ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第7章1第一のラクンダカ・バッディヤの経 (現代訳・解説)


7.1 第一のラクンダカ・バッディヤの経(61)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林(祇園精舎)のアナータピンディカ長者の聖園(舎衛城)で、尊者サーリプッタは、尊者ラクンダカ・バッディヤを、法話によって、教え、観(すす)め、励まし、喜ばせます。
 尊者ラクンダカ・バッディヤですが、尊者サーリプッタによって、法話によって、教えられ、観(すす)められ、励まし、喜ばされていると、何ものをも執着せずして心は煩悩から解脱しました。
 お釈迦様は、尊者ラクンダカ・バッディヤが、尊者サーリプッタによって、法話によって、教えられ、観(すす)められ、励まし、喜ばされていると、何ものをも執着せずして心が煩悩から解脱したのを見ました。
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


上、下、その他の全ての方向から、自由になっている
これが私である、私のものである、私に関係がある、などの見方が消えている
このように解脱人は、
かつて渡られたことのない、煩悩の大河を渡った
(74)
           以上が第一の経となる。



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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Uddhaṃ adho sabbadhi vippamutto,
上に、下に、すべての所で解脱した人は
Ayaṃhamasmīti anānupassī;
このわたしは、存在すると知ることがない
Evaṃ vimutto udatāri oghaṃ,
このように、解脱者は、激流を渡る
Atiṇṇapubbaṃ apunabbhavāyā”ti.
かつて渡れなかった激流を、さらなる生存がないために



解 説


Uddhaṃ adho sabbadhi vippamutto,
上、下、その他の全ての方向から、自由になっている
  *Uddhaṃ adho sabbadhi
 *あらゆる方面という感じで理解することもできます。全てのものごとから解放されてい
  る。無終着に達している。中道に達している。
 *東西南北上下に執着しないという意味ではありません。
 *個が他を認識する。認識するために眼・耳・鼻・舌・身・意から色・声・香・味・触
  ・法という情報を取り入れる。
 *これが、存在、命、生きることに関わる六方です。
 *一切、全てという単語も使います。
  *vippamutto
 *脱した、自由となったという意味
 *認識過程が起きていても、そこに執着するという機能はありません。
 *一般人は、生きていきたいから、執着があるから、渇愛があるから、必死で、意図的に
  認識し続けるのです。
 *結局はみんな認識対象を探しているだけなんです。生きるとは、仏教的に定義すると
  色・声・香・味・触・法を探し求めることなんです。
 *覚者には、自然法則で、何の意図も、意欲も、希望もなく「川が流れるように」現象は
  流れているだけです。
Ayaṃhamasmīti anānupassī;
これが私である、私のものである、私に関係がある、などの見方が消えている
  *ayaṃ-ahaṃ-asmīti
 *これが私であると
 *要するに、覚醒したとは、認識過程から『私』が消えるのです。
 *『私』が消えると、当然『他』も消えるのです。
 *覚者には『私』が消えているのです。
 *それで、一般人と覚者の差を理解するのです。
  *an-anupassī。
 *観察しない
Evaṃ vimutto udatāri oghaṃ,
このように解脱人は
Atiṇṇapubbaṃ apunabbhavāyā”ti.
かつて渡られたことのない、煩悩の大河を渡った
 *生命は瞬間たりとも「私」という幻覚から離れません。
 *世の中に「我を忘れる」という表現があります。
 *今行うことがあまりも強烈で、巨大で、自分の存在に気づく余裕は心にない場合に使う
  表現です。
 *しかし、俗世間では我を忘れた瞬間で普段できそうもないものを出来るのです。
 *解脱に覚る瞬間で初めて「私」が消える(滅する)のです。      



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伝 記


ラクンタカ・バッディヤ


 舎衛城のヴァイシュヤ出身。金持の家に生まれ、バッディヤと名づけられたが、背椎が曲った小人であるところからこの名がある。
 容貌の醜さを笑われたが、励んでさとりを得る。ブッダは他の比丘たちに、かれはその醜さのために比丘たちから蔑視を受けやすいけれども、すでにさとりを得て偉大な目的を達成したと賞賛し、尊いのはその形ではないことを教えた。
「テーラガーター」四六六~四七二を説く。


四六六 アサハータカ園のかなたにある林の茂みのなかで、バッディヤは、妄執を根こそぎに引き抜いて、そこで幸せに瞑想する。
四六七 或る人々は、鼓や節やドラで楽しむ。しかしわたしは、樹の根もとで、ブッダの教えを楽しむ。
四六八 もしもブッダがわたしに恩典を授けてくださり、そうしてその恩典をわたしが得ることができるのであれば、わたしは全世界の人々のために、つねに身体について〔身体は不浄である]念想することを選ぶであろう、
四六九 色かたちによって、わたしを測り、また音声によって、わたしを尋ねもとめた人々は、貪欲や情欲に支配されているのであって、(実は)わたしのことを知らない。
四七〇 内を知らないか、外をもみないで、あまねく(煩悩に)覆われている愚人―かれは、実に音声に誘われる。
四七一 内を知らないが、外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人―それもまた音声に誘われる。
四七二 内をも明らかに知り、外をもはっきりと見て、覆われることなしに見た人―かれは音声に誘われることがない。
   ラクンタカ〔・バッディヤ〕長老

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