ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第6章4・5・6第一・二・三の異教の人々経の解説の後半

  


自己と世界・楽と苦 について仏教以外の説を語りながら修行の進んだ弟子にブッダの法(教え)を説く。当時の思想に対するブッダの回答の形をとりながら同時に縁起の理法をそれぞれの側面から説明しているのは6・4と同じだが説明の仕方が変わる


(1)我(アートマン)も世界も<常恒である>ではない
(2)我(アートマン)も世界も<常恒でない>ではない
(3)我(アートマン)も世界も<常恒である>かつ<常恒でない>ではない
(4)我(アートマン)も世界も<常恒であるのでない>かつ<常恒でないのでない>では
   ない
(5)我(アートマン)も世界も<自身で成ったもの>ではない
(6)我(アートマン)も世界も<他によって作られたもの>ではない
(7)我(アートマン)も世界も<自身で成ったもの>かつ<他によって作られたもの>で
   はない
(8)我(アートマン)も世界も<自身で成ったものでなく>かつ<他によって作られたものでなく>かつ<無因に生起したもの>ではない
(9)楽と苦は<常恒である>ではない、我(アートマン)も世界も<常恒である>ではない
(10)楽と苦は<常恒でない>ではない、我(アートマン)も世界も<常恒でない>ではな
   い
(11)楽と苦は<常恒である>かつ<常恒でない>ではない、我(アートマン)も世界 
   <常恒である>かつ<常恒でない>ではない
(12)楽と苦は<常恒であるのでない>かつ<常恒でないのでない>ではない、我(アー
   トマン)も世界も<常恒であるのでない>かつ<常恒でないのでない>ではない
(13)楽と苦は<自身で成ったもの>ではない、我(アートマン)も世界も<自身で成た
   もの>ではない 
(14)楽と苦は<他によって作られたもの>ではない、我(アートマン)も世界も<他に
   よって作られたもの>ではない
(15)楽と苦は<自身で成ったもの>かつ<他によって作られたもの>ではない、我(ア
   ートマンも世界も<自身で成ったもの>かつ<他によって作られたもの>ではない。
(16)楽と苦は<自身で成ったものでない>かつ<他によって作られたものでない>かつ
   <無因に起したもの>ではない、我(アートマン)も世界も<自身で成ったもので
    ない>かつ<他によって作られたものでない>かつ<無因に生起したもの>では
   ない


 * 世界(loko・世間)とはインドの形而上学では根底にある「輪廻と業」の世界ということ、お釈迦様の法(真理)の内側と仏教徒以外の説である「偽りの説」の両方を意味する
 * 我(attan・アートマン)とは「輪廻と業」と密接に結びつき自己を根底におかなければ形而上学は説明できないので使う言、つまりヴェーダ・ウパニシャットを学んだ人々に説明する言。
 *(1)~(8)と(9)~(16)はくり返しではなく、我(アートマン)も世界も常恒なら、楽と苦も常恒と言いたいのでこのように語る。同時にお釈迦様のいう世界(loko・世間)とは、苦(dukha)と楽(sukha)という生物が感覚器官で認知できる範囲(リミット)というのを表しています。
 * 苦(dukha)はduとkhaを、楽(sukha)はsuとkhaを組み合わせた言葉
duは悪い、難 khaは感覚器官を、suはよい、しやすいkhaは感覚器官という意味 
楽と苦は感受(受)のことです。


修行の進んだ弟子にお釈迦様の法(教え)を説く
Ⅰ 時間に関する説明をして「無常」を説く
Ⅱ 空間(存在)に関する説明をして「苦」を説く
Ⅲ 現象(特徴)に関する説明をして「無我」を説く
Ⅳ 法(世界)に関する説明をして「無我」を説く
 ここで世界とは名称と形態(名色)からでてくる一切(五蘊)を指している
  ⅢとⅣは内容的にはほぼ同じ


 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳで仏教徒以外の説を「中道」で語り、同時に「中道」の表現で法(真理)を語る つまりあらゆる思想・言語表現「名称と色形(名色)」を語り、無我を観ずる。


(1)は生滅(時間)が問題となる、我(アートマン)も世界も<常恒である>などの形而上学説を否定
(2)は空間(存在)が問題となる、我(アートマン)も世界も<常恒でない>などの形而上学説を否定
(3)は現象(特徴)が問題となる、我(アートマン)も世界も<常恒である>かつ<常恒でない>などの形而上学説を否定
(4)は法(世界)が問題となる、我(アートマン)も世界も<常恒であるのでない>かつ<常恒でないのでない>などの形而上学説を否定
上記(4)の語りは否定に否定を重ねる不可知論を引き合いに出して否定している
(5)~(8)では(1)~(4)と同じ論法でインド哲学の大問題である因中有果諭、因中無果諭を念頭に置いて、(8)では無因ではなく有因つまり縁起によって自己も世界も生起したものと説明しています
(1)~(4)で無常・苦・無我(四聖諦)を(5)~(8)で縁起を仏教以外の人々の教説を引き合いに出しながら修行の進んだ弟子にむけ説いている
(9)~(16)では(1)~(8)と同じ論法で楽と苦を説く



 我(アートマン)と世界は十二縁起でいえば「輪廻と業」つまり、無明を縁として行が生ずる。にあたる
 楽と苦は十二縁起でいえば、受を縁として渇愛が生ずる。にあたる


 無明から始まり、お釈迦様が「虚構の名称」がつくりだす我(自己)すなわち欲の原因である受(苦・楽)のながれ、十二縁起を説明しています
 ①無明→②行→③識→④名色→⑤六処→⑥触→⑦受→⑧渇愛→⑨執着→⑩有→⑪生→⑫苦
⑩~③が我(アートマン)と世界のながれ、 ④~⑨ が楽と苦(認識)の流れ
をそれぞれ説明している。
 このように仏教以外の教説をつかいながら、仏教以外の自我を認める人々にもわかる言葉で対立しないで説きながら、同時にお弟子さんの理解度に合わせて説き分ける対機説法で「縁起」と「四聖諦」を説いている経典


 このようなものが法(真理)であり、このようなものは法(真理)ではない


 上記のように二項対立(くらべる心)が対立の道です、仏教以外の人々の教説は、このパターンで論争していくとお釈迦様は示している、お釈迦様の道は「中道」です


6・5と6・6では、我(アートマン)と世界、楽と苦 について仏教以外の説を語りながら修行の進んだ弟子にお釈迦様の法(教え)を説いています



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 こみいった話なので、例え話で説明します


 ある日修行をはじめて間もないお弟子さんが悟りのことをお釈迦様に質問した時、お釈迦様は、山の頂を目指して登山することに例えて話をしたのです
お釈迦様は、登山する時はこのようなことを知らねばならないと、言い争いう人がいる
1、世界中のすべての山に登るには、どのくらい時間がかかるか
2,世界中のすべての山は、いくつあって、どのくらい歩くのか
3,世界中のすべての山に登る、人生の意味とはなにか
4,世界中のすべての山の頂上の眺めはどんなだろうか
 言い争っている人は、それぞれ一部分しか見ない、ふもとで言い争うのは無益と説き、悟りという頂を目指すのに、このようなことを、いま議論しても登山の役にはたたない、お釈迦様の教えという地図を手にもって、その道を歩きなさいと教える。
  そんななか、お釈迦様は口にされた


役立たないことばかり言い合っても、
したこともない登山の話を言い合っても
山の頂にはいけないのに 


 修行を積んだお弟子さんが悟りに関したことをお釈迦様に質問した時、お釈迦様は、山の頂を目指して登山することに例えて話をしたのです
1,地図を頼りに自分で歩く登山者にどのくらの時間歩けばいいのか
2,地図を頼りに自分で歩く登山者にどのくらいの距離を歩けばいいのか
3,登山道を歩くときに登山で重要な場所と特徴を説き
4,どのくらの時間歩けばいいのか、どのくらいの距離を歩けばいいのか、それと、地図全
  体の姿を語る
 お釈迦様は正しい地図を待たない人たちは、山の頂きには登れないでいるのに、いま議論しても登山の役にはたたないような言い争いばかりしていると語る
 お釈迦様は、このような論議は間違いだとは直接は言わずに、これはこうでないと、説きながら巧みにご自分の教えを、お釈迦様の教えを知らない人々には争わないように、慣れてない弟子には解りやすく、修行の進んだ弟子には理解できるように巧みに語りました。
そんななか、お釈迦様は口にされた


あれやこれや言い合っても
途中で遭難するのに


山の頂なんて
見てないものと、きづかないかな
ふもとにいても見えないのに


見てないものときづけば
ふもとにいても見えないと  
山の頂は見えていないと解るのに


見もしない山の頂のことを
あれやこれや言い合っても
山の頂にはいけないのに 



 それでも、世界中の登山のガイドブックを読み漁り、山の名前は、どの国にあるか、標高何メートルかなどなど、お釈迦様に質問し、答えてくれなければ動かないという弟子がいた。
お釈迦様は、
「世界の山のガイドブックをふもとで読んでいる暇があれば、渡した地図をもって、山の頂に歩き出すのが先だろうと」と
このように弟子に告げて送り出したというおはなしでした。」

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