザーとして返信する