ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章3 第一の執着する人々の経 (現代訳・解説)
7.3 第一の執着する人々の経(63)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、サーヴァッティーで、人間たちは、欲望の対象に限度を超えて執着し、楽しみ、むさぼり、縛られ、夢中になり、固執し、愛欲に溺れた者たちがいた。
大勢の修行者は、午前中に衣を着て鉢と衣料をもって、サーヴァッティーに托鉢に入りました。托鉢のためにサーヴァッティーを歩んで食事のあと托鉢から戻りお釈迦様のところに行き、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐り、申し上げた。
「尊き方よ、サーヴァッティーでは、人間たちの多くは、欲望の対象に限度を超えて楽し
み、むさぼり、縛られ、夢中になり、固執し、愛欲に溺れた者たちがいます」と。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
欲に愛着している人々は、五欲に束縛されている
この束縛を危険なことであると知らない
そういう煩悩に愛着している人々は
けして広く大きな水の流れを渡ることはできなであろう(76)
以上が第三の経となる。
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くりかえし、お釈迦様が語られる、欲望と束縛の話です。難しい理屈ではないのですが、なにより難しいことです。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Kāmesu sattā kāmasaṅgasattā,
もろもろの欲望に執着し、欲望に執着に執着する人は
Saṃyojane vajjamapassamānā;
束縛に罪を見ない
Na hi jātu saṃyojanasaṅgasattā,
生に縛るものに執着し固着する人は
Oghaṃ tareyyuṃ vipulaṃ mahantan”ti.
広く大きな激流を、渡ることはない
解 説
Kāmesu sattā kāmasaṅgasattā,
欲に愛着している人々は、五欲に束縛されている
*欲に愛着している。欲というのは眼・耳・鼻・舌・身に入る色・声・香・味・触、その
五つを探しているのですね。
*kāmasaṅgasattāのsaṅgaは束縛という意味。生命は五欲に束縛されているのです。
Saṃyojane vajjamapassamānā;
この束縛を危険なことであると知らない
*この束縛っていうのはすごく危険なことであると知らない。これこそ幸福に生きること
だと思っているのです。眼・耳・鼻・舌・身に依存することこそが幸福な生き方だと、
ものすごい勘違いをしているのだと。
Na hi jātu saṃyojanasaṅgasattā,
そういう煩悩に愛着している人々は
*Na hi jātu
*というのは、ありえないのだという意味。
*saṃyojanasaṅgasattā
*束縛ばっかり好きな人々はという意味。
*束縛と言ったら、家族に束縛する、会社に束縛する。そういうことよりも、正しいの
は、眼・耳・鼻・舌・身にある色・声・香・味・触に束縛している。
*科学的に言えば、家に愛着があると言っても意味がないのです、それは。眼・耳・鼻・
舌・身に入る情報に愛着があるのです。
Oghaṃ tareyyuṃ vipulaṃ mahantan”ti.
けして広く大きな水の流れを渡ることはできなであろう
*だから、愛着が素晴らしい、マイホームがすごく楽しいと思っちゃうと、その人は解脱
に達しません。この偉大なる、この結果である、この流れを乗り越えることは出来ませ
んと。だから、この大きな渡り難い流れですね。輪廻と言うのは。眼・耳・鼻・舌・身
に束縛しているだから、これを切るのは大変難しくなっているのです。だから、すごい
勇気をもって客観的に観察しなければいけないことになっているのです。
