ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章8カッチャーナの経 (現代語訳・解説)


7.8 カッチャーナの経(68)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、尊者マハーカッチャーナが、お釈迦様から遠く離れていないところで、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての、きづきが内に全面にしっかり起こり、坐っていたのです。
 お釈迦様は、尊者マハーカッチャーナが、遠く離れていないところ、瞑想姿を組んで身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての、きづきが内に全面にしっかりと起こり、坐っているのを見ました。
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


人には常に、きづき、如実に観察する力があるならば、
常に身体に対する、きづきを確定している
私はいなかった。私のものもなかった
これからも私はいない。私のものもない
今、私はいない。私のものもない
その都度に、その瞬間の条件に、諸々の因縁により起こる反応現象は
 仮に『覚者』と名付ける現象の流れです。
なににも執着すること、捕らわれることなく、時間によって流れる
(81)
            以上が第八の経となる。



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なにが書いてあるか


瞑想について簡単に説明


 お釈迦様は、悟りに達するには、きづい(sati)てみるということをしなくてはならない、その課題を4つ教えています。
 きづき(sati)の課題 
➀.身体をありのままに観察して、観察能力を育てる。kāyānupassanā 身随観
➁.感覚をありのままに観察して、観察能力を育てる。vedanānupassanā 受随観
➂.こころの働きをありのままに観察して、観察能力を育てる。cittānupassanā 心随観
  それは自分のこと、自分のこころのこと
➃.一切の現象をありのままに観察して、観察能力を育てる。dhammānupassanā 法随観
  無常・苦・無我などなど、一切現象のこと。自分の身体にあるもの
 解脱を目指す人は身体の観察からスタートして、それから明確な課題(感覚・心・現象)を観察する方法で進むのですね。そうするとなんとなく身体の集中力が、身体の部品に移って行くのですね。移って行ったらそれぞれの部品も観察するのです。
そのように➀から➃まで瞑想が進んで行く。無理をする必要はないのです。
 このカッチャーナ長老は、自分で身体のことを観察して、それでサマーディに入ったのです。涅槃のサマーディに入ったのです。涅槃サマーディは仏教だけのサマーディです。
 観察する、観察されるという二次元を越えて涅槃という境地に入ります。現象の境地のなかに組み立てられている生命には理解不可能な管轄です。生命という次元を越える境地であり、仏陀の教えの目的でもあります。
 瞑想する時の過程で、観察能力が上がって完成したら、観察する、観察されるという、この二次元的なことがなくなり。主体・客体が消え、言葉で表現することが出来ない。
 私の観察能力が上がって、瞑想が進んで、「私」がいるのです。必要です。「私」がいて「私」が観察すると。だから、主体、客体、両方、そんな区別はなくなったらどう言う。 そこで、主体、客体がなくなったことで100%の観察能力なのですね。
 現象の境地のなかに組み立てられている生命に理解不可能な管轄(次元)です。一般人には理解出来ないこの主体、客体のない世界は。観察する、観察される、これ消えた世界は理解できない。やってみるしかないです。瞑想すれば誰だってその能力は身に付くのです。生命という次元を越える境地であり、仏陀の教えの目的でもあります。主体、客体すべて消えて、自分も消える。それが真理の世界であると。今まで生きていたのは夢(虚構)の世界であると解る、目覚めるのです。


 ウダーナについて、ウダーナの偈を読んで仏教を学ぼうとしても、難しいことが起こります。分からないものはでます。覚った人々の間の「やったではないか! あなたは。そうですね」、そんな感じで、何やったか他の人たちにはさっぱり分からないからです。


(直訳詩)
Yassa siyā sabbadā sati,
常にきづきが、あるなら
Satataṃ kāyagatā upaṭṭhitā;
身体の、きづきが常に、そこにある
No cassa no ca me siyā,
私は、あったであろうでなく、そして、私は、これからも、あるであろうでなく
Na bhavissati na ca me bhavissati;
あるであろうことなく、そして、私は、あるであろうことなく
Anupubbavihāri tattha so,
そこでは、その時その時に住む人となり、
Kāleneva tare visattikan”ti.
その時に執着を渡る
解 説


Yassa siyā sabbadā sati,
人には常に、きづき、があるなら
 *誰かに(Yassa siyā )きづき(sati)があるとするなら、何時(いつ)でも、常に(sabbadā)サティが、きづきがあるとするなら
 *覚りの人のコンディション、条件のことで、いわゆる、サティがあるっていうこと
*如実に観察する力があるならば、ということ
Satataṃ kāyagatā upaṭṭhitā;
常に身体に対する、きづきを確定している
 *観察実践を身体に対してしたならば、確定している。揺らがない。だいたい自分が消え
  ているのですね。
 *自分がいないのだから、妄想はないのです。
 *自分が消えても、現象は消えて、現象のみあって、そこで観察が働いている状態のこと
  を説明しているのです。だから、確定しているのです。身体に対する、きづきが。
 *本人が身体を観察し、物質を観察したところで、自分は存在しないってこと、分かって
  しまった。
No cassa no ca me siyā,
私はいなかった。私のものもなかった。これからも私はいない。私のものもない、
Na bhavissati na ca me bhavissati;
今、私はいない。私のものもない
 *「私」という固定した概念は意味も実体も持たない空の単語であると、過去、未来、現
  在に渡って理解する。
 *時間感覚は「自我」の錯覚がある時のみ成り立ちます。
Anupubbavihāri tattha so,
その都度に、その瞬間の条件に、諸々の因縁により起こる反応現象は
Kāleneva tare visattikan”ti.
なににも執着すること、捕らわれることなく、時間によって流れる
 *覚者の生き方を説明するところです。
 *覚者の色・受・想・行・識の集まりが変化して流れるだけで、そちらに期待・希望・願望などは一切ありません。
*システムが壊れる時(死)、ただ現象は分解していくだけです。
*輪廻転生を越えたと俗世間がいうところです。


  ★次回にもう少し詳しい説明をいたします

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