ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について(7-1)
7-8 カッチャーナと
2 洞窟についての八つの詩句、6 老 い、10死ぬよりも前に
物語では
カッチャーナ尊者は、ウダーナ5-6でお釈迦様にアッタカ・ヴァッカを披露した、ソーナ尊者にアッタカ・ヴァッカを伝えた方です。身体を観察して、悟りをひらいたカッチャーナ尊者が主役です。
詩では
アッタカ・ヴァッカ2洞窟についての八つの詩句の洞窟は身体を意味し、6老いは、生存や身体が老いること、10死ぬよりも前には、身体が壊れる前の、安らかなことが、説かれています。三つの経典は身体が共通の主題です。
アッタカ・ヴァッカ2、6、10の経では、欲が洞窟(身体)の中で私に育ち、身体が老いていくのを見つめ、執着を離れるのが安らかな聖者と語り。ウダーナでは常に身体にきづいているのが覚者(聖者)と説かれ、前経(ウダーナ7-7)にあった網の具体的な説明があり、覚者(聖者)とはなにか、具体的に説明されます。
このようにウダーナ7-8の詩は、ウダーナ7-7の詩と深い関わりがある、というより一組の詩と見た方が理解しやすいかもしれません。
ウダーナ7-8 1・2行目
Yassa siyā sabbadā sati,
人には常に、きづき(sati) 、如実に観察する力があるならば、
Satataṃ kāyagatā upaṭṭhitā;
常に身体に対するきづきを確定している
アッタカ・ヴァッカ・2洞窟についての八つの詩句
772 Satto guhāyaṃ bahunābhichanno,
洞窟のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ
Tiṭṭhaṃ naro mohanasmiṃ pagāḷho;
迷妄のうちに沈没している人、このような人は
Dūre vivekā hi tathāvidho so,
実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている。
Kāmā hi loke na hi suppahāyā.
実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである
*身体を洞窟に喩えて、迷妄(愚かにするもの)に覆われ、厭離(悟り)から遠くとは、
欲望を捨て去ることは、容易ではないから
773 Icchānidānā bhavasātabaddhā,
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は
Te duppamuñcā na hi aññamokkhā;
解脱しがたい。他(añña)が解脱させてくれるのではないからである
*他(añña)が解脱させてくれるのではない
*自分自身が解脱しようと(悟りをひらこうと)思うことが、第一歩ということ
Pacchā pure vāpi apekkhamānā,
かれらは未来をも過去をも予想しながら
Ime va kāme purime va jappaṃ.
これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。
*愚か者は、過去・現在・未来の欲望を貪る
774 Kāmesu giddhā pasutā pamūḷhā,
かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて
Avadāniyā te visame niviṭṭhā;
過度に節約して、不正になずんでいるが
*欲望は加速度式に増大していき、不生、差別、区別が生じる
Dukkhūpanītā paridevayanti,
(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する
Kiṃsū bhavissāma ito cutāse.
ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか
*そして死と生存の苦しみにつながる(生存がなければ死はありません)
775 Tasmā hi sikkhetha idheva jantu,
だから人はここにおいて学ぶべきである
Yaṃ kiñci jaññā visamanti loke;
世間で「不平等」であると知られているどんなことであろうとも
*不平等を学ぶのが苦しみから逃れる方法とかたられます
*欲望を貪ると、不平等にしばられ、人は優劣をつけて、差別、区別にしばられ、死んで
からも、不平等にしばられる
Na tassa hetū visamaṃ careyya,
そのために不正を行なってはならない
Appañhidaṃ jīvitamāhu dhīrā.
ひとの命は短いものだと賢者たちは説いているのだ
*人の命は短いものだ、アッタカ・ヴァッカ 6老い経、につながる
776 Passāmi loke pariphandamānaṃ,
この世の人々が、ふるえているのを、わたしは見る
Pajaṃ imaṃ taṇhagataṃ bhavesu;
もろもろの生存に対する妄執にとらわれ
Hīnā narā maccumukhe lapanti,
下劣な人々は、、死に直面して泣く
Avītataṇhāse bhavābhavesu.
種々の生存に対する渇愛を離れないで
*生存に対する欲望が説かれています
アッタカ・ヴァッカ・1欲 望
771それ故に、人は常によくきをつけて(sati)いて、もろもろの欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。
*常に、きづき(sati)があることとは、確定していること。確定しているとは、現象のみあ
って、そこで観察が働いている状態であると、それは、自分がいない状態と、ウダーナ
7-8は説きます。
*常に、きづき(sati)があることとは、欲望を捨て去ったこと。欲望を捨て去ったとは、自
分がいない状態、なぜなら自分がいなければ欲望はないから、それで、自分をなくし、
激しい流れを渡り、彼岸に到達せよと、アッタカ・ヴァッカは説きます。
アッタカ・ヴァッカ・2洞窟についての八つの詩句
アッタカ・ヴァッカ・1欲 望771教の詳細が、下記777・778教になります。
777 Mamāyite passatha phandamāne,
(何ものかに)わがものであると執着して動揺している人々を見よ
Maccheva appodake khīṇasote;
(そのありさまは)ひからびた流れの水のすくないところにいる魚のようなものである
Etampi disvā amamo careyya,
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである
*わがもの(私)である、と執着する。 わがもの(私)でないと、行なうべきである
Bhavesu āsattimakubbamāno.
もろもろの生存に対して執着することなしに。
*ただし、もろもろの生存に対して執着するな。
778 Ubhosu antesu vineyya chandaṃ,
賢者は、両極端に対する欲望を制し
*私はある・私はないと論議はするな
*執着(欲望)するな。欲望は接触から生じると知りつくせ
Phassaṃ pariññāya anānugiddho;
(感官と対象との)接触を知りつくし(pariññāya)、貪ることなく
*見聞することがら(感覚・想)に汚されない
*虚構の名称に汚されるなということ、虚構の名称は想(sañña)いから、生ずるから。
*知りつくす(pariññā・知悉)は、お釈迦様の教のキーワード、転法輪転経、パーリ経典・中部1-1・根本法門経につながります。
Yadattagarahī tadakubbamāno,
自責の念にかられるような悪い行いをしないで
Na lippatī diṭṭhasutesu dhīro.
見聞することがらに汚されない。
*覚者は業を作らないという意味で、ウダーナ7-8の5・6行目ともつながります
ウダーナ7-8 3・4行目
No cassa no ca me siyā,
私はいなかった。私のものもなかった、これからも私はいない。私のものもない、
Na bhavissati na ca me bhavissati;
今、私はいない。私のものもない
アッタカ・ヴァッカ・11争闘
874想いを想ったことなく、想いをこれから想うことなく
想いがないことでなく、想いを離れることでなく
アッタカ・ヴァッカ・2洞窟についての八つの詩句
779 Saññaṃ pariññā vitareyya oghaṃ,
想(sañña)いを知りつくし(pariññā)、激流を渡れ
Pariggahesu muni nopalitto;
聖者は、所有したいという執着(pariggahesu)に汚されることがなく
Abbūḷhasallo caramappamatto,
(煩悩の)矢(salla)を抜き去って、つとめ励んで行い
Nāsīsatī lokamimaṃ parañcāti.
この世もかの世も望まない。
*想(sañña)いを知りつくし(pariññā)、矢(salla)を抜き、論争しないで、つとめ励
み、激流を渡れば、言葉にはできないが、これが彼岸に到達することと説いています
*779教の詳細が、アッタカ・ヴァッカ・11争闘874教です。
簡単に内容を解説します
インドでは、世界はこうだ。自己はこうだ。我・自己・アートマンという永久不滅の魂のようなものがある(恒常)、などなど、バラモンなどの人々が論議していたようです。お釈迦様は六二の説を、梵網経で紹介して、さらに四つにまとめて詩として伝えられています。詳しい内容は、梵網経をご覧ください。ウダーナ6-5、6-6で解説していますので、こちらも参照してください。
*永久不滅の自己がある、世界は永久不滅などの説を、自己は恒常、世界は恒常といいま
す。
上記ウダーナ7-8の詩のパーリ原文と直訳です
No ca-assa no ca me siyā,
私は、あったであろうでなく、そして、私は、これからも、あるであろうでなく
Na bhavissati na ca me bhavissati;
あるであろうことなく、そして、私は、あるであろうことなく
*言葉の解説
*assaは、あったであろう。
*siyāは、なるであろう・これから、あるであろうという意味
*bhavissatiは、あるであろう
*assa とsiyāとbhavissatiは、あるであろう、という意味の同義語。
*meは私。
*caは、そして、という意味で、この詩では、前の詩を受けて、身体と心=私、という意
味にもなります。
*No、Naは否定を表す言葉。
*私はあるであろうことなく、を四回重ねた文章で、涅槃は、言葉では表現できない、こ
とがらであることを表現しています。
No ca-assa・私は、あったであろうでなく
*ca・私(身体と心・主体-・眼耳鼻舌身意)。assa・存在=私(対象・客体・色音香味触
法)。
*私と私は、ca・私(主体)とassa・私(客体)は過去にあった、なかった
*私はいなかった。私のものもなかった。
*主体(自己)も客体(世界)も恒常である、などの論議を否定
*否定して、無常を説く。
no ca me siyā・そして、私は、これからも、あるであろうでなく
*ca・そして。me・私。siyā・存在.=私。
*私と私は、me・私(主体)とsiyā・私(客体)は未来にある、ないか
*これからも私はいない。わたしのものもない。
*主体(自己)も客体(世界)も恒常でない、などの論議を否定
*否定して、苦を説く。(苦は生きる限りなくならない)
Na bhavissati・あるであろうことなく
*bhavissati・ある・存在する。= 私。
*私・bhavissatとは、お釈迦様の時代は、名称と形態(nāma-rūpa)で存在 = 私(主体
自己)を表すのが常識でした。
*今、私はいない。
*私(自己)に必ず入っている我・アートマンを否定
*否定して、無我(空)を説く。
*無我を説くとは、私(主体)があるから私(客体)もある、という真実の関係を教え
ていて、私(主体)があってもなくても私(客体)はあるという幻想の関係を否定し
ています。
na ca me bhavissati; ・そして、私は、あるであろうことなく
*ca・そして。me・私。bhavissati・私
*私と私は、私・meと私・bhavissatiは、ない
*今、私のものもない。
*私と私と、主体(自己)と客体(世界)に存在する、我・アートマンを否定
*否定して、無我を説く
意 訳
①私はいなかった。私のものもなかった
②これからも私はいない。私のものもない
③今、私はいない
④私のものもない
アッタカ・ヴァッカ・11争闘
874Na sañña-saññī na vi-sañña-saññī,
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく
No-pi a-saññī na vibhūta-saññī;
想いがないことでなく、想いを離れた者でもない
私(主体)が、sañña・私(客体)を、saññī・あると想うNa・のでなく
*saññasaññīと並べることで、主体と客体のことと示唆しています。
私(主体)と、vi-sañña・別の私(客体)が、saññī・あると想うna・のでなく
私(名称と形態)は、a-saññī・私でないと想う、No-pi・のではなく
私(名称と形態)を、vibhūta-saññī;・離れたと想う、na・のでなく
*質問はどうすれば、離れる(vibhoti)のか、ですから、その答えは、私(saññī)から離れたのではないということ
*これはすべてを否定して、我(アートマン)が含まれている私(nāma-rūpa)から離れたのではない(無我である)というのか答えです。
意 訳
①私(主体)と私(客体)は、おなじ、ではなく
②私(主体)と私(客体)は、ちがう、ではなく
③私(名称と形態)は、おなじでもちがう、でもなく
④私(名称と形態)から、離れた者、でもない
別な経典を紹介します。
ある弟子がお釈迦さまに対して、疑問を投げかけた
(1)『世界は永遠である』『世界は永遠でない』
(2)『世界は有限である』『世界は無限である』
(3)『生命と身体とは同一である』『生命と身体とは別異である』
(4)『如来は死後存在する』『如来は死後存在しない』『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』
これらの問いに答えてくれないならば、自分は還俗すると言うのです。これに対してお釈迦さまは次のようにお答えになりました。
ある人が毒矢で射られ、心配して急いで医者を呼んできて、医者がまず矢(salla)を抜こうとしたら、その人が、「この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、背の高い人か低い人か、町の人か村の人か、これらのことがわかるまではこの矢を抜いてはならない。私はまずそれを知りたい」と言うのならば、その人のいのちはなくなってしまうでしょう。あなたの問いはそれと同じです。 (中阿含経巻第60-221「箭喩経」より抜粋)
*毒矢の例えとして有名な教えです。
(1)から(4)の問いかけの答えが①から④です。内容の説明はウダーナ6-4~6を参照してください。
アッタカ・ヴァッカ・3悪意についての八つの詩句
787諸々の事物に関して、たより近づく人は、あれこれの論議に(誹り・噂さ)を受ける。(偏見や執着)にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼びえるであろう。かれは執することもなく、捨てることもない、かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのです。
*覚者とは、論議にたより近づかない。一切の見解(ものの見方)を掃い去っている人
のことです。
