ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章6渇愛を滅する経 (現代語訳・解説)


7.6 渇愛を滅する経(66)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様はサーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、尊者アンニャーシ・コンダンニャが、お釈迦様から遠く離れていないところで、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて、渇愛の滅した解脱を観察しながら、坐っていたのです。
 お釈迦様は、尊者アンニャーシ・コンダンニャが、遠く離れていないところ、瞑想姿で、身体を真っすぐに立てて、渇愛の滅した解脱を観察しながら、坐っていたのを見ました。
 お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


その人には地に張る根もなく、葉もない
どうしてからみつく蔓があるのか
束縛から解き放たれた賢者を
誰が非難できるか
天の神々たちもまた讃え
梵天(ブラフマー神)からさえも讃えられる
(79)
       以上が第六の経となる。


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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Yassa mūlaṃ chamā natthi,
その人は、根が地になく、
paṇṇā natthi kuto latā;
葉がなく蔓がどこにあるのか。
Taṃ dhīraṃ bandhanā muttaṃ,
縛りから脱せる慧者である人を
ko taṃ ninditumarahati;
誰が非難できるのか
Devāpi naṃ pasaṃsanti,
神々も賞賛し、
brahmunāpi pasaṃsito”ti.
ブラフマー神からも賞賛される




解 説


Yassa mūlaṃ chamā natthi,
その人には地に張る根もなく、葉もない
 *mūlaṃ chamā 
  *人間は地に存在し、地から葉が伸びるように生活する。人の生存欲、根本的な生きる欲は、その人にはないということ
paṇṇā natthi kuto latā;
どうしてからみつく蔓があるのか
 *からみつく蔓とは、世間の人々との関係や根本的な欲
Taṃ dhīraṃ bandhanā muttaṃ,
束縛から解き放たれた賢者を
ko taṃ ninditumarahati;
誰が非難できるか
 *人々となにかの関係があり、その関係の善し悪しによって、認められたり、批難された
  りします。賞賛されるときも批難されるときも相手と自分の関係について考えたほうが
  よいのです。
Devāpi naṃ pasaṃsanti,
天の神々たちもまた讃え
brahmunāpi pasaṃsito”ti.
梵天(ブラフマー神)からさえも讃えられる
 *覚者は存在全体に対して一切関係ないのです。覚者と絡み合うことは不可能です。人が
  賞賛するべきなのは覚者のことです。梵天、神々も覚者を賞賛するのです。



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伝 記


アンニャー・コンダンニャ


 ウルヴェーラーの林で、ゴータマーブッダの成道以前に、六年間苦行をともにしたいわゆる五比丘のひとり。ゴータマが苦行を捨て食事を取るのを見て、見込みがないとそこを去り、ベナレス郊外の鹿野苑の仙人住処に移る。ゴータマはさとりをひらいてブッダとなり、この仙人住処に来て、はじめてそのさとりを説く(初転法輪)。そのとき五人のうち最初にさとりを得て、アラカンに達する。


 最初の弟子アンニャー・コンダンニャについて『テーラガーター』のうちには、次のように詠ぜられている。
六七三 大いなる味わいのある教えを聞いて、そこでわたしはますます信ずるにいたった。いかなる点でも執著がなく、欲情を離れていることが、真理として説かれた。
六七四 この世では、大地の輪円のうちに、多くの美いすがたがある。それらが、古くはあるが欲情をともなう思いをかきたてる、と、わたしは考える。
六七五 風によって吹きあげられた塵を、雲が静めるように、人が明らかな智慧によって見るときに、もろもろの欲望の思いが静まる。
六七六「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るとき、人は苦しみから離れる。これこそ人が清らかになる道である。
六七七 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
六七八「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
六七九 鋭く努め励むコンダンニャ長老は、ブッダにしたがってさとった人であり、生死を断じ、清らかな行ないを完成した人である。
六八〇 激流と縄、強固な杭、砕きがたい山がある。精神を統一して瞑想するかの人は、杭と縄と、破りがたい岩山を、断ちきって、流れを渡り、彼岸に達し、悪魔の束縛から解放されている。
六八一 気が高ぶって浮ついている修行者は、悪友のゆえに、波に打ちのめされて、大きな激流のうちに沈む。
六八二 気が高ぶらず、浮ついていない、慎しみ深く、感官を制御していて、つき合う友人の善い、聡明な人は、やがて苦しみを終滅させるであろう。
六八三 手足はカーラー樹の結節のようであり、体は痩せて、脈管が現われているが、飲食物について適量を知っているから、この人は心が貧しくない。
六八四 森や密林のなかにいて、蚊や虻に刺されながらも、そこで正しく念をこらし、じっと堪え忍ぶべきである。- 戦闘の先陣にいる象のように。
六八五 われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。あたかも傭われた人が賃金をもらうのを待つように、わたしは死の時が来るのを待つ。
六八六 われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時が来る
六八七 わたしは、師(ブッダ)に仕え、ブッダの教えの〔の実行〕を成し遂げた。重い荷をおろし、迷いの生存に導くものを根こそぎにした。
六八八 わたしが出家して家のない状態に入ったその目的を、わたしは達成した。わたしは、どうして叢林に住む必要があろうか。



 もの凄いばかりの真剣な修行者の覚供が現われている。仏教は逐次教団を拡大していったが、アンニャー・コンダンニャ尊者は独自の道を歩んでいたと考えられる。
 また詩人の修行僧ヴァンギーサがコンダンニャをたたえたものとして、次の一節が伝えられている。
一 あるとき尊師は、王舎城の竹林のうちにおるリス飼養所にとどまっておられた。
二・三 ときにアンニャーシ・コンダンニャ尊者は、いとも久しくたってから、尊師のところをおとずれた。近づいてから、尊師のみ足に頭を伏せ、尊師の両足にみずから接吻して、両手でなでた。そうしてみずからの名前を告げた。― わたしはコンダンニャでございます。尊師さま! わたしはコンダンニャでございます。幸せなお方さま!」
そこでヴァンギーサさんは、このように思った、― 「じつにこのアンニャーシ・コンダンニャ尊者は、いとも久しくたってから、尊師のところをおとずれた。近づいてから、尊師のみ足に頭を伏せ、尊師の両足に口ずから接吻して、両手でなぜた。そうしてみずからの名を告げて、わたしはコンダンニャでございます。尊師!様わたしはコンダンニャでございます。幸せなお方さま!」といった。さあ、わたしは、ふさわしい詩句をもって尊師の面前で、アンニャーシ・コンダンニャをほめたたえよう」と。
四 さて、ヴァンギーサさんは、座席から起ちあがって、一方の肩に上着をつけて、尊師に向かって合掌し、尊師に次のようにいった - 尊師さま。わたしは、ふと思い浮かぶことかあります。幸せなお方さま。わたしは、ふと思い浮かぶことがあります、
五「ヴァンギーサよ。では思い出して説け」と、尊師はいわれた。
六 そこでヴァンギーサさんは、ふさわしい詩句をとなえて、アンニャーシ・コンダンニャ尊者を、面と向かって称讃した。-―
「長老コンダンニャは、ブッダに従って次にさとった人である。かれは、精進の念篤く、〈しばしば安楽に住むこと〉と〈遠ざかり離れる生活〉を身に体得していた。
およそ、師の教えを行なう仏弟子の体得できるものは、すべて、かれ(コンダンニャ)が怠ることなく、従い学んだ結果到達したところのものである。
大威力をもち、三種の明知をそなえ、他人の心を究め知っているブックの弟子コンダンニャは、師の両足に〔頭をつけて〕敬礼する。」(サンユッタニカーヤ.1.8.9.vol.1)

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