ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章8カッチャーナの経 (解説・2)


7.8 カッチャーナの経


(直訳詩)
Yassa siyā sabbadā sati,
常にきづきが、あるなら
Satataṃ kāyagatā upaṭṭhitā;
身体の、きづきが常に、そこにある
No cassa no ca me siyā,
私は、あったであろうでなく、そして、私は、これからも、あるであろうでなく
Na bhavissati na ca me bhavissati;
あるであろうことなく、そして、私は、あるであろうことなく
Anupubbavihāri tattha so,
そこでは、その時その時に住む人となり、
Kāleneva tare visattikan”ti.
その時に執着を渡る


  もう少し詳しく解説します
No ca-assa no ca me siyā,
Na bhavissati na ca me bhavissati;
 私はあるであろうことなく、を四回重ねた文章で、涅槃は、言葉では表現できない、
ことがらであることを表現しています。


 時間論も語っています、瞑想していると私がいない、幻覚(Papañca)に、騙されていたとわかり。過去でも私に対して煩悩が生まれる。私のものに対して煩悩が生まれる。だから、私がいなかったら、そこで過去からあった煩悩は消える。
 将来の期待は、時間的に将来はあるけど私がいないのです。将来に私のものはない。だから、将来に対する期待すべては消える。
 そこで、いま現在、確実に物事は変化する、そこで私がいないと発見して。期待すべては消える。その自由が解脱です。自分がいないと、ついでに自分のものもない。でも一般人に理解出来ないのです。
 過去・現在・未来の問題は解決しましたと。覚ってない人には過去・現在・未来があり、苦しいでしょう、とこの詩はいっています。これは私がいるからです、私という固定した概念は、意味も実体も持たない空の単語(ラベルを貼った言葉・なづけられたもの)であると、過去、未来、現在に渡って理解する。
 覚る人は、空であると。それで空である、また空処という単語も使います。現象は空処であり、私というものがあるかのごとく見えることというのは覚ってない人の実感・認識で空処ではないのです。鏡に映る、自分のイメージが映りますね。でも、自分ではない。鏡の中に何もないのです。ただのガラス板で、見たらいる、私が。このあるかのごとく見えることは覚者の目で見れば空処と言うのです。空(Suñña)が、という単語を使わないで、お釈迦さまが空について語っているのです。
 時間感覚は私という錯覚がある時のみ成り立ちます。世界は、時間ですごく引っかかっています。膨大な概念です。時間と言うことは。自分いるっていうとこから、時間が成り立つ。その人は言うのです、「私がいてもいなくても、月はある」と、でも宇宙論も語っています、「私がいるから、月がある」、それ本当は、「私がいるという錯覚があるから、月はある」となるのだよと、でも、それは理解してくれないでしょ。
 それは、言葉で、思考で理解できない境地についての仏教の本当の哲学的なところですね。このウダーナで、これ語っていますよ。軽々と。


次の詩にいきます
Anupubbavihāri tattha so,
Kāleneva tare visattikan”ti.
 Anupubbavihāri 原因と条件を合わせて一時的な現象が起こる、という意味。
  物質は物質の法則で流れて行く。感覚などなどのこころのセクションがその法則で流れ
 ている。その場合には、自然法則、因果法則によって成り立つことがあるのです。それで
 身体という物体に、あの部品が減っていくと、一般人はお腹が空いたと言いますけど、お
 腹が減った、飯を食わなくちゃとか、品のない単語を使いますけどね。そうじゃなくて
 、あれは物質のあるシステムの中にちょっと手当てする必要がありまして、それしてあげ
 るだけなのです。地震が起こること、これ物質の法則で、地球の上に立っているものが地
 球が揺れると倒れるとしていることも自然法則であって、手を出してそれ倒れないように
 する。それには自我いる?これ物質の法則で自然法則です。地震で家が揺れて壊れたって
 もいいのだけど、これ倒れないようにして、これ壊れないように護ってやるっていうこと
 はないのです。
 人の頭の上に何か、天井が壊れて落ちるとしたら、アラカンがいたならば、それを避けて
 あげるのです。あるいはその人を引っ張って、どこかの安全な所に引っ張って出す。別
 に、私がその人を助けてあげなくては、これはないのです。誰だって生命を助けるべきだ
 と。別に死ぬのだから助けたって意味がないでしょう。どうせ生命は死にますよ。
  それって因果法則のものの流れ、川の流れ、滝の流れ、風の流れ、それと同じことで。
 ここら辺の解説は難しい。とにかく次元が違うのですね。だから、私はいなくても、もの
 は動くということですね。「私がいるという錯覚がないから、月はない」、厳密にいうと
 「私がいるともいないともいえないから、月はあるともないともいえない」ということな
 のですが、難しいので、私がいてもいなくても地球は自転するのだよと。花が咲きますよ
 と。このフレーズを覚えてください。
 そのシステムの中のほんのひとかけらって言うか、ほんのちりぐらいのものだから、自
 分、自分と仮に言っているものは、法則に合わせているのです。
  Anupubbavihāriっていうのは、そのように生き方しているのだと。誰にも訳すことが出
 来ない単語なのです。
  Anupubbaっていうのは日本語にすると「しだい」(次第)、順番で、直訳すると。意
 味がなくなっちゃうでしょ。
 だから、覚者という名称は、ラベルだけです。変化しているある人にラベル貼っちゃう
 と、変化しないようになっちゃうのです。それでラベルって言うのは物質ですから、それ
 は変化するのだけど、概念が生まれるのだからね。この現象は流れるのです。因縁によっ
 て。覚った人もそのまま流れて行って、消えて行くのです。
 わたしが書いた文章も何かわたしにも理解できなくなって。諸々の因縁により起こる反応
 現象は、仮に、覚者と名付ける現象の流れなのです
  Kāleneva tareは、時間が経ったら消えて行く、visattikaṃは、執着すること、捕らわれ
 ることなくという意味で、覚った人は、死んだらどうなるのかと。ただ消えて行く。炎に
 喩えているのです。燃料があったら燃えて、燃料、薪が、燃え終わったら消える。終わ
 り。覚者の色・受・想・行・識の集まりが変化して流れるだけで、そちらに期待・希望・
 願望などは一切ありません。で、覚者っていう仮に言ってる人にも、色・受・想・行・識
 っていう五蘊はあるのです。                                            
 我われは五取蘊ですけど、覚者は五蘊です。執着がないのです。五蘊は普通の法則で流れ
 ているのです。そのうち消えてしまうのです。五取蘊は執着があるから、消えると五取蘊
 を作るのです。家が潰れたら、地震で、やっぱり家造りしましょうとなるのです。執着あ
 るからなのです。システムが壊れる時、それは死なのですね。覚者は、ただ現象は分解し
 ていくだけです。
 輪廻転生を越えたと俗世間、一般的な仏教では、輪廻転生は乗り越えたと言うのですね。
 それは一般人には理解出来る言葉で。お釈迦さまが覚った同士で喋る場合は、こういう難
 しい単語で語るのです。


 この偈は六行で出来ている偈で、仏教哲学と言っても、覚りとは何か、覚ったとは何か、涅槃とは何かっていうところの哲学が語られているのです。あの覚りに達するためには、それなりの修行が必要ですね。そのYassa siyā sabbadā satiっていうのは、この修行のことですね。雑念、妄想、一切なく、きづきを実践しているのです。
 我われは噴水の水を見ると、ひとつの固体として見ているのです。瞬間、瞬間、水が流れて消えて、流れて消えて、永久的に後戻りすることがないものであると理解しないのです。過去の瞬間の水と今の瞬間の水の間でそれほど人間は比較できる差がないから、噴水の水は同じものというふうになっちゃうのです。それで、観察して究極に完成したきづき、観察能力があって、そこで自も他も消えるんです。                             
 手を上げるという行為について、手上げるという意志がこころに生まれたら、そこで感覚がそれに合わせて、手が変化して手が上がる。では、意志が指令したからっていって意志は自由自在じゃないのです。私がやったではないのです。私は手を上げたではないのです。いろんなことが組み合わさって起きたことなのです。自分というラベルを貼った時から、悩み苦しみすべて生まれてくるのですね。今まで、過去も自分がいた、今自分がいる、では将来の自分がどうやってつくろうかということで苦労しているんです。
 覚った人は、過去にもいなかったし、今も私、がいないことから過去に行くのですね。今いないのだったら過去にいたわけじゃない。今いないのだったら、将来に突然私が現れるわけでもないでしょうにと。それものは流れる。そのものも無常であってね、実体がなくて、因縁によって、ちょび、ちょび、と成り立つだけ。これ因縁によって成り立つのです。因縁によって成り立つものが、我われは五官で受け取ったりする。五官で眼の、眼といったって眼というものはないのです。いろんな機能の細胞たちが集まっているだけです、それをまとめて眼と言うのです。
 この偈でね、過去・現在・未来とは何なのか、かつて私がいたのか、私は将来存在するのか、バラモンの哲学、疑問とか、すべてに答えているのです。人は死後いるのか、いないのか。存在するのか、存在しないのか。完全に滅するのか、あるいは存在するとも、しないともどちらでもない何か変な状態になるのかと、仏陀の時代に六二種類の見解があったんだけどね。そういうものに全て纏めて、この六行の偈で答えているのです。
いろんな人々、学者の方々、研究して、ウダーナは解かり易いと、みんな思っているのですがね。この偈みたいなものすごい、消化不可能な偈もあります。

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