ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について(8)


                7-9 井 戸 と
     4 清浄についての八つの詩句  8 バズーラ 12 並ぶ応答―小篇


物語では
 アーナンダ尊者が清らかな代表格として登場し、世間の代表格として、バラモン村の人々が描けれます。井戸の水は清らかさの象徴です。


詩では
 アッタカ・ヴァッカ4清浄についての八つの詩句の内容を、8バズーラ経が具体的に展開して、12並ぶ応答―小篇経とも対応し、12経では世間のありさまを説いています。
 ウダーナ7-9の詩はシンプルです、喉の渇きを根本から断ち切ればよい、そうすれば、探し歩むことはない、清らかさの象徴である水を探すことはないという教えです。
 では、清らかとはなにか、それがアッタカ・ヴァッカの教です、ここでもウダーナの詩は、アッタカ・ヴァッカの鍵を教えています。


   ウダーナ7-9
Kiṃ kayirā udapānena,
井戸はなにに使うのか
Āpā ce sabbadā siyuṃ;
どこにでも水があるのなら
Taṇhāya mūlato chetvā,
渇欲を根元から断ち切ったなら
Kissa pariyesanaṃ care”ti.
何を探して歩むのか
 *清らかな心の覚者とは、このような者であるという詩
アッタカ・ヴァッカ・4清浄についての八つの詩句
788 Passāmi suddhaṃ paramaṃ arogaṃ,
わたくしは、最上で無病な、清らかな人と見る
Diṭṭhena saṃsuddhi narassa hoti;
人が清らかになるのは見解(ものの見方)による
Evābhijānaṃ paramanti ñatvā,
このように考えることを最上であると知って、
Suddhānupassīti pacceti ñāṇaṃ.
清らかなことを観ずる人は、この知識をたよりとしている。
 *「最上で無病で、清らかと」、自分で語り、さらに「人が清らかになるのは見解(もの
  の見方)による」と語る人は、「自分は最上で清らかである」という知識をたよりにし
  ている
789 Diṭṭhena ce suddhi narassa hoti,
もしも人が見解(ものの見方)によって清らかになるのであるなら
 *もしも人が見解(ものの見方)によって清らかになるのであるならば、これは、788教
 「わたくしは、最上で無病な、清らかな人を見る。人が清らかになるのは見解による」を
  指している
Ñāṇena vā so pajahāti dukkhaṃ;
あるいは、人が知識によって苦しみを捨て得るのであれば
Aññena so sujjhati sopadhīko,
それは煩悩にとらわれている人が他の方法によっても清められることになる
Diṭṭhī hi naṃ pāva tathā vadānaṃ.
このように語る人を「見解ある人」と呼ぶ
 *「見解ある人」は、煩悩にとらわれて、他の方法によっても清められることになる。と
  語る人である
790 Na brāhmaṇo aññato suddhimāha,
バラモンは他のものにより、清らかになるとは説かない
 *他のものとは、お腹の減った人が、ご飯を食べないと、他人が食べても何もならない
  し、メニューやレシピも、お腹の減った人には役に立たないという、重要な教え。
Diṭṭhe sute sīlavate mute vā;
見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想
 *哲学的な見解(ものの見方)では、清らかにはならない
Puññe ca pāpe ca anūpalitto,
よきこと。わるきこと、どれに汚されることなく
Attañjaho nayidha pakubbamāno.
自我を捨て、ここで、つくることがない。
 *そして真のバラモン(清らかな人)は見解に固執せず、私(自我)をすてると説く。
791 Purimaṃ pahāya aparaṃ sitāse,
古いものを他のものにたより
Ejānugā te na taranti saṅgaṃ;
揺れ動く煩悩に従っている人々は、執著を超えることがない
Te uggahāyanti nirassajanti,
この人は、とらえては、また放つようなものである
Kapīva sākhaṃ pamuñcaṃ gahāyaṃ.
猿が枝をとらえて、また捨てるように
 *ウダーナ7-9の詩でpariyesanaṃ、探し回る、求める、という言葉はもうひとつの鍵で
  す、特に修行者に向けたその具体的な例が、上記の詩です。
792 Sayaṃ samādāya vatāni jantu,
自ら誓戒をたもつ人は、想いに執着し
Uccāvacaṃ gacchati saññasatto;
あれやこれやと、ことをしようとする
Vidvā ca vedehi samecca dhammaṃ,
智慧ゆたかなひとは、ヴェーダによって知り、法(真理)を理解して
 *ヴェーダはバラモンの智慧ではなく、ひろい智慧を指しています。
Na uccāvacaṃ gacchati bhūripañño.
あれやこれやと、ことをしようとしない。
 *誓戒をたもちながら、あれやこれやと想いに執着している人の姿が描かれている
793 Sa sabbadhammesu visenibhūto,
かれは一切の法について囚われることなく観て
Yaṃ kiñci diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā;
見たり学んだり(聞いたり)思ったりしたことすべてを、どのようなことでも
Tameva dassiṃ vivaṭaṃ carantaṃ,
覆われることなしにふるまう人をどうして
Kenīdha lokasmi vikappayeyya.
この世でどうして分別を起こし妄想させることができようか
 *793は、ヴェーダの智慧で法を知っていけば、どうなるか説かれている
794 Na kappayanti na purekkharonti,
かれは分別することなく、重んずることもなく
Accantasuddhīti na te vadanti;
これこそ究極の清らかなことだ、と語ることもない
 *清らかなこと、を語らないことが、覚者です
Ādānaganthaṃ gathitaṃ visajja,
結ばれた執著の縛りをすて去って
Āsaṃ na kubbanti kuhiñci loke.
世間の何ものについても願望を起すことがない
 *793の妄想分別を受けて、分別することないひとが教かれます.
 *788の「わたくしは、最上で無病の、清らかなひとを見る、見解ある人」に対する答え
795 Sīmātigo brāhmaṇo tassa natthi,
バラモンは、範囲をのり超えている
Ñatvā va disvā va samuggahītaṃ;
何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない
Na rāgarāgī na virāgaratto,
欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない
Tassīdha natthi paramuggahītanti.
最上のもの、であると、とらわれることもない
 *「最上のもの」であると、とらわれることのないのが、覚者です


  アッタカ・ヴァッカ・8バズーラ
 アッタカ・ヴァッカ・8バズーラは論議に執する人々の頑迷が伝わってくるようです、論議をしているありさまそのものが、清らかさとは、程遠いいと伝わります。言葉だけでは難しい、清らかさとはなにかと、お釈迦様は、その姿でしめしています。


824 「ここにこそ清らかさがある」と言い張って、他のもろもろの法(教え)が清らかでないと説く。「自分が依っているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している
 *インドは論議好きの国です、国際会議を上手く運ぶには、日本人をしゃべらせて、イン
 ド人を騙らせろと言われる程の論議の人々です
825 論議を望み、集会に入り込み、互いに他人を、愚者である、と決めつけ、他人(師な
ど)に依存し、論争を交わす。──みずから真理に達したものであると称しながら、自分
が称賛されるようにと望んでいる。
826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと望み。そうして敗北してはうちしおれ、あらさがしをしているのに、論難されると、怒る。
827 審判者たちが、かれの論に対し「議論は破られた。論破された」というと、論争に敗れた者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。
828 これらの論争が修行者達の間に起ると、これらの人々には勝利と敗北とがある。人はこれを見て論争を離れるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、そこで称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、そのために喜んで、心が高ぶる。
830 心の高ぶりというものは、害われる場所である。慢心・高慢心の言を語る。これを見て、論争してはなりません。善き人々は、「それによって清らかになる」とは説かないからである。
 *以上が論議で得られることです。ですから論議するなと戒めています
 *清らかさは、どこをさがしてもありません
831 王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。敵が(あなたにふさわしい、真理に達した人の)いるところに進め。戦う相手は、あらかじめ存在しないのである。
832 見解を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、あなたははかれに言え、──「論争が起っても、あなたと対論する者はここにいない」と。
 *バズーダにも論議を離れろと、はっきり説きます
833 Visenikatvā pana ye caranti,
囚われないで行うひとびとは
Diṭṭhīhi diṭṭhiṃ avirujjhamānā;
一つの見解をもろもろの見解と対立させない、ひとびとなのです
Tesu tvaṃ kiṃ labhetho pasūra,
かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか、パスーラよ、
Yesīdha natthī paramuggahītaṃ.
そのひとびとの間で、最上のものなど、ここには存在しないのである。
 *795でも、「最上のもの、であると、とらわれることもない」とあります
 *「そのひとびとの間で、最上のものなど、ここには存在しない」これがバラモンの境地
  です、ウダーナ7―8、3・4行目やウダーナ6―4~6で説かれたこと。
Atha tvaṃ pavitakkamāgamā,
834 さてあなたは、自分こそ勝利を得るであろうと思い
Manasā diṭṭhigatāni cintayanto;
心にもろもろの見解を考えて、浄められた者(ブッダ)と
Dhonena yugaṃ samāgamā,
軛(くびき)を一つにしようと、やって来られたが
 *軛(くびき)は、車の轅(ながえ)の前端に渡して、牛馬の顎の後ろにかける横木
 *共に歩もうと来たが
Na hi tvaṃ sakkhasi sampayātaveti.
共に歩むことは、とてもできない。
 *パスーラへの答え
 *お釈迦様は自ら「浄められた者」と語っています
 *論議しない、その姿こそ、清らかなのです


   アッタカ・ヴァッカ・12 並ぶ応答―小篇
 お釈迦様の論議に関する姿勢が詳細に説かれている経典
890他の者の言葉で、劣る者となるのなら、その者自身も、共に知慧の劣る者となる。
もし、自ら聖者、慧者と名乗る者が、ここにいるのなら、ここのサマナ(修行者)たちに、愚者は誰もいないことになる
 *他人の言葉で清らかになるなら、劣る者の言葉で自分も劣るものとなる
 *自分が聖者なら、ここには愚者は誰もいない
891 「この(わが説)以外の他の法(教え)を説く人々は、清らかであることに背き、不完全な人である」と、一般のもろもろの異説の人々はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の見解に執着して、染まっているからである。
892 ここにのみ清らさがあると説き、他のもろもろの法(教え)には清らかさないと言う。このように一般のもろもろの異説の人々はさまざまに執著し、自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、いったい他の誰を愚者であると見ることができるのか。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の法(教え)である」、と説くならば、みずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立って、みずから考え量りつつ、かれは世間で論争を起こす。一切の断定を捨てたならば、人は世間で確執をなすことがない。

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