ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について(7-2))

 

                7-8 カッチャーナと
      2 洞窟についての八つの詩句、6 老 い、10死ぬよりも前に



  ウダーナ7-8 5・6行目
Anupubbavihāri tattha so,
その都度に、その瞬間の条件に、諸々の因縁により起こる反応現象は
 仮に『覚者』と名付ける現象の流れです。
Kāleneva tare visattikan”ti.
なににも執着すること、捕らわれることなく、時間によって流れる
   アッタカ・ヴァッカ・2洞窟についての八つの詩句
778 賢者(覚者)は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接れることを知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。
779想い(sañña)を知りつくし、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着(pariggahesu)に汚されることがなく、(煩悩の)矢(salla)を抜き去って、つとめ励んで行い、この世もかの世も望まない。
   アッタカ・ヴァッカ・6 老い
老いと死を静かに見つめる経典で、身体とは、聖者(覚者)とはどのようなものか、などを説く十二詩からなる経典で、身体を見つめるとは、いかなることかを説いている、ウダーナ7-8の詩、全体と響き合う経典です。
804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老いのために死んでいく。
805 人々はわがものと執著したもののために悲しむ。なぜなら、所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
 *出家が勧められています
806 人が「これは私のものである」と考える物も、死によって失われる。わが弟子は、賢明にこの理を知って、私のものとすることに、向かってはならない
 *出家しても「これは私のものである」と言う意識は、すぐになくなるとは限りません、私のものという意識はなくならなくても「これは私のものである」としないようにと、戒められています
807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやその人を見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、見ることはできない。
808 名前はこれであると呼ばれ、かつては見られ、聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと物惜とを捨てることがない。だから聖者たちは、所有しているものを捨てて行って安穏(あんのん)をみたのである。
810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れた心に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、その人にふさわしいことであるといわれる。
 *独り離れ修行する、修行者の内面が描かれています
811 聖者はなにものに拠り所なく、愛することもなく、愛さないこともない。悲しみも物惜もかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。
 *愛することもなく、愛さないこともない、中道の表現で、愛することという表現そのものが捨てられて、なくなっている
812 蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じように聖者は、見たり学んだり考えたりしたどんなことについても、汚されることがない。
 *811教の、愛すること、愛さないことの原因は、悲しみや物惜しみという執着です
 *葉の上の水が汚されないようなものである。汚されず、水が流れて行くように描かれて
  います
 *812教の、見たり学んだり考えたりの原因は、触や想という執着です
  *蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように。水滴がはじかれて転がるように描かれています
  *執着のちがいが、描かれています
813 浄められたひとは、見たり学んだり考えたどんなことでも特に執著して考えることがない。他のものによって清らかになろうとは望まない。このひとは、貪ることもなく、貪りを離れていることもない。
 *アッタカ・ヴァッカ・4清浄についての八つの詩句795教と同じ内容が描かれています 
  アッタカ・ヴァッカ・10 死ぬよりも前に
  人の生き方が、存在が具体的に描かれている経典です、ウダーナ7-8の具体例として
  読んでください。
848「どのように見、どのような戒律をもつひとが『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねします、その最上のひとのことをわたしに説いてください。」
849師は答えた、「死ぬよりも前に、渇愛を離れ、過去にこだわらず、現在もくよくよとしないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
 *安らかである(悟りをえた)ひととは、死ぬよりも前、つまり、生きているひとのこと
850聖者は、怒らず、恐れず、誇らず、悪い行いをせず、よく考えて語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。
851未来にも、過去にも執着すろこともない。もろもろの(感官と対象との)触れることを遠ざかり離れることを観じ、もろもろの見解(ものの見方)にひかれることがない。
 *778で触れるを知り尽くし、779では見解の元になる想を知りつくしとあります
 *ここでは、触れることも、見解も達成された覚者の姿が描かれています
852(貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、もの惜しみせず、傲慢にならず、嫌われず、悪口をいわない。
853快いものに愛着せず、高慢にならず、柔和で、弁舌に勝れ、信じこむことなく、貪りから離れているのでもない。
 *貪りから離れているのでもないは、世間から完全に離れているわけではなということ
854利益を欲して学ぶのではない。得られなくても怒ることがない。渇愛のために矛盾が生じることがなく、美味を貪ることもない。
855平静であって、常によく気をつけていて、世間の中で(他人を自分と)等しいとは思わない。自分が勝れているとも劣っているとも思わない。このひとに(欲望が)増してくるものはない
856依りかかることのないひとは、理法を知ってこだわることがない。そのひとには、生存のための妄執も、生存の断滅のための強い執着もない。
857もろもろの欲望になにも期待することのないひとを〈安らかなひと〉と、わたくしは説く。このひとは、縛りはなく、執著を渡り終えている。
858このひとには、子も、家畜も、田畑も、地所もない。すでに得たものも、捨て去ったものも、このひとのうちには認められない。
859一般の人々や道の人・バラモンたちが、なにか言うとしても、そのひとは特に気にかけることはない。ですから、論議されても、動揺することがない。
860聖者は貪りを離れ、もの惜しみすることなく、勝れているとも、劣っているとも、等しいとも論ずることがない。また、妄想がはたらくことなく、妄想することもない
861世間で自分のものというものがない、存在しないからといって嘆くことはない。そのひとは、もろもろの教えに走ることはなく、『安らかなひと』、と呼ばれる。」



                ウダーナ7-8補足
  別の角度から解説・補足してみます
 物質も心も流れです、自然法則、因果関係で流れ、成り立ちます。どのような人でも、孤独、不安、不満足、悲しみ、などの共通のものをもち、それらを仏教では苦(dukkha)と呼びます。この意識が流れです。そして流れのなかで人は生きています。この大きな流れのなかで、たまに喜びや幸福があり、それが人に共通の生であり、この流れ続けていることを、仏教では無常といいます、いつ始まったかわからない大きな流れです。そして人類共通の流れのなかで、ほとんどの人が共有しているのが「私」という意識です。この「私」をつくり出しているのが虚構(papañcā)というしくみです。この「私」も他者も、流れの一部です、「私」という意識も流れの一部です。そして身体が滅びても、欲望、不安、不満、苦は続きます、これを仏教では業(kamman)といいます、業は流れです、欲望(執着)を含んだ流れです。その流れが人・生物としてあらわれます。流れの一部ではありません、「私」というのは、その流れから成っています。川とその一滴とよく似た関係です。その流れのなかには多くの人・生命がいます。
 この流れは、流れからなっていて、名称と形態があり、生きていて、なにを経験しているか、きづき、自覚します、生きているとは、苦(dukkha)だと、そして苦を見つめ、ただ見つめ、そのことにより、智慧(paññā)が起こり、この苦しみを見つめるという行為は流れから成るのではないのです。そして智慧により流れの外にでるときがあり、この流れの外に出た人を、覚者と呼びます。
 業(kamman)のことを、お釈迦様は、意志(cetanā)というと、おしゃっています、意志とは記憶の反応であり、その中身は知識、経験であり、つねに過去からの運動であり、運動とは、切れ目のない因果の継続性であり、それを時間と呼びます、意志は記憶の反応であり、記憶は時間です。なぜなら、意志そのものが時間を内包している、つまり、ほんの一瞬だとしても時間がかかるからです。人は、意志によっては現在を見ることはできない、見る(観察)するには、意志なしにみることです。意志とは記憶の反応、応答で経験を通じて知識になり、知識はつねに過去のもので、そこから意志が発生する。これが意志のしくみです。このしくみを、経験し知識をつくりだす、しくみを、お釈迦様は、虚構と呼び、経験(認識)する、しくみを、想(aññā)と呼んでいます。
 虚構(Papañca)が「私」をつくります。ですから時間のあるときは、意志があり、「私」があり、智慧(paññā)、はないです。
 時間がないとは、智慧があるとは、その都度に、その瞬間の条件を意味し、現在と呼ばれ、もろもろの因縁により起こる反応現象と呼ばれ、この現象の流れが『覚者』と名付ける現象の流れです。意志が生じない、智慧のある、現象の流れです。
 智慧が起これば、見ることがあり、虚構、幻想、捏造を、ありのままに見る(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ・如実知見)ことができ、それは、名づけることなしに、見ることです。
 ありのままに見るとき、智慧があるときとは、くらべる心がないとき、すべての方向で意志が働いていないときでありそれは、慈悲がなければ、智慧がなければ、ありえない、そして「私」が(自我)がないとき、煩悩のないときに、智慧が起こり、ありのままに見ることができると、お釈迦様は説いています。
 覚者とは、なににも執着すること、捕らわれることなく、時間によって流れて、身体も時間によって流れていると、説いています。

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