ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章と アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータ第四章) との関係について(6)
7-7虚構の滅尽 と
3悪意についての八つの詩句、7ティッサ・メッティヤ、11争 闘
物語では
お釈迦様ご自身が、悟った後に、虚構の想いと名称を捨てた、ことを思い出して詩を口にされたとあります。悟りとは、虚構の想いと名称を捨てることということです。
お釈迦様の教、最大の鍵です。
詩では
虚構の滅尽とは、渇愛なきひと、つまり悟ったひとという詩
アッタカ・ヴァッカ・3悪意についての八つの詩句経の内容を、7ティッサ・メッティヤ経は受け継いでいて、さらに11争闘は、前記の二つの経と対応します。
アッタカ・ヴァッカ・11争闘は接触から欲が生じ私が生ずる、アッタカ・ヴァッカ3経では欲から悪意が、7経は淫欲が、どのような原因で生ずるのか、どのようにすれば滅する(悟る)のかを説いています。
アッタカ・ヴァッカでは、接触から受が生じて欲が生じて私が生じる、ということがらを、ウダーナでは、想(認識・心)が虚構というしくみで、名称をつけて(レッテルを貼って)、つくった私を、捨てる。とまとめて。網という梵網経にでてくる、誤った教え・論議しても無駄な教えを越えているのが聖者という詩。
ウダーナ7-7
Papañca-saññā-saṅkhā-pahānaṃ (虚構の想いと名称を捨てる)
虚構 想 名称 捨てる
アッタカ・ヴァッカ 11争 闘
874Na saññasaññī na visaññasaññī,
想いを想ったことなく、想いをこれから想うことなく
Nopi asaññī na vibhūtasaññī;
想いがないことでなく、想いを離れることでなく
Evaṃ sametassa vibhoti rūpaṃ,
このように行えば、形態は生存から離れます
Saññānidānā hi papañcasaṅkhā
虚構の名称は、想いから、生ずるからです
*pahānaṃ(捨てる)とvibhoti(離れる・滅する)は同義語で、涅槃を意味する。
ウダーナ7-7のPapañca-saññā-saṅkhā-pahānaṃ(虚構の想いと名称を捨てる)という一言を、アッタカ・ヴァッカ11争闘874教ではSaññānidānā(虚構の名称)はsañña(想)から生じる、このことを理解すれば、捨てられる(悟れる)と説かれています。
Papañca(虚構)という捏造する仕組みは、saññā(想)というこころの仕組みを回路としてつかって、saṅkhā(名称)名づけて・言葉に(固定)して認識・判断・感情をつくり、私をつくります。ですから、私をつくる、虚構の名称(papañcasaṅkhā)は(hi)想(Saññā)から生ずる(casaṅkhā)となります。
想(Saññā)を否定する言葉を四かい重ねて、想(こころの仕組み)がないことで、言葉では言い表せないことがらである涅槃(悟り)を表現しています。これは、こころが無いということではなく、こころと同じ回路を使う、虚構の名称から離れる、つまり、私がない。これが涅槃(悟り)だという意味です。
アッタカ・ヴァッカ11争闘874教は、私(虚構の名称)が。想から離れる・身体から離れるのが悟りということです。
ウダーナ7-7 1行目
Yassa papañcā ṭhiti ca natthi,
虚構の止住がないなら
*虚構の止住がないひととは、虚構の世界に留まらないひと
アッタカ・ヴァッカ11争闘では
想いを想ったことなく、想いをこれから想うことなく
想いがないことでなく、想いを離れることでなく
このように行えば、形態は生存から離れます。
*このように行えばとは、悟れば、という意味。
*形態は生存から離れるとは、身体から私がなくなるのが、悟りということ。
私をつくる虚構の名称は、想いから、生ずるからです
*これがお釈迦様の答えです。
お釈迦様は、想を理解すれば・私をなくせば、悟りに達すると、答えています。これは私とは、想(心)が生きる場所や条件でつくりだした、虚構の世界のものなのだから、想が虚構の世界をつくりだす〝しくみ〟を理解すれば悟れるということ。
アッタカ・ヴァッカ・2洞窟についての八つの詩句
779想(sañña)いを知りつくし、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着(pariggahesu)に汚されることがなく、(煩悩の)矢(salla)を抜き去って、つとめ励んで行い、この世もかの世も望まない
ウダーナ7-7 2行目
Sandānaṃ palighañca vītivatto;
綱と閂を超えたひとであり
*網はお釈迦様の時代の、哲学的な見解(ものの見方)、閂は無明のこと。
アッタカ・ヴァッカ・3悪意についての八つの詩句
綱という見解(ものの見方)と閂という無明を、悪意という無明を原因とする欲と見解を原因とする論議という害悪を具体的に説き、綱と閂を越えた聖者の姿を説いた経典。
780 Vadanti ve duṭṭhamanāpi eke,
悪意をもって語る人々もいる
Ath opi ve saccamanā vadanti;
また他人から聞いたことを真理だと思って語る人々もいる
*悪意をもつのも、真理だと思うのも、想がしています。想いを知りつくし、ということ
と関連しています。
Vādañca jātaṃ muni no upeti,
聖者は論議に近づかない
Tasmā munī natthi khilo kuhiñci.
だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。
*聖者(覚者)は、語るとき悪意で、他人から聞いたことを真実だと思って誹らない
781 Sakañhi diṭṭhiṃ kathamaccayeyya,
どうして自分の見解(ものの見方)を超えることができるだろうか
*見解(ものの見方)を語るとき、悪意で、他人から聞いたことを真実だと思って語る
Chandānunīto ruciyā niviṭṭho;
欲にひかれて、好みにとらわれている人が
*見解を語るとき、欲にひかれて、好みにとらわれて、語る
Sayaṃ samattāni pakubbamāno,
自分で完全であると思っている
Yathā hi jāneyya tathā vadeyya.
かれは知るにまかせて語るであろう
*みずから見解は、自分(わがもの・私)となり、知るにまかせて語る
782 Yo attano sīlavatāni jantu,
他人に、自分が戒律や道徳を守っていると語っている人は
Anānupuṭṭhova paresa pāva;
人から問われたのではないのに
*自分が戒律や道徳を守っていると言いふらすのは、自分に拘っている
Anariyadhammaṃ kusalā tamāhu,
善き人々は「聖でない法」であると語る
*法とは、いろいろな意味がありますが、この場合は、教え、真理という意味です
Yo ātumānaṃ sayameva pāva.
自分で自分のことを語っているのであるから、
*真理に達したひとびと(覚者)は、自分に拘るのを「聖でない法」と語る
*自分ではなく、法に適った行いをしなさいということ
783 Santo ca bhikkhu abhinibbutatto,
修行僧が安らぎ、心が安静に帰して
Itihanti sīlesu akatthamāno;
戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば
*理想の境地が説かれています
Tamariyadhammaṃ kusalā vadanti,
世の中のどこにいても高ぶりはないから、かれは「聖なる法」であると
*法に適った行いが説かれています
Yassussadā natthi kuhiñci loke.
真理に達したひとびとは語る
784 Pakappitā saṅkhatā yassa dhammā,
つくりなした諸法は清浄でなく
Purakkhatā santi avīvadātā;
汚れた見解をあらかじめ設け
*汚れた見解は、わがもの・私という、欲望・執着と結びついているので清浄でない
Yadattani passati ānisaṃsaṃ,
自分のうちにのみ利益があると見る人は
*自分(わがもの・私)とは、利益(欲望・執着)であるという意味
Taṃ nissito kuppapaṭiccasantiṃ.
ゆらぐものに縁っている安らぎに執著しているのである
*ゆらぐものに縁ってとは、見解(教え)を捨てたり取ったりすること
*執着はあるが修行の進んだ存在ではあります
785 Diṭṭhīnivesā na hi svātivattā,
見解(ものの見方)への住処を超えることは、容易ではない
*固執が自己の見解を生む
Dhammesu niccheyya samuggahītaṃ;
もろもろの法の中で決めて執えられている
Tasmā naro tesu nivesanesu,
故に人はそれらの住処のうちにあって
Nirassatī ādiyatī ca dhammaṃ.
法を捨てたり取ったりする。
*見解という住処に、はまり込んで、法(教え)を捨てたり取ったり、つまり784教のゆ
らぐものに縁って、という状態になる
786 Dhonassa hi natthi kuhiñci loke,
浄められたひとは、世の中のどこにいても
Pakappitā diṭṭhi bhavābhavesu;
さまざまな生存に対して妄想分別された見解(ものの見方)が存在しない
*浄められたひとは、さまざまな生存に対して、妄想分別された見解がない
*見解は、想(sañña)により生じます
Māyañca mānañca pahāya dhono,
浄められたひとは、いつわりと驕慢とを捨て去っているが
Sa kena gaccheyya anūpayo so.
どうして行くのであろうか?かれはもはや、たより近づく(執する)ものがないのである。
*浄められたひとは、さまざまな生存に対して、行かない、近づかない
*輪廻という解釈を意識してもいいですし、解釈はいろいろあると思います
787 Upayo hi dhammesu upeti vādaṃ,
もろもろの法に近づく人は、議論に近づく
*もろもろの法とは、もろもろの教え
Anūpayaṃ kena kathaṃ vadeyya;
近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?
Attā nirattā na hi tassa atthi,
執することもなく、捨てることもない
Adhosi so diṭṭhimidheva sabbanti.
かれはこの世にありながら一切の見解を掃い去っているのである。
*執着(渇愛・欲)がなければ、見解(ものの見方)を掃い去っているのが聖者(覚者)
アッタカ・ヴァッカ・11争 闘
875わたしたちが、尋ねたことを、あなたは語ってくれました
他のものについて、お尋ねます、それを説いてください。
なぜこれだけが、最上の清浄と説くのですか
賢者たちが、ここにヤッカ(魂)の清浄があると
あるいはまだ、他にあると説くのですか
*ここにヤッカ(魂)とは、これはバラモンの見解を指しているとおもわれます。(詳しくはバーヒヤの経の解説に代えてを参照)
876これだけが、最高の清浄と説いています
賢者たちが、ここにヤッカ(魂)の清浄があると
ある人たちは、ある説を説く
生存の依り所という残りがないのをよいと説きます
877 これらを依存ある者と知って、
聖者は依存あることを知って、観察者として知って
論争をすることはない
賢者は、もろもろの生存を行うことがありません
ウダーナ7-7 3・4行目
Taṃ nittaṇhaṃ muniṃ carantaṃ,
渇愛ない聖者は行く
*渇愛がないひとを、聖者(覚者)と呼んでいます。
*割愛の原因は辿っていけば、論争が原因とアッタカ・ヴァッカ11争闘では説いていま
す。論争しないひと(聖者)を、完全な沈黙者とも呼びます。私がないひとと言っても
同じ意味
Nāvajānāti sadevakopi loko”ti.
天の神々も含む世の人々は見下すことがない
アッタカ・ヴァッカ・7ティッサ・メッティヤ
3悪意についての八つの詩句の内容を受け継いで、人間の欲の婬欲というもっとも厄介な欲を扱い、渇愛のない聖者の姿を具体的に説く経典。
814ティッサーメッテイヤさんがいった。「婬欲の交わりに染まる人の害を説いてください。あなたの教えを聞いて、わたしたちは、厭離することを学びましょう。」
815師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに染まる人は教えを失い、誤った道を進む。これはうちにある聖なることがらでないこと。
816かつては独り行じていても、婬欲の交わりを行うようになれば、乗り物が道からはずれたようなもの。世の人々はかれを卑しいと呼び、凡夫とも呼ぶ。
*聖者を目指す人にとって「悪意」となることと語られています。
817かつての名誉も名声も、失われる。このことわりをも見たならば、婬欲の交わりを捨てることを学べ。
*世間の人々からの名誉も名声もなくなり、見下される。
818もろもろの想いに囚われて、哀れな人のように考えこむ。このような人は、他人からの評判を聞いて恥じいってしまう。
819そうして他人の言葉に責め立てられ、刃(悪行)をつくるのです。これが大きな難である。妄言に沈んでいくから。
*ここまでは婬欲のもたらすものは世間からの評判を落とす
*そして妄言で心を痛めて沈んでいくことになる
820独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、婬欲の交わりにかかわったならば、愚者のように悩む。
821聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりにかかわってはならない。
822遠離していることを学べ。これはもろもろの聖者にとって最上のことがらである。これだけで、最勝であると思わないように。このひとは安らぎに近づいているにすぎない。
*最上(uttama)比較した中で最もよいもの
*最勝(seṭṭha)無条件で比較しなくてもよいもの
*遠離とは世間や婬欲から離れていることで、それが最上ですが、それでは安らぎ(悟
り)に近づいているだけです。
*最勝とは次の詩で語られます
823 聖者はもろもろの欲望を捨て(Ritta)、それを離れて歩む。激流を渡りおわっているので、もろもろの欲望(Kāma)に縛られている人々はかれをうらやむ。
*捨て(Ritta)からになったという意味がある
*欲望(Kāma)を捨て、からになったひと(無我)なら、欲望を求めることもないです
*このようなひとが最勝(seṭṭha)です。
*ウダーナ7-7でいう、渇愛がないひと(nittaṇhaṃ muniṃ)と同じ意味です
