ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第6章8遊女の経(現代語訳・解説)


6.8 遊女の経(58) 
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられた。
 ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)にて、ラージャガハには、一人の遊女に執着し、心が縛られた二組の人の集まりがいます。言い争い、紛争し、論争を起こし、互いに拳で争い、土くれで争い、棒で争い、刃で争う。この人達は、死んだり、死ぬほどの苦しみを受けます。
 大勢の修行者は、午前中に、衣を着て鉢と衣料をもって、ラージャガハに托鉢ために入りました。ラージャガハを托鉢のために歩んで食事のあと托鉢から戻り、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐った修行者たちは、こう申し上げた。
 「尊き方よ、ラージャガハには、一人の遊女に執着し、心が縛られた、二組の人の集まり
  がいます。言い争い、紛争し、論争を起こし、互いに拳で争い、土くれで争い、棒で争
  い、刃で争う。この人達は、死んだり、死ぬほどの苦しみを受けます。
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


人々は、がんばって得ているもの、得るもの
どちらも汚れている
病気と同じだと
自分を戒め、戒律や決まりを厳しく守る生き方、禁欲生活、儀式をやる修行
これは一つの極端です
このように教説者は
愛欲の中に過失なしというようなことを説く
これは二つ目の極端である
これらの両極端は墓場の増広(ぞうこう)です
墓場開発者が墓場に関する様々なものの見方を作る
一部は走り過ぎる
ある人はよく知らないで、それら両極端に執著する
ある人々はそれらに触れずに通り過ぎる。
それらをよく知ってそこにとどまらなかった人々
それに期待をかけなかった人々には、知らしめるための輪廻はない
           以上が第八の経となる。



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遊女をめぐる二組の集まりが争うお話


  
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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Yañca pattaṃ yañca pattabbaṃ,
それが得たもの、得られるべきものも
ubhayametaṃ rajānukiṇṇaṃ,
これら二つの塵にまみれて
āturassānusikkhato.
ひどく悩み病気になる
Ye ca sikkhāsārā sīlabbataṃ jīvitaṃ brahmacariyaṃ upaṭṭhānasārā,
戒めを真実とし、戒や掟や生き方や梵行や奉任を真実とするなら
ayameko anto.
これは一つに極端である
Ye ca evaṃvādino—
このように教説者は
‘natthi kāmesu doso’ti,
もろもろの欲望の家に欠点はないと
ayaṃ dutiyo anto.
これは二つめの極端である
Iccete ubho antā kaṭasivaḍḍhanā,
二つの極端は墓場を増大させる
kaṭasiyo diṭṭhiṃ vaḍḍhenti.
墓場は見解を増大させる
Etete ubho ante anabhiññāya olīyanti eke,
ある人は、二つの極端をよく知らないで執着し
atidhāvanti eke.
ある人は、速く走る
Ye ca kho te abhiññāya tatra ca nāhesuṃ,
そして、それをよく知ってそこに存在しない人は
tena ca nāmaññiṃsu, vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāyā”ti.
それによって思わなかったら、それを知らせるための輪廻はない




解 説


Yañca pattaṃ yañca pattabbaṃ,
人々は、がんばって得ているもの、得るもの
 *Yañca pattaṃ
  * ようするに、人々はがんばって得ている、獲得しているもの。獲得したもの。
 *yañca pattabbaṃ
  * これから得なくちゃいけないと人間ががんばって得るもの。
ubhayametaṃ rajānukiṇṇaṃ,
どちらも汚れている
 *rajānukiṇṇaṃ
  * どちらもくだらないのだと、汚れているのだと。
āturassānusikkhato.
病気と同じだと
 *この単語は日本語に訳されていないみたいです。
 *rajāというパーリ語は煩悩ですからね、塵でかまいませんが、汚れているのですね。
 *āturassānusikkhato ; ひどい悩む病気になることになるのだと。これで精神的に病気になるのだということなのです
 *世間での成功というのは、本当に成功かどうか疑うことはなく、ただ従う、それは病気
  だという意味
 *人は希望、願望、期待の病にかかって、様々なものを探し求める。求めるものの一部を
  収得したりもします。
 *どちらも、感情、煩悩で汚れた行為です。
 *人生が成功したと言って、人々も自分の心の汚れを自慢しているのです。
Ye ca sikkhāsārā sīlabbataṃ jīvitaṃ brahmacariyaṃ upaṭṭhānasārā,
自分を戒め、戒律や決まりを厳しく守る生き方、禁欲生活、儀式をやる修行
 *sikkhāsārā
  *自分を戒めることこそが修行の道であると固執して信じること
 *sīlabbataṃ jīvitaṃ ;
  *戒律、決まり、儀式などを厳しく守る生き方、
 *jīvitaṃ ;
  *修行者の人生は、修行者の道は、sīlabbataṃ ; 堅く禁戒を守ること、
 *brahmacariyaṃ
  * 梵行(出家修行)です。禁欲性活です。
 *upaṭṭhānasārā ;
  *奉仕行です。儀式をやることですね。
 *これらは、すべて苦しいことばっかりなのです。これは一つの極端です。
 *仕来り、習慣、儀式、儀礼、苦行などがひとつの道であると妄信すること。
  形を重視するのであって、結果(こころが清らかになること)を無視する。



ayameko anto.
これは一つの極端です
Ye ca evaṃvādino—
このように教説者は
‘natthi kāmesu doso’ti,
愛欲の中に過失なしというようなことを説く
 *愛欲は自然なもので、それによって心が汚れないという立場なんです
 *いわゆる俗世間的な生き方のことです。
ayaṃ dutiyo anto.
これは二つ目の極端である
Iccete ubho antā kaṭasivaḍḍhanā,
これらの両極端は墓場の増広(ぞうこう)です
kaṭasiyo diṭṭhiṃ vaḍḍhenti.
墓場開発者が墓場に関する様々なものの見方を作る
 *墓場とは遺体の製造工場のこと、二つの両極端とは種々様々な見解(宗教哲学)つま
  り、悟りに導かない見解のこと
 *そこで、このウダーナで持って行きたいのは、見解(ものの見方)のことなのです。
 *だから、これは目が見えない人々の章(Jaccandhavaggo)だからね。目ないのだよ。
  こちらの経(Gaṇikāsuttaṃ)でも目がないということを言っているのです。だから(極
  端に走ると)様々な見解(宗教哲学)を作るのです。
Etete ubho ante anabhiññāya olīyanti eke,
ある人はよく知らないで、それら両極端に執著する
 *その墓場(極端)がこの二つの悪しき考え方を増広(ぞうこう)せしめる。
 *この両極端を理解しない一部(苦行する人)は染著(せんじゃく)する
 *染著とは、仏教用語です。心が物事に執着して離れないこと。
atidhāvanti eke.
一部は走り過ぎる
 *一部(贅沢には何の罪もないと言う人)は走り過ぎる。早く死ぬのです。
 (数々の宗教哲学にはまってしまうことです。)
Ye ca kho te abhiññāya tatra ca nāhesuṃ, tena ca nāmaññiṃsu,
それらをよく知ってそこにとどまらなかった人々
na amaññiṃsu
ある人々はそれらに触れずに通り過ぎる
 *この部分は欠損部分と思われますので補完してあります
 *もし、人はこの両極端を知って、一つにも入らない、両極端について思考しないならば
vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāyā”ti.
それに期待をかけなかった人々には、知らしめるための輪廻はない
 *輪廻は(墓場は)成り立たないのです。


 *体に執着、ものに執着、親しい生命に執着などはわかりやすいのです。その執着は絶ちがたいのです。
 *一番質(たち)が悪いのは、意見、見解、主義、信仰、概念などに対する執着です。人間はこれに対して甘い考えをもっているのです。思考、見解に対する執着は絶つべきなのです。
 *このGaṇikāsuttaṃで仏道全部を語っています。人々が求めるものはくだらないのだと。それから人間を見ると両極端に入っているのだと。両極端のどちらに入っても概念・見解で頭がやられていると。だから、何にも見解に依存しない人には墓場は成り立たないと語っている。



  過去にえたもの と 未来に得られるかもしれないもの
  禁欲主義者 と 快楽主義者
  有の極 と 無の極
  極端は墓場を増大させるだけ
  論争しないで中道を歩めば輪廻から離れる

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