ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第1章5 バラモンたち (副読本・Ⅰ)



ウダーナ副読本


ウダーナ(自説経)1-5 バラモンたち


ウダーナ1-5では、重要なお弟子さんが登場します、お一人お一人の伝記を記載しましたので参考にしてください


サーリプッタ尊者 (ウダーナ 3-4,4-7,4-4,4-7、4-10、7-1、7-2にも登場)
 特にお釈迦様の信頼の高かったのが、智慧第一といわれたこのシャーリプトラ尊者です。釈迦に代わって教えを説くほどであり。仏教経典には、そんな場面が描かれている。ジャイナ教という同じ時代の宗教の文献では、お釈迦様の教団というよりシャーリプトラの教団と記載されており、外部からみた存在感は圧倒的なようでした。教団内部では、お釈迦様が説いた教えを、詳細に他のお弟子さん達に解説していて、現代に伝わる仏教の教理の詳細な部分は、シャーリプトラ尊者によるものが、かなりの部分を占めるというのが、最近の研究で言われていることです。
お釈迦様の弟子となったのには、次のような経緯があった。真理を求めて、さまざまな師を訪ね歩いたシャーリプトラはあるとき立派な僧に出会った。その物腰からして、悟りを開いた僧であろうと、懇願してその教えを尋ねた。この僧は釈迦が最初に教えを説いた5人のビクのひとり、アッサジであった。アッサジは、弟子入りしてまだ間もないので……と断って、次のような掲(詩)を唱えて聞かせた。「『もろもろの事がらは原因から生ずる。真理の体現者はその原因を説きたもう。もろもろの事がらの消滅をも説かれる。
大いなる修行者はこのように説きたもう。』」この縁起の教えを聞いただけで、シャーリプトラは、たちまちお釈迦様の教えを理解し、悟りの最初の段階に達することができた。真理を知った喜びに感動したシャ-リプトラは、まず最初に、親友のモッガラーナに、それを知らせようと思った。二人は幼いころからの仲良しで、かつて一緒に出家したからである。生まれた時から、何不自由のない生活をしていた。
 少年だった二人は、ラージヤグリハで毎年行われる山頂祭という祭り見物に行ったときである。店が並び、見世物の小屋が出て、それは賑やかな祭りであった。ところが、聡明な頭脳と感じやすい心を持ったこの少年は、楽しいはずの祭りの賑わいに、かえって人生のはかなさ、無常を感じとってしまった。「あと100年もたったら、ここにいる人々は死んでしまうにちがいない。どんなに楽しくても、移りゆく時間のなかではすべてが虚しいばかりではないか。虚しさから逃れる永遠の道はないものか……」祭りの騒ぎのなかに虚しさを感じた少年たちは、虚しさから逃れるために、真理を求めて出家することにした。二人は、当時懐疑論を唱えていたサンジャヤの弟子となった。だが、サンジャヤの教えをたちまち理解した二人は、永遠の真理は別にあるはずだ、と考えるようになった。ならば、一緒にいるよりも別れて、その真理を探しに行こうではないか。もし、どちらか一方が先に真理を悟ったら、互いに知らせ合おう。こんな約束を交わして別れ、旅立った。そしてついに、シャーリプトラはアッサジを通じてお釈迦様と出会う。親友のモッガラーナもまた、喜びで輝かんばかりのシャーリプトラの顔を見て、すべてを理解した。二人は、お釈迦様の弟子になることにした。サンジャヤの教団で指導的立場にある二人が、お釈迦様の弟子になったと知り、信者250人は、全員がお釈迦様の下に走った。シャーリプトラは、最高の悟りを開き、教団の発展に大いに貢献したのであった。だが、先に入滅する許しを得ると、故郷に帰って病気で亡くなったとされる。末期の床で、母をはじめ多くの親族を仏教に帰依させたという。
  サーリプッタの生活や心境を『テーラガーター』は次のように伝えている。
九八一 正しく行ない、心を落ち着けている人のようによく気をつけていて、正しく意志して行ない、怠らず、内に反省することを楽しみ、みずからよく心の安定をえて、ただ独りでいて、そして満足している者 - かれを人々は(修行者)と呼ぶ。
九八二 水分ある食物も、乾いた食物も、食べるときは、過度に飽食してはならない、修行者は腹をみたすことなくして、適量を食べ、よく気をつけて、遍歴せよ。
九八三 四くちか、五くちの食物を得ることができなかったら、水を飲むがよい〔修行に〕励む修行者にとっては、〔これだけで〕安楽に住するに足る。
九八四 この目的に適し、着るにふさわしい衣服を受けるならば、〔修行に〕もっぱら励む修行者にとっては、〔これだけで〕安楽に住するに足る。
九八五 結跏趺坐しているときに、膝にまで雨が降らなければ、〔修行に〕もっぱら励む修行者にとっては、〔これだけで〕安楽に住するに足る。
九八六 楽しみを苦しみと見、苦しみを矢と見、両者の中間にみずからとどまらないならば、かれは、この世においてそもそも、何にかかずらうであろうか?
九八七 悪い欲望をいだき、怠惰で、元気がなく、学ぶこと少なく、他人を尊敬しないような人が決してわたくしにはかかずらいませんように。― その人はこの世において、そもそも、何にかかずらうでしょうか?
九八八 ひろい学識があり、聡明であり、もろもろの戒行によく専心し、そして、心の平静をうることに専念する者〔かれこそ、わが〕頭上に立て。
九八九 ひろがる妄想にふけり、妄想を喜びとする獣〔のごとき者〕、― かれは、無上の安らぎ、安穏を獲得するにいたらない。
九九〇 妄想を捨てて、妄想のない道を楽しむ者、- かれは、無上の安らぎ、安穏を体得するにいたる。
九九一 村でも、林でも、低地でも、平地でも、聖者たちの住む土地は、楽しい。
九九二 〔人のいない〕森は楽しい。世人が楽しまないところにおいて、貪りを離れた人々は、楽しむであろう。かれらは、快楽を求めないからである。
九九三 〔おのが〕罪過を指摘し、あやまちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その聡明な人につき従え ― 隠している財産のありかを告げてくれる人につき従うように。
そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことはない。
九九四 〔他人を〕訓戒せよ。教えさとせ。よろしくないことから[他人を]遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれる。
九八五 〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッダは、他の一人の人のために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。
九九六・九九七 わたしが聞いたことは、空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。実に、わたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕を得るためではなく、すぐれた透視〔力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を得るためでもなく、死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める〔通力〕を得るためでもなかった。
九九八 頭を剃り、重衣をまとった智慧第一の長老ウパティッサ(サーリプッタ)は、樹の根もとで、瞑想する。
九九九 思考をなさない境地に到達した、完全にさとった人(ブッダ)の弟子は、つねに貴き沈黙を具現している。
一〇〇〇 聴岩山が確固として不動であるように、そのように、修行者は迷妄を滅ぼしているから、山のごとく、揺れ動くことがない。
一〇〇一 汚点なく、つねに済浄を求める人には、毛の先ほどの悪も、雲のような大きさに見える。
一〇〇二 われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、この身を捨てよう。
一〇〇三 われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。この身体を捨てるであろう。 - 傭われたわれた人が賃金をもらうのを待つように。
一〇〇四 二つの極端のどちらによっても、死のみである。〔この生涯に〕先にも後にも不死はない。道を実践せよ。滅びるなかれ。瞬時も空しく過ごすな。
一〇〇五 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過ごした人々は、地獄に堕ちて、苦しみ悩む。
一〇〇六 かれは、こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮つくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き払う - 風が樹の葉を吹き払うように。
一〇〇七 こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮つくことなく、もろもろの悪しき質を吹き捨てよ。- 風が樹の葉を吹き捨てるように。
一〇〇八 こころ静かに、煩労なく、心が清く澄んで、けがれなく、性行が良く、聡明であり、苦しみを滅ぼす者であれ。
一〇〇九 こういうわけで、ある在家の人々をも、さらに出家者をさえも、信頼してはならない。もとは善良であっても、のちに不良となる者どもがいる。また、もとは不良であっても、のちに善良となる人々がいる。
一〇一〇 官能的欲望と、害心と、ものうさと、ざわつきと、疑惑 ―、これらの五つは、修行者にとって、心の汚れである。
一〇一一 尊敬をうけていても、また尊敬されていなくても、どちらであろうとも、つとめはげんで生活する者は、精神の安定がゆらぐことがない
一〇一二 瞑想し、堅忍不抜で、もろもろの見解を微細なところまで洞察し、執著を滅すのを楽しんでいる人、- かれを〈立派な人〉と呼ぶ。
一〇一三 大海、大地、山、さらに風も、師(ブッダ)のすぐれた解説を説くのに、瞥えとするにふさわしくない。
一〇一四 大いなる智慧あり、心の安らぎに達し、〔ブッダに〕従って〔真理の教えの〕輪を廻す長老(サーリプッタ)は、地と水と火に等しく、染まらず、汚されない。
一〇一五 智慧の完成に達し、大いなる識別力ある、偉大な聖者は、愚者のようであって愚者ではない。つねに安らぎをえて歩む。
一〇一六 わたしは、師(ブッダ)に仕えました。プッダの教えを実行しました。重い荷をおろしました。迷いの生存にみちびくものを根だやしにしました。
一〇一七 怠ることなく、つとめ励めよ。これが、わたしの教えさとしである。さあ、わたしは、円かな安らぎに入ろう。わたしは、あらゆることがらについて解脱している。
 またサーリプッタが詩人ヴァンギーサからほめたたえられたという話も伝えられている。
一 あるときサーリプッタ尊者は、サーヴァッティー市のジェータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。
二 そのときサーリプッタ尊者は、修行僧たちに、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、ていねいで、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。
そうしてその修行僧たちはその意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。
三 そこでヴァンギーサさんは、次のように思った、―「このサーリプッタ尊者は、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、ていねいで、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。そうして、その修行僧たちは、その意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。さあ、わたしは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向かって称讃しよう」と。
四 そこでヴァンギーサさんは、座席からたち上がって、上衣を一つの肩にかけて、サーリプッタ尊者に向かって合掌して、サーリプッタ尊者に次のようにいった、―「サーリプッタさん。わたしは、ふと思い出すことがあります。ふと思い出すことがあります。」
五 〔師いわく、―〕
「ヴァンギーサさん。では思い出せ。」
六 さてヴァンギーサさんは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向かって称讃した。
「智慧が深く、聡明な英智に富み、種々の道に通達し、大いなる智慧あるサーリプッタは、もろもろの修行僧に、ことわりを説く。
 かれは簡略に説くこともあり、また、詳しく語ることもある。九官鳥の鳴き声のように、〔自由自在な〕弁舌の才を発揮する。
 かれが、魅惑的な、聞くに快い、甘美な声で教えを説いているとき、その甘く快い声を聞いて、修行者たちは、心喜び、なごんで、耳を傾けた。」
(サンユッタ・ニカーヤ1.8.6.)



モッガラーナ尊者 (ウダーナ 3-5,4-4,5-6にも登場)
 仏教では、次の6つの超能力があるとされている。
―、望むところに行く力(神足通)
二、運命を予知する力(天眼通)
三、鋭い聴力(天耳通)
四、人の心を知る力(他心通)
五、過去世の姿を知る力(宿命通)
六、真理を悟る力(漏尽通)
お釈迦様も、その多くの弟子たちも、この超能力を持っていたという。なかでもモッガラーナ尊者は、超能力つまり神通力では誰よりも勝っていたので、神通第一といわれていた。
 モッガラーナ尊者とサーリプッタ尊者の二人は、「二大弟子」ともいわれる。幼いころから仲良しの二人は、弟子となってからも協力して仏教教団を支えた。
 モッガラーナ尊者の説法でお釈迦様の教えを信じる者は増えた。しかし、信者を失う教団もあった。対立教団のなかには、モッガラーナを激しく憎む者がいた。そして、モッガラーナを、襲わせたのである。だが、最初の襲撃、2度目の攻撃も、超能力により事前にそれを察知したモッガラーナは、無事であった。3度目に襲撃を知ることができた。だが、これほど執拗に襲われるには。なにか深い理由があるに違いないと考え、自らの前世を超能力で振り返ってみた。
 すると、驚いたことに、自分は前世において目の見えない親を殺そうとしていたことがわかった。馬車で両親を郊外に連れ出すと、どうせ目が見えないのだからと、盗賊を装って、襲いかかったのである。目が見えないながらも、盗賊の襲撃を察知した親は、大声で叫んだ。「息子よ、私たちのことはいいから、とにかくお前だけでも無事逃げておくれ」 盗賊を装った前世のモッガラーナは、深い後悔の念に苛まれ、振り上げた剣を下ろしたという。やがて、両親を馬車に乗せると、とぽとぽと街に帰っていった。その報いで、今、命を狙われている。自らの業を知ったモッガラーナは、逃げようとはしなかった。
 その後、モッガラーナは盗賊に襲われた。盗賊は、風のようにその場を立ち去った。
4度目の襲撃も超能力を使って事前に察知すれば、逃げることができたはずである。だが、モッガラーナは、あえてそれをしなかった。超能力でその場をしのぐことができても、前世の業はどのようにも解決できないのである。彼は、一切の超能力を使うことなく、前世の報いを受け入れたのであった。
 サーリプッタに続いてモッガラーナを失ったお釈迦様の悲しみは、いかばかりであったろう。絶大な信頼を寄せていた弟子2人を、失ったのである、それからほどなくして、お釈迦様も入滅したのであった。
モッガラーナの生活や心境を『テーラガーター』は次のように伝えている。
一一四六 われらは、森に住む者、托鉢して食物を得る者、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。内に心のよく安定した者となって、悪魔の軍勢を打ち破ろう。
一一四七 われらは、森に住む者、托鉢によって食物を得る者、であって、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。悪魔の軍勢を追い払おう、- 象が刄の生えている住居を払いのけるように。
一一四八 われらは、樹の下に住む者、堅く耐え忍ぶ者、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。内に心のよく安定した行となって、悪魔の軍勢を打ち破ろう。
一一四九 われらは、樹の下に住む者、堅く耐え忍ぶ者、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。悪魔の軍勢を追い払おう、-象が葦の生えている住居を払いのけるように。
一一五〇 肉と筋とで縫い合された骸骨の小舎、悪臭を放つ身体は、厭わしいかな。他のものである肢体を、そなたはわがものであると思いなしている。
一一五一 皮膚でつなぎ合わせた糞袋よ。胸に潰瘍をもつ魔女よ。そなたの身体には、九つの(孔から流出する)流れがあり、常に(液汁が)流れ出ている。
一一五二 糞尿に礙えられているものよ。そなたの身休には、九つの(孔から流出する)流れがあり、悪臭を放っている。清らかなることを求める修行僧は、それを避ける。-排泄物を避けるように。
一一五三 わたしが、そなたを知るように、そのように、もしも人がそなたを知るならば、あたかも雨季に肥溜を避けるように、人は遠く離れて、そなたを避けるであろう。
一一五四 〔遊女は答える、― 〕「このことは、あなたのおっしゃるとおりです。偉大な健き人よ。道の人よ。或る人々は、老いた牛がぬかるみの泥の中にはまりこむように、この〔不浄な身体〕に落ちこむのです。」
一一五五 〔大モッガラーナが説いて言う、― 〕他の染料で、空中に絵を画こうと思う者があれば、それは身の破滅を生ずるもとにほかならない。
一一五六 内によく安定したこの心は、虚空のごとくである。悪心ある女よ。蛾が火むらに近づくように、われを奪い去ることなかれ。
一一五七 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
一一五八 数多くの徳性をそなえたサーリプッタが〔死の〕安らぎに入ったとき、そのとき恐ろしいことが起った、- そのとき身の毛のよだつことが起った。
一一五九 もろもろのつくられた事物は、実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが安楽である。
一一六〇 五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。- 毛の尖端を矢で射るように。
一一六一 またもろもろの形成されたもの(諸行)を(アートマンとは異なった)他のものとして見て、アートマンであるとは見ない人々は、精妙なる真理に通達した。- 毛の尖端を矢で射るように。
一一六二 刀が体に刺さっている場合に〔刀を抜き去る〕ように、頭〔髪〕に火がついている場合に〔急いで火を消そうと努める〕ように、愛欲の貪りを捨て去るために、修行僧は、気をつけながら遍歴すべきである。
一一六二 刀が体に刺さっている場所に〔刀を抜き去る〕ように、頭〔髪〕に火がついている場合に〔急いで火を消そうと努める〕ように、生存の貪りを捨て去るために、修行僧は、気をつけながら遍歴すべきである。
一一六四 自己を修養し最後の身体をたもっている人(ブッダ)に促されて、わたしは、鹿母講堂なる宮殿を、足の指で震動させた。
一一六五 これは、のんびりしたことをめざしているのではない。あらゆる絆をちぎり裂くこの安らぎ(ニルヴァーナ)に達することは、わずかな気力をもってしては、できないはずである。
一一六六 年は若いが、この修行者、この最上の人は、悪魔とその軍勢とにうち勝って、いまは最後の身体をたもっている。
一一六七 雷の電光は、ヴェーバーラ山とパンダヴァ山との岩の裂け目に落ちる。無比の立派な修行者(ブッダ)の子は、山の岩石の裂け目におもむいて、瞑想する。
一一六八 静かな安らいの境地に達し、辺境なところを臥坐所とする聖行(大力ッサパ)は、最上のブッダの相続者であって、梵天に敬礼される人である。
一一六九 バラモンよ。静かな安らいの境地に達し、辺境なところを臥坐所とする聖者にして、最上のブッダの相続者である力ッサパに敬礼せよ。
一一七〇 およそ人が、くりかえし人間に生まれて、しかもみなバラモンとして生まれ、ヴェーダ聖典に通暁した学者であって、
一一七一 三種のヴェーダ聖典を読誦し、その奥義に達したものであったとしても、この人を敬礼するのは、〔大カッサパを敬礼する場合の〕十六分の一にも値しない。
一一七二 朝食前に、八つの解説を順と逆とのしかたで体得して、それから托鉢に出かけるところの、
一一七三 そのような修行者を襲撃してはならない。バラモンよ。自己を破滅させてはならない。そのような尊敬さるべき人(アラハット)にたいして、心に信をおこせ。すみやかに合掌して敬礼せよ。- なんじの頭が〔七つに〕裂けることのないように。
一一七四 輪廻にみちびかれ、正しい真理の教えを見ない者は、曲りくねった路・邪道をかけめぐり、下に堕ちる。
一一七五 糞にまみれた飢虫のように、もろもろの事象(ごみくず)に心を迷わされ、利益や尊敬を受けることに沈潜し、ポッティラは、空しく〔この世を去る。〕
一一七六 両方において解脱を得、内によく心の安定した、この容姿端麗なサーリプッタがやって来るのを見よ。
一一七七 かれは、〔愛執の〕矢を抜き、束縛を滅ぼし、三種の明知かあり、死(悪魔)を捨て去り、供養を受けるにふさわしく、人々のための無上の福田(功徳を生ずるもと)である。
一一七八 これらの多数の神々、一万の神々は、神通力をもち、名声あり、すべてみな梵天を主導者としているが、モッガラーナに敬礼しつつ、合掌して立って、〔こう言った。〕―
一一七九 生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。―もろもろの汚れを滅しておられるあなたに。師よ。あなたは、供養を受けるにふさわしい方です。
一一八〇 あなたは、人間や神々に供養され、死に打ち克つ人として現はれて来ました。白蓮華が〔泥〕水に汚されないように、もろもろの事象に汚されません、
一一八一 かれは一瞬のうちに千回も世界を見通した。かの修行者は、大梵天のごとくであり、神通力という徳に関しても、生死を知ることに関しても自在であり、適当な時に神々を見る。
一一八二 サーリプッタは実に、智慧と戒行と平静とによって彼岸に達した修行者であり、そのように最高の人である。
一一八三 わたしは、幾万億の数の自己のすがたを、一瞬のうちに化作しよう。わたしは種々に身を変化することに巧みで、神通に熟達している。
一一八四 モッガラーナ姓の者であるわたしは、禅定と明知との違人であり、完成に達し、無執着なる(ブッダ)の教えにおいてしっかりと確立し、もろもろの感官の安定を知っていて、束縛を断ち切った。 - 象が腐った蔓草を断ち切るように。
一一八五 わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。
一一八六 わたしが出家して家無き状態に入ったその目的を、わたしは達成した。それは、すべての束縛を滅ぼしつくすことであった。
一一八七 ドゥッシン〔という悪魔〕が〔仏〕弟子。ヴィドゥラとバラモン・カクサンダヒを襲って地獄で煮られたが、その地獄はいかなるものであったか?
一一八八 〔そこには〕百本の鉄の串があり、それらはみな、おのおの苦痛を与える。ドゥッシンが、〔仏〕弟子ヴィドラと、バラモン・カクサンダとを襲って、〔そのために〕煮られたところの地獄とは、このようなものである。
一一八九 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう。カンハ(黒い魔)よ。
一一九〇 大きな湖の中央に、もろもろの宮殿が一劫の間、立っていて、それらは、ルリ色をし、麗しく、火炎か燃え、光り暉いているそこでは、色とりどりの多数の天女か舞っている。
一一九一 仏弟子、修行僧にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう。カンハ(思い魔)よ。
一一九二 修行僧の群が見守っているときに、ブッダに促されて、鹿母講堂たる宮殿を足の親指で震動させたところの、
一一九三 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ
一一九四 わたしが神通力に支えられて、母の親指で、帝釈天の宮殿を震動させたところが、神も驚愕したところの、
一一九五 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ
一一九六 帝釈天の宮殿において、かれ(モッガラーナ)は帝釈天に問うた、- 「友よ。そなたは妄執の消滅である解脱を知っているか?」と。かれに問われて、帝釈天は、ありのままに答えた
一一九七 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ
一一九八 〔梵天の世界にある〕善法講堂において、会衆の面前で、かれ(モッガラーナ)は梵天に問うた.― 「友よ。そなたは以前にいだいていた見解を、今もなおもっているか? また、そなたは、梵天界において光輝が遷り消えていくのを見るのか?」
一一九九 かれに問われて、梵天は、ありのままに答えた、― 「師よ。わたしは以前に
いだいていた見解と同じ見解を、もはやもっていません。
一二〇〇 わたくしは、梵天界において、光輝が遷り消えていくのを見ます。いまでは、わたくしは、「わたしは常住であり、常恒である」ということをどうして、言えるでしょうか。
一二〇一 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならは、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ。
一二〇二 解脱によって、スメール大山の峰を見、プッバヴァデーハ(束の大陸)の林と地上に住む人々を見たところの、
一二〇三 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならは、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ。 
一二〇四 実に、火は「わたしは、愚行を焼こう」とは思わない。しかし心から、愚行は、その燃える火に近づいて、焼かれる。
一二〇五 悪魔よ。それと同様に、そなたは、かの完全な人格者を襲って、火に触れた愚者のように、みずから自己を焼くであろう。
一二〇六 悪魔は、かの完全な人格者を襲って、禍をかさねた。悪魔よ。そなたは「わたしの忠〔業の報い〕は熟さない」と思っているのであろうか?
一二〇七 破滅させる悪魔よ。そなたが悪をなすにつれて、長い年月にわたって、悪業が積みかさねられる。悪魔よ。ブッダのもとから遠ざかれ。修行者たちに思いを寄せるな。
一二〇八 このように、修行者は、ベーサカラー林において、悪魔を叱責した。そこで、かの消沈した夜叉(悪魔)は、その場で、隠れてしまった。
   尊き人・大モッガラーナ長老は、このように詩句を唱えた。
   詩句の要綱
 六十の詩句の集成においては、大神通力のある大モッガラーナ長老ただ一人がおり、そ
の詩句は六十八ある。(実際は六十三ある。)
また詩人の修行僧ヴァンギーサは、モッガラーナを讃えた、「モッガラーナ」という一節には、次の詩が伝えられている。
一 あるとき尊師は、玉舎城の〈仙人の山〉の山腹で、黒曜岩のところで五百人もの大勢の修行僧の仲間とともに住んでおられた。かれらはすべて〈敬わるべき人たち〉であった。大モッガラーナ尊者は、かれらの心をしらべて、その心が解脱していて、こだわりのないものであることを知った。
二 ときにヴァンギーサさんは、次のように思った、いまここに尊師は、工舎城の〈仙人の山〉の山腹で、黒曜岩のところで、五百人もの大勢の、修行者の仲間とともに住しておられる、かれらはすべて〈敬わるべき人たち〉である。大モッガラーナ尊者は、かれらの心をしらべて、その心が解脱していて、こだわりのないものであることを知った。さあ、わたしは、ふさわしい詩句をもって、尊師の面前で、大モッガラーナをほめ讃えよう」と。
三 そこでヴァンギーサさんは、座席からたち上がって、上衣を一方の肩につけ、尊師に向かって合掌し、尊師に次のようにいった、―「尊師さま。わたくしは、ふと思い浮かぶことがあります。幸せなお方さま。わたくしは、ふと思い浮かぶことがあります。」
四 「ヴァンギーサよ。では思い出して説け」と、尊師はいわれた。
五 そこでヴァンギーサさんは、ふさわしい詩句をとなえて、尊師の而前で、大モッガラーナをほめ讃えた 。
「三種の明知あり、死を捨て去った仏弟子たちは山腹に坐り、苦しみの彼岸に達した聖者(ブッダ)に仕えている。
大神通力のあるモッガラーナは、〔みずからの〕心をもってかれらの心を精査し、かれらの心がすっかり解脱し、こだわりのなくなっているのをたずね求める。
こういうわけで、かれらは、〈あらゆる屈性を具え、苦しみの彼岸に達し、幾多の美徳を具えた聖者〉ゴーダマに仕える。」



マハーカッサパ尊者 (ウダーナ 1-6,3-7にも登場)
 清らかな精神を追い求めた実質的なお釈迦様の後継者と目されている。尊者マハーカーシャパは、頭陀行第一といわれた。頭陀行というのは、衣食住に対する執着を払いのけるために実践しボロで作った衣を着なければならないという行で、町の人々からもらった糞掃衣をまとって生活をした。あるいは、常に托鉢して歩き、布施されたものを一日1食だけ摂って生活するという行も、その通りに実践した。出家してから生涯を終えるまで、このような頭陀行を実践し続けたと伝えられている。
 マハーカーシャパは本名をピッパリといい、裕福なバラモンの子として生まれた。幼いころから求道心が強く、出家に対する激しい憧れを持っていた。父母は、子供のそうした望みを知っていたので、早くに嫁をとらせ、家を継がせようとした。
結婚すれば、落ち着くと思ったのである。ピッパリが年ごろになったとき、父母は言った。
「嫁を迎え、早く安心させておくれ」
だが、出家の望みを絶ちがたいピッパリは、黄金の娘の像を作らせて、父母に結婚を断るための条件を出した。
「もし、光り輝くこの像より美しい乙女がいるようなら、結婚いたしましよう」
 父母は、人をやってそれより美しい娘を探し出したのである。バッター・カピラーニーというバラモンの娘であった。
 嫁にふさわしい娘がいたと聞いたピッパリは、自分の眼で確かめるため托鉢する修行者に身をやつして、娘の家を訪ねた。そこで施しを乞うと、出てきたのは、バッターであった。これが話に聞いた娘に違いないと思ったピッパリは、正直に身分を明かし、生涯独身で清浄な生活を送りたいという自分の望みを素直に打ち明けたのである。
 「ああ、その話を聞いて安心いたしました。実は、私も同じ思いだったのです」
 なんとバッターも同じ希望を持っていたのであった。
 二人は、それぞれの親を安心させるために結婚することにした。だが、決して床を共にすることはなかった。
 時が過ぎて、すでに父母も亡くなっていたが。二人の清浄な関係は変わらない。ある日、油を搾り取ろうと胡麻を乾かしていたバッターは、そこにたくさんの小さな虫を見つけた。今まで油を作るために、知らずに虫を殺していたのかもしれない。その罪を思うと、殺生するわが身があさましく思われた。そのころ、畑で農作業をしていたピッパリもまた同じ思いにとらわれていた。
帰宅した二人は、互いの気持ちを語り合い、ついに家を捨てて出家することにした。
家財をことごとく使用人に分け与えると、自分たちは衣となる布を持って旅だったのであった。
 「良い師に巡り会ったら、必ずお前に知らせる。それまでは、別の道を歩もう」
 二人は再会を約束して、それぞれ別の道を歩いていった。
 妻と別れ、各地を旅して回ったピッパリは、ニグローダの樹の下に坐っているひとりの聖者に出会った。その姿は、見るだけで心が清らかになるようである。その聖者こそお釈迦様であった。
 「あなたこそ、私の師です。どうか私を弟子にしてください」
 こうして、ピッパリはお釈迦様の弟子となり、カーシャパ(カッサパ)族の出身であるため、以来マハー(偉大なる)カーシャパと呼ばれるようになったのである。
教えを聴いて8日目、マハーカーシャパは悟りを開いた。尼僧教団ができると、マハーカーシャパは、神通力で妻のバッターを捜し出し弟子入りさせた。お釈迦様の入滅後は、その教えをまとめるなど、実質的な後継者として活躍したのは、よく知られる。
マハーカーシャパの生活や心境を『テーラガーター』は次のように伝えている。
一〇五一 群集に尊敬されて遍歴すべきではない。〔もしもそうするならば〕心が乱れ、心の安定は 得難いであろう。さまざまな人々から受け容れられるのは苦しみである、と見なして、群集〔と交わること〕を喜んではならない。
一〇五二 聖者は良い家庭に近づいてはならぬ。〔もしもそうするならば〕心が乱れ、心の安定は得難いであろう。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。
一〇五三 けだし、かれら(修行者)は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っているからである。細かな(鋭い)矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。
一〇五四 わたしは坐臥所から下って、托鉢のために都市に入って行った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、かれの側に恭しく立った。
一〇五五 かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。かれが一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、かれの指もまたち切れて、そこに落ちた。
一〇五六 壁の下の所で、わたしはその一握りの飯を食べた。それを食べているときにも、食べおわったときにも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった。
一〇五七 〔戸口に〕立って托鉢によって得たものを食物とし、(牛などの)臭気ある尿からつくられたものを薬とし、樹の下を坐臥所とし、ボロ布をつづった衣を衣服として、これだけで満足している人、かれこそは、四方の人である。
一〇五八 屹え立つ岩山に登ろうとして、生命を失う人々がいるのに、かのブッダの相続者であるカッサパは、気をつけながら、心を落ち着け、神通力に援けられて、そこへ登って行く。
一〇五九 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山にいって、執著なく、おそれおののきを捨てて瞑想する。
一〇六〇 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山に登って、執著なく、焼かれ(悩んで)いる者どものなかにいながら安らかとなり、瞑想する。
一〇六一 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山に登って、執著なく、なすべきことをなし終えて、煩悩の汚れなく、瞑想する。
一〇六二 カレーリの花輪にひろく覆われた楽しい地域がある。象の鳴き声が聞えるこれらの玄妙な山岳は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六三 碧き雲の色を帯び、麗しく、冷たい水あり、清き流れあり、インダゴーパカ虫に覆われたこれらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六四 碧き雲の峰にも似、優雅な高き殿堂のごとく、象の鳴き声が聞えるこれらの玄妙なる岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六五 愛しい台地には雨が降り注ぐ。山々には仙人がしばしば訪れる。岩山では、孔雀が甲高く嗚いている。それらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六六 しっかりと決意して瞑想に沈潜しようと欲しているわたしにとって、〔この場所で〕充分である。しっかりと決意して目的を違成しようと欲している修行者であるわたしにとって〔この場所で充分である。〕
一〇六七 しっかりと決意して快適な境地を得ようと欲している修行者であるわたしにとって、〔この場所で〕充分である。しっかりと決意してヨーガを修行しようと欲している(立派な人〉であるわたしにとって、〔この場所で〕充分である。
一〇六八 雲に覆われた空のように、ウンマー花の衣をまとい、さまざまの鳥が群がるそれらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六九 世俗の(在家の人)たちがざわめかず、鹿の群れが往来し、さまざまの鳥の群がるそれらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇七〇 清く澄んだ水あり、ひろびろとした岩盤あり、黒面の猿と鹿がいて、水と苔で覆われている岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇七一 心を集中し、道理を正しく観ずる人に起るような楽しみは、五種の楽器によっては起らない。
一〇七二 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。人々を避けよ。〔雑な縁をつくり出すために〕努め励んではならない。がつがつして味に耽溺する行は、幸せをもたらす目的を見失う。
一〇七三 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。この、目的にみちびかぬことがらを遠ざけるがよい。〔もしも、そうしなければ〕、身体は悩み、疲労する。かれは、苦しんで心の平静を得ることはできない。
一〇七四 人は唇を動かして〔教えを学ぶ〕だけでは、自己〔のなんであるか〕をさとらない。〔ところが〕かれは、首を硬直させて歩き廻り、「自分は他の者よりもすぐれている」と思っている。
一〇七五 愚者は、他人よりもすぐれてはいないのに、白分をすぐれた者だと考える。しかしながら、識見ある人々は、心の硬直したこの者を称讃しない。
一〇七六 「わたしはすぐれている」とか、また「わたしはすぐれていない」とか、「わたしは劣っている。あるいは同等である」とか、いろいろに言って動揺することがなくて、
一〇七七 智慧あり、立派な人で、もろもろの戒行のうちによく心が安定し、心の平静を具現している一人 - かれを、実に、識見ある人々はほめたたえる。
一〇七八 ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えから遠く離れている。- 虚空が大地から遠く離れているように。
一〇七九 また、つねに正しく慚愧の念を確立している人々には、清らかな行ないが増大している。かれらが、迷いの生存を再び繰り返すことは、滅ぼし尽されている。
一〇八〇 浮ついていて、ふらふらしている修行者が、たとい、ボロ布でつづった衣をまとっていても、そうだからとて、かれは。立派には見えない。― 猿が獅子の毛皮をまとっているようなものである。
一〇八一 浮つくことなく、ふらふらせず、賢明で、もろもろの感官をよくととのえた者は、ボロ布でつづった衣をまとっていても、立派に見える。――山窟に住む獅子のように。
一〇八二 これら多くの神々、- 神通力を具え、名声ある数万の神々、- これらは、すべて、梵天の眷族である。
一〇八三 賢明にして偉人な瞑想者であり心の安定している〈真理の将軍〉サーリプッタにたいして、かれらは、礼拝・合掌して、立っていた。〔- つぎのように、たたえながらー 。〕
一〇八四 「生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。あなたがなにに基づいて瞑想しておられるのか、-わたくしたちは、それを知りません。
一〇八五 ああ、すばらしいことです。深遠なことです。- 真理をさとった人々(プッダ、複数)の自身の境地は! わたくしたちの思い知るところではありません。たとい、わたくしたちが、毛髪の先を射る者のように極めて微細なことを突きとめ得る人々の集まりであったとしても。」
一〇八六 尊敬を受けるにふさわしいそのサーリブッタが、そのとき、そのように神々の群れから 尊敬されているのを見て、カッピナはほほえんだ。
一〇八七 〔福徳を生ずる〕ブッダの田に関する限り、偉人な聖者(ブッダ)を除いて、わたしは(悪を払いのける〉という徳において傑出している。わたしに等しい者は存在しない。
一〇八八 わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。
一〇八九 測り知れないゴータマ〔ブッダ〕は、衣服にも、臥床にも、食物にも執著していない。 - 蓮華の花が水に汚されないように。かれは、出離に心を傾注し、三界から離れている。
一〇九〇 かの偉大な聖者・偉大な智者は、〔四種の〕心の専注を頸とし、信仰を手とし、智慧を頭とし、つねに安らぎを得て生活している。
   大力ッサパ長老

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