ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について (9)


                7-10 ウテーナ と
  5 最上についての八つの詩句  9 マーガンディヤ  13 並ぶ応答―大篇


物語では
 語られているのは、世間の愚かさと優れた妃たちですが、宮殿の火災は放火です、詳しい物語は、別に記載しましたが、宮殿に火を放ったのは、マーガンディヤという妃の一人です。マーガンディヤはアッタカ・ヴァッカ9マーガンディヤで、父親が、お釈迦様に娘との結婚を申し込んだのですが断られ、自分の美貌を鼻にかけていた娘は、お釈迦様を恨み、その後ウターナ王の妃の一人になり、宮殿に火を放っています。


詩では
 アッタカ・ヴァッカ5最上についての八つの詩句の内容を、9マーガンディヤが具体的に展開して、13並ぶ応答―大篇とも対応し、13並ぶ応答―大篇では、世間の縛りを捨てることが説かれます。縛りという拠り所がないく、無常をみているのが覚者である。これが最上の教ということ。


   ウダーナ7-10 
Mohasam-bandhano loko,
愚かという縛りがあるのが、世間
bhabbarūpova dissati;
可能な形態があるように見えてしまう
 *思い通りになると、思ってしまうこと。
Upadhi-bandhano bālo,
愚かな人は、拠り所という、縛りがあると
tamasā parivārito;
闇に囲まれている
Sassatoriva khāyati,
常恒に思えるものは
passato natthi kiñcanan”ti.
見ているひと(覚者)にとっては、なにも(永遠・常恒には)存在しない


愚かな世間の人々は、自分の身体などは思い通りになると、思ってしまい、闇に囲まれているので、見たり、思ったりしても、拠り所という縛りがあるのもわからない。
 *見る・見解(ものの見方・diṭṭhi;)思うことがあるから、拠り所・縛りがある
覚者は、愚かな世間の人々が、変化しない(常恒)と思っているものも、変化する(無
常)とわかっている。
 *無常とは流れの別名です。(ウダーナ7-8補足参照)



   アッタカ・ヴァッカ・5最上についての八つの詩句
 読んでいけば、ウダーナ7-10の解説が、アッタカ・ヴァッカ・5と解かります。
796 Paramanti diṭṭhīsu paribbasāno,
もろもろの見解(ものの見方・哲学的説)のみにしがみついている人は
Yaduttari kurute jantu loke;
世間では、勝れているとみなすものを「最上のもの」であると考えて
Hīnāti aññe tato sabbamāha,
それよりも他はすべて「つまらないものである」と説く
 *他は、とは自分以外の見解(ものの見方・哲学的説)のこと
Tasmā vivādāni avītivatto.
それ故にかれはもろもろの論争を超えることがない
 *見解(ものの見方)は、論争を生じ、論争をこえない。
797 Yadattanī passati ānisaṃsaṃ,
かれ(=世間の思想家)は、自分の奉じていることのうちのみ利益を見
Diṭṭhe sute sīlavate mute vā;
見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思ったことについて
Tadeva so tattha samuggahāya,
それだけに執著して
Nihīnato passati sabbamaññaṃ
それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす
 *他のものとは、とは自分以外の見解(ものの見方・哲学的説)のこと
798 Taṃ vāpi ganthaṃ kusalā vadanti,
それは縛りであると語る、それだから修行者は
Yaṃ nissito passati hīnamaññaṃ;
他のものを拠り所にして、その他を劣っていると見なすならば
Tasmā hi diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā,
見たこと・学んだこと・思ったこと
Sīlabbataṃ bhikkhu na nissayeyya.
または戒律や道徳を拠り所にしてはならない
 *見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思ったことが、見解を生じさせ、論争を生む
 *修行者は、見解を拠り所にして、縛られてはならない
799 Diṭṭhimpi lokasmiṃ na kappayeyya,
世間では見解(ものの見方)を構想してはならない
Ñāṇena vā sīlavatena vāpi;
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても
Samoti attānamanūpaneyya,
自分を他人と、くらべるとか
Hīno na maññetha visesi vāpi
劣っているとか、勝れているとか考えてはならない。
 *世間では、他人とくらべることから見解が生じるので、そのように考えてはならない。
800 Attaṃ pahāya anupādiyāno,
えられたもの(自我)を捨てて、こだわらない
Ñāṇepi so nissayaṃ no karoti;
知識も拠り所にすることをしない
Sa ve viyattesu na vaggasārī,
人々は分裂しているが、徒党を組まない
Diṭṭhimpi so na pacceti kiñci.
いかなる見解(ものの見方)にたよることはない。
 *覚者は、執着せず、拠り所を持たず、縛られず、見解を持たない
801 Yassūbhayante paṇidhīdha natthi,
両極端に対し、願うことがない
Bhavābhavāya idha vā huraṃ vā;
もろもろの生存に対しても、この世についても、来世についても
Nivesanā tassa na santi keci,
かれ(覚者)には何も存在しない
Dhammesu niccheyya samuggahītaṃ
もろもろの法の中で決めて執えられている住居は、。
 *覚者は、両極端、未来・過去、を願わず。見解を拠り所にした縛り(決めて執えられて
  いる住居)もない
802 Tassīdha diṭṭhe va sute mute vā,
この世において、見たこと、学んだ(聞いた)こと、思ったことに関して
Pakappitā natthi aṇūpi saññā;
わずかな想いをも分別されることはない
Taṃ brāhmaṇaṃ diṭṭhimanādiyānaṃ,
いかなる見解(ものの見方)に執することのない、そのバラモンを
Kenīdha lokasmiṃ vikappayeyya
この世でどうして分別を起こし妄想させることができようか
 *見解は、見たこと・学んだ(聞いた)こと・思ったから生じ、虚構の名称という仕組み
  を使って、想いから生ずる(874参照)、この見解を生じさせるしくみが分別を起こし
  妄想させる。
 *虚構の名称が、無常であるのに、常恒(永遠)と愚かにも思わせている
 *覚者は、分別を起こし妄想しない
803 Na kappayanti na purekkharonti,
分別を起こし妄想をすることなく、特に重んずるということもない
Dhammāpi tesaṃ na paṭicchitāse;
もろもろの法(見解)のいずれかをも受け入れることもない
Na brāhmaṇo sīlavatena neyyo,
聖者は戒律や道徳によって導かれることもない
Pāraṅgato na pacceti tādīti.
このようなひとは、彼岸に達して、もはや還ってこない。
 *覚者は、彼岸に達して、もはや還ってこない。



   アッタカ・ヴァッカ・9マーガンディヤ
835 (ブッダは語った)、「私は、渇愛と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満たされた(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」
836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、を求めないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」
*お釈迦様に娘を嫁にと申し出て断られたので、文句を述べています
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。私はこのことを説く、ということがない。もろもろの法(教えやことば)の中で決めて執えられているものを、もろもろの見解の中で見ていながら、執することなく、よく考えて、内心の安らぎをわたくしは見た。」
 *多くの人々は、法(教えやことば)に執えられて、見解(哲学的なものの見方)をつくり論議するが、お釈迦様は、決めて執えられているものを、もろもろの見解の中で見ていながらも、執することないとあります
 *見解には執らわれず、よく考えて、内心の安らぎをわたくしは見た。ということ
 *あらゆる見解を知り、あらゆる執着にきづき、それにかかわらない人は、内心の安らぎ
 (涅槃)を見る。
 *内心の安らぎを見たひと(お釈迦様)は『私はこのことを説く』はない。見解も執着
  も、そして私(自我)も説くことはないということです。
 *ということが私にはない。ここは相手に合わせて世俗的な説明をしています
838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて分別したもろもろのことを執することなく」ということをお説きになりますが、内心の安らぎ、そのことわりを賢人達はどのように説いておられるのでしょうか?」
 *分別(pakappitā)という言葉が質問に加わります。802 この世において、見たこと、
  学んだ(聞いた)こと、思ったことに関して、微塵ほどの想いをも分別(pakappitā)
  されることはない。いかなる見解をも執することのないそのバラモンを、この世におい
  てどうして妄想分別させることができるであろうか
このような内容をマーガンディヤは告げられていたのかもしれません。
 *内心の安らぎ、とは、どのようなものですか。これがマーガンディヤの質問です。
839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』とも説かない。それらを捨て去って、執することなく、拠り所にすることなく、安らぎがあって、迷いの生存を願わないようにするとよい。」
 *内心の安らぎとは、見解(教義、学問、戒律や道徳)によっては、清らかにならない
  、それらを捨て去って、執することなく、拠り所にすることなく、安らぎがあって、迷
  いの生存を願わないようにするとよい。
840 マーガンディヤがいった、「もしも、教義、学問、知識、戒律や道徳によっても清らかになることがないと説き、また、教義、学問、知識、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない、と説くのであれば、それは、ばかばかしい法(教え)である、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、とある人々は考えます。」
 *お釈迦様は見解をもたない、マーガンディヤは他の人から教えられた見解をもつ、  ということが、どういうことか、はっきりとしてきます。
 *お釈迦様の答えは中道の表現です、
 *813教が参考になります
813教 浄められた人は、見たり学んだり考えたどんなことでも特に執著して考えることがない。他のものによって清らかになろうとは望まない。この人は、貪ることもなく、貪りを離れていることもない。
841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは見解を拠り所にして尋ね求めるものだから、執したことがらについて、ばかばかしいと思うのです。あなたはこの(内心の安らぎ)について、わずかな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)、ばかばかしいとみなすのです。
842 等しいとか、すぐれているとか、劣っている、とか考える人は、その考えで論争する。三種に関して動揺しないひとは、等しいとか、すぐれているとか、(劣っているとか)いう考えが存在しない。
843 そのバラモンはどうして真理であると言うのか。また虚妄であるといって論争するか。『等しいとか、等しくないとかいうことのなくなったひとは、論争をおこすのか。
844 家を捨てて、家なき人としてさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、欲望などを離れ、こころみないひとは、人々に対して異論を立てて談論をしないのがよい。
845 竜(ナーガ・修行完成者)はもろもろの(見解)を離れて世間を遍歴しない、それらに執して論争しない。汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、聖者は安らぎを説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思うことについて、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、またもろもろの拠り所によっても導かれない。
 *思想、宗教的行為、もろもろの拠り所も、見解(見たこと、聞いたこと、思ったこと)
  から生じています
 *見解は、虚構の名称という仕組みを使って生じる(11争 闘 参照)
847 想いを離れた人には、縛りは存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在ない。想いと見解とに執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
 *虚構の名称は、想いから生じる
 *想いを離れた人には、縛りは存在しない
 *11争 闘 参照


   アッタカ・ヴァッカ・13並ぶ応答―大篇
907(真の)バラモンは、他によって導かれるということがない。またもろもろのことがらについて断定をして執することもない。、もろもろの論争を超え出ている。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
908わたしは知っている。私は見て(passā)いる。これはそのとおりだ。という見解によって清らかになることができる、とある人々は理解している。もし、かれが見た(dakkhi)としても、それがあなたにとって、何になるのだろう。かれらは、知りうる限界を超えて、他によって清らかとなると説く。
 *見る(passā)(dakkhi)は、物理的に見たり、聞いたりだけではなく、つまり哲学的
  な理論だけでなく、瞑想体験を含めた体験のこと。
909見る(Passaṃ)人は名称と形態とを見る(dakkhi)、またそれらを見たあとで、それらを知るでしょう、望むなら、それらを見たら(passatu)よいでしょう。善き人々は、それによって清らかになるとは説かないからである
910他に習った説に執著して論ずる人は、自分の見解にとじこもっているので、清らかな境地に導くことは出来ない。自分の拠り所のみ正しいと説いて、そのことのみが、清らかな境地に導くと、見た(addasā)のである。
911 バラモンは正しく分別しても、妄想はしない。見解に流されず、知識にも頼らない。俗世の一般的見解を知っても取り合わない。他の人々はそれにとらわれている。
912 聖者はこの世でもろもろの束縛を捨て、論争があっても、集会に巻き込まれない。騒がしいなかでも安らかで、取り合うことなく、とらわれることもない。他の人々はそれにとらわれている。
913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲にはしらず、執著して論ずることもない。賢者は見解に執着せず、世のなかに汚されることなく、自分を責めることもない。
914 見たり、聞いたり、考えたりしたどんなことについてでも、覚者は一切の法に対してとらわれることなく。重荷をはなれて解放されている。かれは分別することなく、静寂なく、求めることもない。
 *智慧の開発(慧)のために分別する。静寂(定)を求めることなく。戒律(戒)のため
  に求めることない。戒・定・慧を学び終えた覚者のことだと思います。


   ウダーナ7-10 5行目
常恒に思えるものは、覚者にとっては、存在しない
 *無常を学び終えた覚者ことです


   転法輪転経より
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」と。
 *覚者の言葉です
原語のパーリ語では、同じ意味でも、微妙に異なる言葉が使われ、つながりが解りにくいので、日本語で比較した方が解りやすいと思い、あえて日本語で経典を記載しています。
 ウダーナとアッタカ・ヴァッカのパーリ語を記載しておきます
ウダーナ   アッタカ・ヴァッカ    日本語訳
upadhi       nissay           拠り所 
bandhano     ganthati          縛り 
khāyati,       muta           思える 
 見解という拠り所があれば、それが愚かという縛りになり、覚者のように無常は理解できない
 *まとめればこうなります。


 愚かという縛りとは、無明・煩悩・欲望のこと。見解という拠り所とは、他からの教えられた教えのこと。覚者とは無常、すなわち、すべては、ながれていることを、理解した者です。
 すべては、ながれているのだから、言葉さえも、ながれているのだから、他からの教え、つまりは、お釈迦様の教え(法)も、ながれて消えていくのが、覚者の世界です。
 最終的には、ながれて消えていく教えは、批判・反論しようとしても誰もできない完璧な理論でもあります、反論しようとすれば、ながれて消えていく。ですから、アッタカ・ヴァッカ「最上についての八つの詩句」なのです。そして、お釈迦様は、ご自分の完璧な教さえも無常なのだから、ながれて消えていくのだから、捨てていけと説きます、それが覚者なのだからと、ウダーナ7―10で説きます。
 このことは喩えで、お釈迦様は語っていますので記載します
お釈迦様は次のように語った。
修行者たちよ、安楽を得るために、こだわりの心から開放されるために、”筏の譬え”(いかだのたとえ)を説こう。
修行者たちよ。例えば、道行く旅人が、大河に出あったとする。
こちらの岸は危険であり、向こうの岸は安全である。しかし船も橋もない。
そこで旅人は考えた。「大きな河だ。しかし、こちらの岸は危険で向こうの岸は安全だから渡るしかない。でも、船も橋もない。とするなら、葦や木や枝を集めて筏(いかだ)を作り、手足で漕いで渡るしかない」
そこで、彼の人は、葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡った。
次に、この人は考えた。「この筏は、大変役に立った。この筏のお陰で、大河を渡ることが出来た。さあ、次に私はこの筏を担いで道を歩いて行こう」
さあ、この人は、適切な行動をとっているか? 否か?
弟子たちは「否」と言った。お釈迦様は続けた。
では、どうするのが適当か考えてみよう。
「この筏は,大変役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることが出来た。さあ、私はこの筏を河中か岸辺に置いて、道を歩いていこう」
このように行く人こそ、適切な行いをした人である。
修行者たちよ、絶対的な安楽を得るために、こだわりの心から開放されるために、私は以上のように、”筏の譬え”を説いた。どうか修行者たちよ、この譬えの意味をよく理解せよ。教えをすら捨て去るべき時がある。なおさら、誤った教えは捨て去らねばならない。
中阿含経巻第54ー200「阿梨咜経」より抜粋



  マーガンディア物語
 お釈迦様の時代の十六大国の一つクル国に、バラモンのマーガンディア夫妻が住んでいた。夫妻にはマーガンディヤーという名の娘がいた。大切に育てられ、美しい容姿の少女となった。マーガンディヤーが結婚の年齢に達すると、夫妻は婿を探した。
ある日、お釈迦様に近づき、こういった。
 「あなたは娘の夫にふさわしい方です」と話しかけた
 お釈迦様は何もいわず、黙っていらした。バラモンの夫妻が精神的に十分に成熟していたので、真理をさとるのに必要なものは、お釈迦様のひとことだけであった。
その後、バラモンとその妻はお釈迦様から、アッタカ・ヴァッカ・9マーガンディヤの説法を注意深くきいた。ふたりとも、ほどなく、アラカンに達した。
 マーガンディヤーは、その意味が理解できなかった。そして、こう考えた。
 「この比丘は、わたしとの結婚を拒み、わざとわたしの美しさも、はずかしめているわ。この比丘は、わたしのからだを糞尿にみちた汚物の容器でしかないといったんだは」
そして、いつか有力な夫に嫁いだら、お釈迦様に復讐してやる、とつぶやいたのである。
 その後に、マーガンディヤーは、ヴァンサ国首都のコーサンビーのウデーナ王に妃たちの一人として迎えられた、五百人の侍女を与えられた。ある日、お釈迦様がコーサンビーにやって来た。お釈迦様に、うらみを晴らす機会をみつけたのである。
ある日、牙を抜いたヘビを、リュートの胴のなかに入れ、穴を花束でふさいだ。
 王がサーマーヴァティー王妃のもとへ行くとき、マーガンディヤーも同行した。それから、王がリュートを脇に置いて眠ったとき、彼女が花束を取り出すと、すぐにヘピがはい出てきて、王の枕の上でとぐろを巻いた。マーガンディヤーは大声で悲鳴をあげ、サーマーヴァティー王妃が王を殺そうとしている、と非難した。王はサーマーヴァティーとそのお付きの者達を一列に並ばせ、サーマーヴァティー王妃の胸に矢を射た。
しかし矢は突き刺さらなかった。彼女の潔白を確信して、王はほうびを与えた。彼女はお釈迦様が毎日、宮廷に来るよう招待することを、ほうびとして選んだが、お釈迦様は招待を受けられず、お釈迦様の代わりにアーナンダ尊者を送った。
ある日、ウデーナ王が宮廷の外で公務中、かれらはサーマーヴァティー玉妃の後宮のすべての柱を布でくるみ、油を染みこませた。サーマーヴァティー王妃とおつきの者達が後宮の中にいたとき、後宮が火事になった。サーマーヴァティ王妃は五百人の従者たちに、心静かに落ちつくように、と指示し、おつきの者達が亡くなる前に、さまざまなさとりの階梯に達することができるようにさせた。

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